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暗闘

 さすがは神医だ。安道全という名は、梅展も聞いたことがあった。

 槍に貫かれた腿の傷は、すぐに塞がった。

 それには塗り薬の効果もあるらしい。薛永という男の家に伝わっていた製法だという。その薛永が、梅展に傷を負わせたのだから皮肉というしかない。

 捕らわれた節度使たちは縄を解かれ、梁山泊内で自由にできた。

 馬鹿な、と思ったが、常に監視の気配は感じた。それはそうだろう。

 違和感はあるが、出歩くのに不自由はない。梅展は梁山泊を散策することにした。

 戦の最中でも感じてはいたが、こうして改めて見ると感心するほどだった。梁山泊の甲や戦袍の造りにである。

 訳あって落草する前、梅展は織物を扱う商人だった。品物を扱う目は確かだと、いまでも自負している。

 風になびく旗を見上げる。

 梅展の横に、男が一人いた。薛永だった。

 薛永は同じように旗を見ながら、呟いた。

「これらを手掛けたのは、侯健という者だ」

「どれも見事だな」

「本人が聞いたら喜ぶよ」

 聞くと、その侯健は薛永の弟子だったのだそうだ。そして薛永に敗れた自分が、ここで侯健の作品に出会った。なんとも不可思議な話だ。

 薛永と共に侯健と会い、着物を数着ほど預かった。

「あんたらとは敵同士なんだぜ」

 侯健の言葉はもっともだった。

 数日中には東京開封府へ帰還できることになっている。

 王煥はこの戦いが終わって生き延びたなら、引退すると言っていたという。梅展もそうしようかと思い始めた。

 敵の品物を売ろうなどと、焼きが回ったものだ。

 しかし織物商だった往時を思い出し、梅展の心が疼いた。

 

 高俅が開封府へ帰還した。

 宋江は、招安の件を奏上するように約束させた。

 その際、高俅の目付役として蕭譲と楽和を開封府へ送り込むことにしたのだ。

 だが呉用は、

「見たところ、あの男は蜂目蛇形の相です。例え恩を受けてもその場限りで忘れ、却って恨みを忘れる事がないでしょう」

 と言った。

 史進が、王進から聞いた話でもそうだった。高俅は若い頃、王進の父に受けた屈辱を、ずっと覚えていたというのだ。

 なるほど呉用の読みは当たっているのだろう。

 心配する宋江に、盧俊義が言う。

「やはり高俅は信用なりませんな。帝に直接、伝えるしかないでしょう」

 しかし、という宋江の前に、燕青が片膝をついていた。

「宋江どの、覚えていますか。李師師のことを」

 うむ、と宋江が頷く。

「あの時、宋江どのの想いを綴った手紙を渡しております。もう一度話ができれば、必ずや上手く事を運んでみせます」

「いま開封府に行くのは、危険すぎる」

「楽和どのと蕭譲どのの事もあります」

 ううむ、と宋江が唸る。しばし悩み、燕青の策を採用した。

 そこへ聞煥章が連れられてきた。楽和たちの代わりに、梁山泊に残された人質だった。

 聞煥章が宋江らと向き合う。

「呉用どのの手腕、感服いたしました」

「いえ、私などは何もしておりません。ここにいる皆が、自分で案を考え、検討し、実行したのです」

 と謙遜するように言ったが、顔の前で揺れる羽扇で、それを読み取ることは難しかった。

 兵書を諳(そら)んじ、用兵を語ったところで、呉用や朱武のように、実戦を幾たびも経なければ、何の役にも立たないのだ。生きながらえ、それを知れただけでも収穫ということか。

 だが気になることがある。梁山泊が実は、招安を願っているという事だ。

「確か、二度も招安を断ったと聞いておりますが」

 宋江が切々と語りはじめた。

 なるほど、筋は通っている。

 梁山泊に対する勅使の態度。そして宋江を処断するための勅書の歪曲。聞煥章も諌めたが、あれは梁山泊だけではなく、天子を蔑ろにする行いだ。

 聞煥章は思わず口にしていた。

「私の知己に、太尉の宿という者がおりまして」

「宿どの、ですと」

 宋江が飛びあがらんばかりになり、目を大きくした。

「もしかして、宿元景どのでは」

「そうですが、どうしてその名を」

 はたと聞煥章は思い当たった。もしかして宿元景は梁山泊と接触していたのではないのか。そして宋江とも会っていた。だから梁山泊の事を好意的に語っていたのだ。

 聞煥章は苦笑した。宿元景にうまく利用された。

 徐京からの要請があったと聞いた時、こうなる事を見越して、自ら招聘に赴いたのだ。

 相変わらず一筋縄ではいかない男だ。しかしむしろ、腹の探り合いが常の政治の世界では、そうでなければ生き残れないのだろう。

 まったくこれではどちらが軍師か分からないではないか。

「私でよければ、宿太尉に一筆認めましょう。きっと力添えになってくれるはずです」

「そうですか。それは願ってもないこと」

 聞煥章の書簡は戴宗に渡された。

「戴宗、燕青。頼んだぞ」

 二人を送り出し、宋江は玄女の書を見る。

 宿に遇は重々の喜び。

 あの言葉は、この事を指していたのか。

 そして、高に逢うは凶ならず、か。

 高俅との戦いも、梁山泊にとっては凶事ではないという事だ。

 その言葉通りになれば良いのだが。

 宋江は天書を閉じ、梁山泊の行く末に思いを馳せた。

 

「どうした、魯の兄貴。そんな顔をして」

 林冲にそう言われた魯智深が、ぐびりと酒を呷る。

「あの時、よく高俅を手にかけなかったものだと感心しておるのだ」

 その言葉に林冲は苦笑いを浮かべた。

「いつも魯の兄貴が、仏の道を説いてくれたおかげさ。あの時、奴は丸腰だったからな」

「がはは、冗談を言うな」

 ふふ、と林冲も微笑み、窓から見える月に目をやった。

 己の運命を狂わせ、妻の命を奪った憎き高俅。必ずやその胸に槍を突き立ててみせる。そう固く誓った。

 それを果たせずに何年経ったのだろうか。

 そしてついに訪れた、その時。

 だが目の前にいたのは、恥も外聞もなく命に必死にしがみつく、腹のたるんだ浅ましい男だった。

 俺が憎んでいた男は、そこにはいなかった。

 あの時の想いが、途端に薄れたのが分かった。殺そうとしていた男に、哀れみさえ覚えた。

 すまぬ、梅雪。弱い男だ、俺は。

 少し悲しそうな顔で、林冲が酒を干した。

 向かいの楊志も酒をちびりとやった。

「もっとも、あそこでお主が殺していたら、招安は完全に立ち消えになっていただろうな」

「なんだ、楊志。残念そうな物言いではないか」

 魯智深がからかうように覗き込む。

「確かに招安を受けるのは癪ではある」

 だが、と楊志が外を見た。林冲と魯智深がその視線を追う。

 少し離れた広場から、えいやあ、という少年たちの掛け声が聞こえてきた。誰かがこんな夜遅くまで武芸の稽古をしている。

 それは呼延灼と徐寧の息子たちであった。

 まだ幼いと言ってよい二人であるが、父の血をしっかりと引いているようだ。

「あの子たちには未来がある。梁山泊として生きるのは、俺たちだけで充分だ」

 しかし、と楊志は続ける。

「あの高俅の事だ。招安はおろか、梁山泊に敗れたという報告などしないのではないか。そうなると楽和と蕭譲の事が気にかかる」

「確かにな。開封府へは燕青と戴宗が向かったというが」

 林冲も眉間に皺を刻んだ。

 ひとり魯智深だけは違った。

「心配するなでない。あいつらに頼んでおいた」

 魯智深がにんまりと笑みを浮かべた。

「まあ、少し頼りなくはあるがな」

 と、剃り上げた頭をぽりぽりと掻いた。

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