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暗闘

​三

「おや、あんたは、いつぞやの」

 老女将は燕青の顔を覚えていた。

 それはそうだ。あれだけの騒ぎを巻き起こしたのだから。

「何しに来たんだね」

 老女将はあからさまに嫌味な顔をする。

「この前は申し訳ありませんでした。つきましては旦那さまから、お詫びをしてくるようにと仰せつかりまして」

 荷物から大振りの金子をちらりと見せると、老女将の顔に笑顔が現れた。

「あら、お詫びだなんて」

 と大げさに喜んでみせる。大した役者ぶりだ。

「ご迷惑ついでに、あのお方にもお礼をお持ちしているのです。ぜひお会いできませんでしょうか」

 老女将は少し考え、媚びるような目をした。察した燕青は、また金子を取り出した。

「ええ、ええ、構いませんとも。すぐにあの娘を呼びますからね。先に部屋に上がっていらして下さいな」

 老女将は金子をひったくるように受け取ると、老女将は奥へと消えた。

 燕青が待つことしばし、部屋の外に気配がした。

 静かに扉が開き、李師師が姿を見せた。

 陶然とするような芳しい香りが鼻をくすぐる。

「また来てくださって、嬉しいですわ。張間さま」

 名を、仮の名だったのだが、覚えていたらしい。さすがというべきか。

「この前は大変な騒ぎになってしまい、ご迷惑をおかけしました。旦那さまが来られず、代わりにお詫びに参りました」

 くすくす、と李師師が鈴の音のように笑った。

「嘘おっしゃい。一体あなた方は何者なのです」

 李師師がからかうように訊ねた。

「あなたの旦那さまが残していった詞を読んで、気になっていたのです」

 李師師は宋江が書いた詩を取り出した。そして自らの考えを伝えた。

 もしかして梁山泊の人間なのではないかと。

 とても聡い女性だと、燕青は感嘆した。あの詞からそこまで導き出すとは。帝の目に適うのも頷ける。

「ご明察、感服いたしました。おっしゃる通り、私の主人とは梁山泊の頭領、及時雨の宋江どのなのです。共にいた方は、大周の末裔、小旋風の柴進どのです」

 李師師は得心したように微笑んだ。

「して、あなたは。張間、ではないでしょう」

「私は、燕青と申します」

「燕青。浪士、ですね」

 これには燕青が驚いた。

「あなた方の噂は、東京開封府でも持ちきりです。何ゆえ、危険を冒してまで、ここにいらしたのですか。ゆっくりお聞かせいただけないかしら」

 李師師が給仕らに声をかけ、酒食や菓子などを運び込ませた。どれも珍しいものばかりで、高価であろうと思われた。

 準備ができると燕青に卓を勧める。

 だが燕青はそれを固辞した。

「私は大罪人の身。差し向かいに座るなど」

「そんな事おっしゃらないでください。梁山泊の好漢は、義の方々と聞いております。大罪人などと」

 李師師は優しい眼差しを向ける。

 開封府でも、梁山泊はそう受け止められているのか。嬉しい限りだ。

 機と見た燕青は、話を切り出した。

 李師師が言うように、自分たちは民のために戦っている事。その相手は国を害する奸臣である事。そして、梁山泊は招安を求めている事を、つぶさに語って聞かせた。

 李師師は静かに聞いていた。語る燕青の真摯な目は、決して嘘をついていない事が知れた。

 招安。

 金鶏の消息を待つという箇所は、思った通り帝の言葉を待つという事だった。

「高太尉と戦をしていると聞いてはいましたが、すでに終わっていたのですね。でもあなたの言うように太尉は、帝に申し上げることはしますまい。私も太尉の事は知っているつもりです」

 相談の前にまずは、と李師師が酒を進めた。

「酒の飲めぬ性質でして」

 酒のせいで仕損じてはいけないと、燕青はそれを拒んだ。

 だが李師師は酒を持ったまま、艶のある瞳でじっと燕青を見つめたかと思うと、少女のように目じりを下げ、笑(え)んで見せた。長く、美しい睫毛(まつげ)が揺れた。

 目を反らし、燕青は杯を差し出し、数杯だけ酒を重ねる。

「理解してくれる人がいないというのは、本当に辛いこと」

 ふいに李師師が悲しそうな目をした。

 李師師が自分自身の事を言っているのではないかと、燕青は思った。

 母は李師師を産んだ時に死んだ。ほどなくして父も死んだ。李師師は幼くして親戚に引き取られ、若くしてこの道に入らざるを得なかったという。

 長じて世の男たちを手玉にとる芸妓と噂されるようになり、帝の寵愛さえも受けるに至った。

 聡明で強い女性だと思っていた李師師がふと見せた儚(はかな)さのようなものに、燕青はなにか吸い込まれるような感じを覚えた。

「酒席のなぐさみに、一曲聞かせていただけないかしら」

「心得がない訳ではございませんが、あなたの前で披露できるものではございません」

「では先にわたしが」

 李師師が女中に持ってこさせた簫を奏でた。その音色は、まるで雲を穿ち石を裂くような見事なものだった。

 燕青は盧俊義によって、さまざまな師に芸事を教え込まれたが、これほどの音色は聞いたことがないほどだった。燕青は素直に感心した。

 では、と李師師が簫を渡す。

 燕青がまずは静かに奏で始める。

 力強い曲調の李師師に対して、燕青は嫋嫋と薫風が吹くかのような音色だ。

 李師師は嬉しそうに目を細めた。

 また順に小唄を披露し合い、酒を酌み交わす。

 いつしか燕青も李師師に対して、心を許し始めている事に気が付いた。

 唄や楽器などの芸に関しても学ぶべきものがあったし、話も上手く、自然と顔には笑みが浮かんでしまう。

 今までこうして誰かと通じ合っていると感じた事は、ついぞ無かったのではないか。

「聞くところによると、見事な彫り物をしていらっしゃるとか」

 見たい、と李師師が言う。

 拒んだ燕青だったが、懇願する李師師に折れた。

 上着を脱ぐと、燕青の引き締った体が現れた。

 無駄な肉など一切無いその体に、やはり見事な彫り物が施されていた。盧俊義が依頼した、とある高名な彫り師によるものだ。

 李師師は声にならない声で感嘆した。

 と同時にまたも哀しそうな表情になった。

 そこには、麒麟と燕が彫られていた。

 一頭の勇壮な麒麟の周りで、可憐な燕が遊んでいる。

「あなたもわたしと同じ。誰かのものなのね」

 李師師の手が、燕青の体に伸びる。

 すっ、と身をかわし、燕青は上着を素早く着込む。

「宜しければ、戯(たわむ)れにお付き合いください」

「あら、何かしら」

 燕青の申し出に興味を示す李師師。

「前に易者から、相手の干支を観る業を教わりましてね。甲戌とお見受けしますが」

 くすっと李師師が微笑んだ。

「残念ですわ。若く見られて光栄ですが、ふたつ上の壬申ですの」

 途端に燕青が跪き、李師師へ拱手を捧げるように差し出した。

「私の干支は甲戌。年下のくせに出過ぎた真似をし、失礼をいたしました。もしお目をかけていただけるのであれば、どうか姉上として礼を受けとってくれませんか」

 と言うや、八拝の礼をしてしまった。

 李師師が大きく嘆息した。呆れたような、残念そうな顔をした後、楽しそうに笑った。

「やられたわ。さすが浪士ですこと」

「いえ、騙すような真似をしてしまい、申し訳ありません」

「久しぶりに楽しかったわ。ありがとうと言わせて下さい」

「礼など」

「ともかく立って下さいな。約束通り、相談に乗りましょう。梁山泊が招安を待っていることを、天子さまに伝えたいのですね」

「はい」

「あのお方はいつお見えになるか分からないわ。だから、ここにしばらく住んではいかがかしら。そうすれば直接、お願いすることができるわ」

 ひとつ屋根の下はさすがにと思ったが、李師師の言う通り、その機がいつ訪れるかはまさに神頼みだ。それを逃す訳にはいかないのだ。

 それに姉弟の礼はとった。よもや無粋なことはするまい。

「わかりました。お言葉に甘えさせていただきます」

 下男に客間を片付けさせているうちに、日も傾いてきた。

 あてがわれた部屋で所在なさげにしていると、店の中がざわつき出した。

 ばたばたと何人かが廊下を走る音が響く。足音が遠のき、しばらくするとこちらへ近づいてきた。そして李師師の部屋へ入ってゆく。

 声が聞こえた。

 燕青は飛び上がるように寝台から立ち上がった。

 もう一度、聞こえてきた。

「今夜、あのお方が見えられます」

 店が物々しい雰囲気に包まれた。

 窓も戸もすべて閉じられ、明かりが灯される。

 給仕や下男たちは息をひそめ、その存在を消そうと努める。

 物音ひとつなくなった頃、店の奥、秘密の地下道へ続く扉がゆっくりと開いた。供の宦官(かんがん)が先に姿を見せる。

 その後に現れたのが、白衣の書生の姿をした帝であった。

 髪を梳り、綺麗に飾りたて、着物を正した李師師が出迎える。

「ご機嫌麗しゅう」

「ああ、そうあらたまらなくて良い。久かたぶりに来たのだ、一緒に座りなさい」

 李師師が卓につき、酒を注ぐ。

 帝は杯に口をつけ、ぐっと飲み干すと、吐息を漏らした。この場所が、李師師といられるこの場所だけが、ひとりの人間に戻る事ができる唯一の場所なのだ。

 とりとめのない話でも、李師師は上手に聴いてくれる。時おり相槌を打ち、楽しそうに笑う。それだけで良いのだ。

 しばらく酒が進み、某という官僚の家族の話題になった。

 機と見た李師師は、思い出したように言った。

「そういえば、わたしの従弟が、いま帰って来ているのです。憚りながら、天子さまにお目見えしたいなどと申しておりまして。小さい頃から諸国を流れ歩いていたもので、珍しいお話でもお耳に入れられればと思いまして」

「ほう、従弟とな。そなたの家族ならば遠慮することはない。諸国の話も興味がある。呼んで構わん」

 では、と李師師が女中に声をかける。

 しばらくして恭しく顔を伏せた燕青が、部屋へ入ってきた。

「構わぬ、顔を上げなさい」

 ほう、と帝が唸った。

「そなたの家族というだけはある。なんと美しい顔(かんばせ)だ」

「もったいないお言葉」

 竜顔を拝した燕青はすぐに顔を伏せた。

 これが帝か。

 衣裳のせいもあるだろうが、背はそれほど高くはなく華奢な印象だった。だがやはり話し方や挙措から、隠しきれぬ高貴な風格が醸し出されているのが分かった。

 道君皇帝、風流天子などと呼ばれるが、胸の内に何か秘めているのを、燕青は感じたような気がした。

「従弟は楽器や歌もなかなかの腕なのです」

「なるほど、血は争えぬな」

「ですが存じているのは、俗っぽいお耳汚しの曲(しらべ)ばかりで」

「良い良い。むしろそういったものを聴くために、ここへ来ているのだ」

 言って帝は嬉しそうに笑った。

 李師師が拍子木を持ち、燕青が喉を開いた。

 春先の鴬が囀るように、清らかな余韻を長く漂わせた歌声を、帝も李師師も目を閉じ、陶然と噛みしめた。

「素晴らしい。もう一曲お願いできるかな」

 帝が手放しに褒めちぎる。

「それでは、私が作りました字足らずの詞(うた)がございますが」

「よろしい」

 詞は木蘭花。

 哀告を聴け、から始まり流落の身を嘆き、火中から助け出してくれる人がいれば、大恩人として忠孝をもって報いたい、というものであった。

 帝は燕青の歌声に感心したものの、疑問を投げかけてきた。

「何故、そのような詞を作ったのだ。何か訳があるのか」

 さっと燕青がひれ伏した。李師師も表情を固くし、着物の裾を強く握った。

「本当の事を申し上げます。なのでどうか、お騒ぎなさらぬよう、お願い申しあげます」

 うむ、と帝が促す。

「実は私、梁山泊から参りました燕青と申します」

「梁山泊、とな」

 騒ぐなと言っても、助けを求めて大声を出すかもしれない。その時は、帝を取り押さえるしかないと思っていた。だが意外にも帝は落ち着き払った様子で、興味深げに見つめ返してきた。

「いま高太尉がそなたらと戦をしているはずだ。その大事の中、こんな所までよく来られたものだ」

「いえ、戦は終わっております」

「なんと」

 その言葉に、帝は驚いた。

「戦は終わった、と申したのか。どうなったのだ」

「畏れながら、梁山泊が大勝いたしております。高太尉は、数日も前に開封府へ戻っているはずです」

 信じられぬという顔をした帝だったが、思い出したように杯を掴み、酒で喉を潤した。

「先の童貫との戦でも、梁山泊は圧勝しております。懸念した通り、高俅は敗戦を隠し通すため、おそらく屋敷に籠っているのでしょう」

「高太尉の軍を破ったと申すのか。ならば今度は、朕の首を獲りに来たという訳か」

「いいえ、決してそのような事で来たのではございません。招安のために、参った次第です」

「招安だと。招安ならば二度も出しておるではないか。それを蹴ったのは、そなたらの方ではないか」

 顔を上げ、帝を見据えた燕青がこれまでの経緯(いきさつ)を切々と語った。

「それは、誠なのか」

 燕青が首肯すると、帝は下唇を噛んだ。

「我らが頭領は申しております。天子さまは公明正大なお方であると。ただ、いまは奸臣どもが宮中に蔓延(はびこ)り、目を隠されている。梁山泊はそれら害虫を取り除き、苦しむ民を救うために戦っているのだと」

「梁山泊が、朕の力になると申すのか。それ故の招安と」

「はい。ただし、招安には条件がございます」

「大胆な事だ。申してみよ」

「招安後も梁山泊の存在を、認めていただきたい。そうすれば、我らは喜んで国に、民のために力を尽くすと約束しましょう」

 燕青は凛とした瞳で、決然と言い放った。

 解体されることなく、梁山泊を存続させる。

 それこそが招安を受けるための要(かなめ)なのだ。

「高太尉が負けたとなれば、梁山泊と戦える軍はない。認めぬ、とは言えないようだな」

「決して、脅している訳ではございません。どうか取り戻していただきたいのです。天子様ご自身の手に、政を」

「朕の、手に」

 目を細め、帝は自分の掌(たなごころ)を見つめた。

 思い出した。

 帝位を継いだころ、民のための政をしようと熱意に満ち溢れていた。

 新法党、旧法党の争いによる混乱を収めることに努めた。だが蔡京が政権を握ると、己の対抗勢力を次々と弾圧。蔡京の息がかかった者が大半を占めるようになり、政に目を逸らすようになった。本来、長けていた芸術の道へ目を向け出したのだ。

「北方の異民族の台頭、各地で賊徒が蔓延り、良民たちが苦しんでおります。奸臣どもは知らぬふりを決め込み、のうのうと肥え太っているのです。どうかその目で、耳で、民の窮状を知っていただきたいのです」

 しばし思案し、帝がぽつりと言った。

「話は分かった。招安の件は、追って沙汰があろう」

「賢明なご判断です」

 また来ると言い残し、帝が去った。

 李師師がじっと見つめてくる。

「ご迷惑をおかけいたしました。ありがとうございます」

 荷物をまとめ、燕青が帰る支度をする。

「どうかお達者で、姉上」

「あなたこそ」

 最後に一度だけ目が合った。

 李師師が引きとめることはなかった。

 燕青も振り向くことはなかった。

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