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軍師

 足元が大きく傾いた。

 陸(おか)に乗り上げたように船首が天に向いた。

 大海鰍船を指揮していた丘岳は、落ちないように必死にしがみついた。

 何が起きているというのだ。周りの海鰍船も同じように動きを止め、その巨体を軋ませている。

「おおおおっ」

 今度は大海鰍船の船首が落ち始め、丘岳の体が宙に浮いた。船首が湖面に突っ込み、大きな水飛沫を上げる。

 丘岳の体が激しく甲板に打ちつけられた。他の兵たちも同じで、それだけならばまだしも、水中へと落ちてしまった者も多くいた。

 丘岳はずぶ濡れになり、嗚咽を漏らしながらも、まだ揺れる船上で何とか立ち上がった。

 目眩がする。

 丘岳の側に水夫の姿が見えた。

「手を貸せ」

 そう言って、丘岳が手を伸ばす。

 が、その手が、飛んだ。

 水夫がにやりと笑った。手には刀。

「梁山泊、錦豹子の楊林。敵将、討ち取ったり」

 飛んだ腕が甲板に落ちるのと同時に、今度は丘岳の首が飛んだ。

 官軍の姿をした楊林は、その首を拾うと次の獲物を求め、次の大海鰍船へと飛び移った。

 そこには梅展がいた。丘岳の最期を見ていた梅展は、すかさず三尖両刃刀を振るった。

 絶妙な手だった。だが、楊林の足が甲板に下りる寸前を狙ったそれは、別の刃に阻まれた。

「ちっ、邪魔をするな」

「そういう訳にはいかんよ」

 薛永が槍を戻し、梅展を見据えた。間を置かず槍を回し、突きを放つ。梅展はそれをかわし反撃に転じようとしたが、すぐ目の前に槍があった。

 ぎりぎりで首を捻り、槍をかわす梅展。だが息をつく暇もなく、槍が虎の咆哮にも似た唸りを上げる。

 後方の海鰍船が衝突し、大きく揺れた。

 梅展は思わず膝をついてしまった。薛永が傾きに乗じ、梅展に迫った。

「くっ」

 両刃刀で甲板を突き、体勢を整えるが、槍は梅展の太腿に突き立った。

 梅展は立ち上がれずに、また膝をついた。

 首筋にぴたりと槍先が当てられていた。

「武器を捨てろ」

 丘岳の体が転がっているのが見えた。

 梅展はおとなしく従うしかなかった。

 楊林、薛永のように水夫に化けて潜りこんでいた梁山泊の頭目たちが暴れていた。

 次々と沈んでゆく大海鰍船を見やる徐京の前に、李忠がいた。

 徐京の頬に汗が伝う。大海鰍船と兵たちの悲鳴が響き渡っている。近づく李忠に構わず、徐京は中軍船の方を見た。

 中軍船も梁山泊船に囲まれ始めた。

 聞煥章は見えない。奴を持ってしても、勝てなかったか。

 徐京は覚悟を決めたように息をひとつつき、前を見据えた。

 李忠が槍を構える。徐京が突進する。

 徐京は、李忠が突きを放つ瞬間、足の向きを変えた。徐京は船べりへ駆けた。そしてそのままの勢いで宙に身を躍らせた。

 李忠が追いつくと、徐京はすでに波紋の下だった。

 徐京は潜った。落ちてくる船の破片をすり抜けながら、岸を目指す。

 見ると大海鰍船は岩に乗り上げていた。ここの湖底だけが極端に高くなっていたのだ。まさか、これは策略だったのか。

 座礁した大海鰍船の底に、梁山泊兵たちが取りついている。またひとつ、大海鰍船が沈んだ。

 泳ぐ徐京は、左右に気配を感じた。

 徐京を挟むように童威と童猛が水中にいた。

 さしもの四足蛇も、蛟と蜃に敵うはずはなかった。

 ぞくりとしたのは、冷たい水のせいだけではなかっただろう。

 荒くなる呼吸を必死に堪え、葉春は逃げ道を探した。

 大海鰍船はほぼ全滅。高俅のいる中軍船ももうお終いだ。周囲の小海鰍船にも梁山泊の連中が紛れ込んでいたようだ。

 鬼の様な顔をした男、青い眼の男、体に痘痕のある巨漢らが暴れ回り、ついには指揮をしていた楊温が捕らえられてしまった。

 首が捻じ切れるのではないかというほど、あちこちを見る葉春。

「あんただったか」

 頭の上から声がした。飛び退るように振り向くと、そこに知った顔があった。

「お前、玉旛竿。まさかとは思ったが」

「そのまさか、さ。しかし」

 大海鰍船が沈む音を聞き、孟康が残念そうな顔をした。

「大したもんだな。海鰍船か」

 何と答えて良いのか分からない。葉春が改良を加えたとはいえ、元は孟康の案なのだ。

「思っていたのと同じだ。あの時考えていた船が、実際動くとこうなるだろうって、幾度も幾度も想像していた」

「どうして、梁山泊で造らなかったのだ」

 葉春は疑問をぶつけた。孟康ほどの男だ、図面は頭に入っていただろう。海鰍船がないから、孟康は死んだと思っていたのだ。

 ちらりと孟康が海鰍船を見た。それが答えだと言わんばかりに。

「なあ、孟康。俺は兵じゃない。梁山泊は善良な民には、手を出さないと聞いているぞ」

 葉春の手に武器があったが、腰はすでに引けていた。

 孟康は黙ったままだ。

「なあ、図面を盗んだことを恨んでいるのか。すまなかった。俺も船大工だ。あの図面を見た時、こいつは化け物だと直感したんだ。それでどうしても」

 葉春は命乞いを続けた。

 孟康は冷ややかな目で、

「盗られたことは恨んじゃいないさ。却って、こうして陽の目を浴びたんだ」

 ほっと葉春が息を吐いた。

 だがね、と孟康は言う。

「ここは戦場(いくさば)なんだ。善良な民なんて、いないよ」

 先ほどの鬼の顔の男が側にいた。

 その男、杜興が刀を揺らしながら一歩踏み出した。

 最期に、葉春が短い悲鳴を上げた。

 湖が騒がしい。

 梁山泊軍と戦闘が始まったのだ。

 陸路を進む王煥と周昂は兵に指示を飛ばし、援護のため駆けだした。だが進む山道に、梁山泊の一群が姿を見せた。

「すでに海鰍船は水の底に沈む運命だ。命が惜しくなければ、相手になってやろう」

 梁山泊副頭領、盧俊義が馬上で朗々と声を張った。

「山賊ごときが、ふざけた事を」

 周昂が大斧を振り回し、飛びだした。盧俊義も槍を構え、馬腹を蹴る。

 両者の得物が火花を散らす。ある時は馬を止め、また駆けさせ、十合、二十合と打ち合うが勝敗は決しない。

「なかなかやるではないか」

「ふん、貴様もな」

 盧俊義と周昂が一度離れた。一拍置き、駆けだそうとした時である。

 後方の軍から喚声が上がった。

「どうした」

 王煥が報告を求める。

「梁山泊の伏兵が」

「くそっ」

 王煥は刀を抜き、隊を率いた。だが東西から突っ込んできた梁山泊軍によって、後方と分断されてしまう。

 梁山泊騎兵を束ねているのは、初戦で見た将だった。林冲そして、荊忠を倒した呼延灼だ。

 林冲は部下に戦を任せ、王煥に正面を向けた。

 王煥の白髯が風に揺れる。林冲の蛇矛が角度を変えた。

 来るか。

「おい、王煥。退却だ。退却するのだ」

 突然、立ち合いの緊張が断ち切られた。周昂がそう叫びながら、道を離れてゆく。

 すぐに退却の鉦が鳴り渡った。敗色の濃かった官軍は、喜ぶように逃げだした。

 王煥も兵をまとめ、その場を脱した。

 馬上で一度、振り向いた。林冲はこちらを追わず、別の方向へと駆けていった。

 鼻から大きく息を吐き、梁山泊を見上げた。

 山上に替天行動の旗が、ゆっくりと風に揺れていた。

 

 負けだ。完膚なきまでに敗れた。

 表情を強張らせたまま聞煥章は、それでも必死に考え続けている。

 何とかしろと叫ぶ高俅だけでも、逃がさねばならない。

 四囲は梁山泊軍。水軍の援護に来るはずの騎兵も現れる様子がない。

 読み違えたか。

 いや、何が軍師だ。

 結局は机にへばり付き、黴臭い書物を読んでいただけの、青白い書生に過ぎなかったのだ。

 これが実戦なのだ。いまさらながら、聞煥章の心に現実という刃が突きつけられた。

 高俅を向いた聞煥章は、憑き物が落ちたような顔だった。

「太尉どの、服を」

 高俅は目を丸くした。聞煥章は、高俅に水夫の服を着ろと言うのだ。

「敵はあなたを狙ってきます。どうか」

 こうなってしまえば否やはない。

 体格の似た水夫の服を着、甲板へ逃げる。中軍船から脱出のための小舟を下ろす。

 突如、水飛沫が上がった。

 砲か。いや、水飛沫は下から上がっていた。

 水中から、だと。

 高俅と聞煥章の目が、水中から飛び出したものを見ていた。

 人、だった。真っ白な練り絹のような肌の男だった。

「む、貴様」

 甲板に降り立った張順が目を凝らす。

 水夫たちが悲鳴を上げ、逃げてゆく。

「貴様が高俅のようだな」

 ふと張順が動いた。

 阻止しようとする水軍を薙ぎ払い、あっと言う間に高俅の背後に辿り着いた。

 聞煥章は為す術がない。

「こんな肥えた体の水夫なんかいないからな」

 聞煥章の顔を見て、張順が爽やかに微笑んだ。

 次の瞬間、高俅が宙を舞った。

 梁山湖に、ひと際大きい水飛沫が上がった。

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