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暗闘

 誰も言葉を発しようとしなかった。

 いや、できなかったと言った方が正しいのだろう。

 高俅が敗れた。

 陸水、合わせて三度の戦で、十三万以上の軍が完膚なきまでに負けたのだ。

 蔡京の目は皺に隠れていて、はっきりと見えなかった。怒っているのか、はたまた嘆いているのか。

 楊戩は落ち着きなく、その様子を窺おうとしている。童貫は口を固く結び、眉間に深い皺を刻んだままだ。

 ふいに蔡京の口から言葉が漏れた。

「梁山泊か」

 楊戩と童貫が、はっとして顔を上げる。

「見謝っていたようだのう」

 楊戩がごくりと喉を鳴らした。

 梁山泊の強さを、ということか。高俅の弱さを、なのか。それとも両方なのだろうか。

「帝には」

「お伝えしておりません。いえ、できるはずがありません」 

「だろうな」

 楊戩が恐る恐る訊ねた。

「梁山泊を、どうするおつもりで」

「決まっておろう。許す訳にはいかん」

 ではまた討伐軍を出すのか。楊戩は曖昧な返事をするしかなかった。

「梁山泊はさておき、童貫。遼国の件はどうなっておる」

 急に水を向けられ、焦る童貫。

「首尾は上々です。交渉は大詰めで、直に良い報せが届くと思われます」

 ふむ、とだけ言い蔡京は続ける。

 次は江南で勢力を広げつつある方臘が率いる叛徒についてであった。

「劉夢竜の後釜に据えた韓世忠という将がおります。扱いにくい男ではありますが、実力は確かなものかと。その韓世忠を反乱の鎮圧に充ててはいかがかと」

 うむ、と蔡京が許可を出した。

 ほっとすると同時に、込み上げるものが童貫にはあった。

 自分は禁軍を束ねる枢密である。だが、蔡京の意にそぐわない決定ができないとは。

 目の前の枯れ木のような老人に、どれほどの力があるというのだ。実際に戦に出ているのは己なのだ。

「何か言いたいことでも」

「いえ」

 童貫は忸怩たる思いを秘めるしかなかった。

「楊戩、お前は宿元景の動向に注意していろ。奴はどうも、梁山泊に同情的なところがあるのでな」

「わかりました」

 蔡京が二人をねめつける。

「良いな。北の脅威も、江南での反乱も、梁山泊との勝敗も、何も起きてはいない。この国の民は平穏に暮らしており、それは帝の政のおかげである」

 蔡京はもう一度、確かめるように言った。

「何も起きておらん。帝の心を悩ませることは、何も起きておらんのだ」

 分かっておるな。分かったら出て行けという目をした。

 童貫、楊戩が部屋から消え、気配が遠のく。

 ふいに蔡京がむせた。激しい咳を何度かし、手巾で口元を拭いた。喉が笛のように鳴った。

 齢七十を越えた。このような咳をする事が多くなった。体も思うようにならない事が多い。椅子を支えにしてゆっくりと立ち、蔡京も部屋を出た。

「宰相さま、ご機嫌麗しゅう」

 王黼だ。蔡京が復帰の際に尽力してくれたので、抜擢してやった男だ。若い頃、美少年と呼ばれ、四十の今でも衰えるどころか、さらに深みを増したようだ。

「もう年だ。機嫌の良い日など滅多にない」

「ご冗談を。充分にお若くいらっしゃいます。宰相さまにもしもの事があれば、この国は立ち行(ゆ)かなくなってしまいます」

 口が達者でもあり、それ故か帝の覚えもめでたい。蔡京に恩を感じており、何かと役に立ってくれる。

 だがここのところ、時おり慇懃な態度を見せるようになった。

 そこへ王黼を呼びに、帝の使いが来た。

「もっとお話しをしたかったのですが」

 と頭を下げる。

 王黼が消えるまで、蔡京はその背を見つめていた。

 奴といい、台頭してきた若い連中が虎視眈眈と自分の座を狙っている。だが蔡京にとって、彼らはまだまだ青臭い若造に過ぎない。

 まだ退く訳にはいかん。

 ここでは、己の息子さえ敵である。

 痩せ衰え、牙も擦り減ったが、蔡京の目にはまだ炎が宿っていた。

 

 歓喜の雄叫びが、梁山泊にこだましていた。

 官軍に、高俅軍に、勝った。

 宋江がどさりと、倒れるようにして床几に腰を落とした。

「勝った、のだな」

「はい。宋江どのの願い通り、皆がやってくれました」

 呉用は羽扇をくゆらせ、目を細めた。

 頭領たちが、戦いから戻ってきた。

 最後の戦いにおいて、最も活躍したのは水軍だった。当然、彼らの帰還には大きな喝采が起きた。

「父さん」

 阮小二の姿を見つけ、息子の阮良が駆けてくる。

 阮良は、自分も戦に出たいと言った。だが父に叱られた。何故叱られるのか。自分も梁山泊のためになりたいのだ。そう思った。

 激しい戦だと聞いた。負傷者が次々と治療所に運ばれてきた。すでに息絶えている者も多かった。そのほとんどが水軍で、阮良は気が気ではなかった。

 その時、父の気持ちを理解した。

 そして戦が終わり、父が無事に帰ってきた。

 阮良は手前で駆けるのをやめ、唇を噛んだ。阮良の後ろに阮小五(げんしょうご)と小七(しょうしち)がいた。

 小七が背中を軽く押してやり、

「行って良いんだぜ」

 と笑った。

 弾かれたように阮良が走りだし、阮小二の胸に飛び込んだ。

 涙と鼻水まみれの阮良の頭を、阮小二の節くれだった大きな手が包みこんだ。

 ふいに歓声がどよめきに変わった。

 梅展、徐京、楊温、李従吉といった節度使たちが連行されて来たのだ。

 捕らえられてもなお、梁山泊の住人たちを睨みつけるような不遜な態度だ。腿を負傷した梅展は治療所へ、他の者は山上へと向かって歩かされる。

 石段を上がってゆくと巨大な門が現れた。そこには官軍と遜色のない、いやそれ以上かもしれない立派な武器たちがずらりと立て懸けられていた。

 さらに門を潜り、やっと忠義堂へと至る最後の門を抜ける。

 徐京ら節度使はぎょっとした。

 門の両脇に、天を突くような巨漢が居並んでいたのだ。

 摸着天の杜遷と雲裏金剛の宋万に見下ろされながら、中へと入る。左右に百余りの頭目たちが整列しており、旗指物がずりと立っていた。

 そして再び、節度使たちがぎょっとする。

 道の先に、先ほどの巨漢よりも大きな男がいた。巨人と言った方がふさわしい男が、これもありえないほど巨大な旗を独りで棒持していたのだ。険道神の郁保四である。

 旗に大書された替天行動の文字が揺れている。

 中央の広場に敷物が敷かれ、忠義堂を背に宋江が座していた。左右は呉用と盧俊義である。

 節度使たちが宋江らと相対して並ぶ。

 やがて彼らの間に動揺が走る。戦果が発表され、丘岳と葉春の首が運び込まれた。さしもの節度使たちも、同じ運命を辿りたくはないと思った。

 そしてそこにいる者たちの目が、一斉にひとつの方を向いた。

 石段を、張順が上ってきた。そして視線は、張順が手に持つ縄の先に集まっていた。

 高俅だった。

 水に濡れたまま縄をかけられ、怒りを爆発させんばかりに顔を赤くしている。

 節度使たちのすがるような目など一顧だにしない。転がる首にも臆せず、高らかに咆えた。

「わしを誰だと思っておる。宋国大尉、高俅であるぞ。わしの言葉は天子さまの言葉も同じ。わかったなら疾く縄を外さぬか」

「これは失礼を」

 宋江の指示で着替えが用意され、高俅の縄が切られた。

 ひったくるように着物を奪った高俅は堂々としたもので、その場でもろ肌脱ぎになった。

 こんな所で、と誰もが思った。

 場に張り詰めていた糸が緩んだ。

 刹那、高俅が動いた。

 真っ直ぐ、宋江に向かって両の手を鷲の爪のように広げ、駆けていた。

「小乙」

 盧俊義がそう叫ぶとほぼ同時に、燕青が跳んでいた。

 宋江と高俅の前に割り込むや、その手首を掴みとる。高俅の手は、宋江の首ではなく空を掴んだ。

 だが高俅は燕青を見て笑みを浮かべた。

 若いが、己よりもひと回りも細い優男(やさおとこ)だ。高俅も武芸には覚えがある。若い頃は荒くれ者どもをその腕でまとめていたのだ。

 力づくで手首を引き剥がすと、今度は燕青の腰めがけて腕を伸ばす。高俅はがっしと燕青の腰帯を掴み、引き寄せた。

「この野郎」

 と助太刀に行こうとする李逵を、焦挺が止めた。

「大丈夫。燕青には勝てない」

 いつもの無表情でそう言った。

 燕青は焦挺よりも強い。その焦挺が言うのだから確かなのだろう。

 高俅が一度膝を沈みこませ腰を捻り、その反動で掬うように燕青を投げ飛ばす。そのはずだった。

 動かなかった。

 高俅が力をいくら入れても、燕青はぴくりとも動かなかった。

 まるで年古りた巨木を相手にしているようだった。

 燕青の視線を感じた。悪寒がした。

 次の瞬間、高俅の体が浮いた。

 替天行動の旗が逆さまに見えた。

 息が止まるほどの勢いで、背中から落ちた。敷物がなかったら、これですまなかったかもしれない。

「貴様ぁ」

 立ち上がろうとした高俅だったが、足が言うことを聞かなかった。膝が笑ったようになり、無様に尻もちをついてしまう。

「守命撲(しゅめいはく)」

 ぽつりと焦挺が言った。燕青が使った技の名前だ。

 この騒ぎの中、腰をしっかりと下ろしたままの宋江に、盧俊義が囁いた。

「さすがです、宋江どの。身じろぎひとつしないとは」

「はは、そうではありません。突然の事に、動くことすらできませんでしたよ」

 高俅が宋江に指を突きつける。

「貴様ら、こんなことをしてただで済むと思うなよ。開封府に戻ったならば」

 そこまで言って、再び悪寒がした。先ほどとは比べ物にならない悪寒だった。

「戻ったら、どうすると言うのだ」

 林冲が、そこにいた。

 手に蛇矛を持ち、高俅の背後に立っていた。

 ひっ。声にならない悲鳴を、高俅が上げた。

 悪夢だ。毎晩のように見ていたあの悪夢と同じ光景が、目の前にあった。

「高俅。この日を待っていたぞ」

 一歩、一歩、確かめるように、高俅に近づく林冲。蛇矛がきらきらと光る。

 夢で、その蛇矛に貫かれ、絶叫と共に目覚める。何度その夢を見た事か。だが今は夢では決してない。

 貫かれたならば、永久の眠りにつくことになるのだ。

 玉のような汗が噴き出す。

「や、や、やめろ林冲」

 林冲は答えない。高俅を、獣の目でしっかりと捉えている。また一歩、林冲が近づいた。蛇矛が揺れる。

「やめてくれ、頼む。なあ、林冲よ」

 林冲が蛇矛を構えた。

 縛られたままの節度使たちは動けない。

 宋江も止めようとはしない。

 喉がからからだ。息が苦しい。

 蛇矛の切っ先が高俅に向き、風のように動いた。

「頼む、林冲。助けてくれ」 

 高俅の絶叫がこだました。

 林冲の瞳から獣の光が、消えた。

 蛇矛の先は、高俅の胸すれすれで止められていた。

 高俅は瞬きも忘れ、魂の抜けたような顔になっていた。

 林冲が背を向けた。

 天を仰ぎ、目を閉じて、大きく息を吐いた。

 何も言わず、振りかえることもなく、林冲は去った。

 高俅は虚ろな目で、はは、と乾いた笑いを繰り返すだけであった。

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