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仇敵

 馬が風のように駆けている。

 それを操る瓊英が、険しい顔をしていた。

 ついに威勝を陥とした。田豹と田彪を捕らえると、残りの兵はすぐに投降を始めた。

 葉清と范権の呼びかけが功を奏した。これ以上無駄な血を流したくはない。二人とも同じ考えだった。

 鄔梨の妻猊氏は自害していた。瓊英は胸が痛くなるのを感じた。仮にも育ての親だったのだ。

 葉清が優しく肩に手を置いた。

「気に病むことはない。お前の本当の親は、田虎と鄔梨に命を奪われたのだ」

「そう、ですね。でも、なんだか悲しくて」

「お前が優しい娘に育ってくれて良かった」

 そこへ安氏が姿を見せた。

「おば様」

 抱き合う三人。瓊英の目から涙がとめどなく流れる。葉清が強く抱きしめる。礫の技を覚え、武芸の腕があったとしても、まだまだ年端もいかない子供なのだ。

 これまでよく耐えた。葉清そして安氏の目にも涙が光る。

 だが葉清と瓊英を慌ただしく呼ぶ声がした。

「ここにいたか」

「一体何事です」

 馬霊がそこにいた。襄垣方面で田虎軍と相対していたはずだ。

「田虎を逃がしてしまった」

 馬霊が悲痛な面持ちで言った。

 瓊英は無意識に駆けだしていた。葉清の声が聞こえたが、止まらない。

 馬に飛び乗り、威勝を飛び出した。

 

 田虎が馬を駆っている。

 その顔は怒りに満ちていた。

 全羽が援軍に現れた。田虎軍は一旦、襄垣へと向かった。

 しかし、である。

 城内に入り、悲鳴と怒号が響きわたった。

 胡英が落とし穴にはまり、上から突き殺された。城外へ逃げようとした唐昌だったが、全羽の槍に果てた。護衛の兵たちが次々と斬り伏せられてゆく。

 罠だった。

 田虎は生け捕りにせよ。全羽の声が聞こえる。

 田虎は逃げた。

 ふざけるな。捕まってなるものか。田虎は駿馬に乗っており、追いつける者はいなかった。

 単騎、山沿いを駆ける田虎。

 襄垣が敵の手に陥ちていた。葉清か。奴が鄔梨を殺したのだな。やはりあの時、殺しておくべきだったのだ。

 そして全羽とかいう男は。いや、もはや何者でも良い。

 どこへ行くべきか。威勝は、危険だ。己の嗅覚がそう告げている。

 この辺りは、猟師の頃駆け回っていた庭のようなものだ。草一本についてまで知り尽くしている自負はある。山に隠れ、ほとぼりが冷めたら金国へ向かおう。同盟を結ぼうと画策はしていたのだ。

 北へいくらか走ると、辺りが暗くなってきた。夜にはまだ早い。また雨か。

 風が出てきた。やはり雨のようだ。しかし雨は降らず、風だけが強く吹いている。そして黒雲がのしかかるように低く垂れこめてきた。

 毒づきながらも馬を飛ばしていると、何か聞こえた気がした。

 まさか梁山泊か。いやそんなはずはない。

 しかし確かに風の音に混じって、声のようなものが聞こえてくる。

 女の声だ。

「誰だあっ。隠れてないで出てこい」

 田虎が唾を飛ばす。

 突然、馬が棹立ちになった。田虎は体勢を崩し、落馬してしまった。

「ああ、待て」

 馬がどこかへ駆け去ってしまった。

 くそ、と毒づいた田虎の目の前に、大きな石が横たわっていた。人の大きさほどもある、白い石だった。

「なんだ、こいつは。むっ」

 また声が聞こえた。

 声は、石の方から聞こえる。

 田虎は注意深く、近づいた。

 風が巻き起こった。

 風が止んだ時、目の前に女がいた。

「奸賊田虎、お前は我が家の仇。決して逃したりはしない」

 

 田虎はどこにいる。

 飛び出したものの、無暗に駆けても見つからないか。

 その時、瓊英は聞いた。蹄の音。前方から。敵か。腰の袋に手を添える。

 馬だった。人が乗っていない。何かに怯えたように、駆け去ってしまった。

 見覚えがある。あれは田虎の馬だ。

 この先に、いる。

 田虎が、いる。

 その方向の空が暗い。近づくにつれ、雲は空全体を覆うようになった。

 見つけた。やはり徒歩(かち)だ。

 何だ。田虎の周りに靄(もや)がかかっているように見えた。

 瓊英は方天画戟を脇に挟むようにして支え、そのまま駆ける。

 田虎がこちらに気付いた。刀を振り上げ、噛みつかんばかりに吼えた。

「貴様あ、この裏切り者があ」

 田虎が歯を剥き出して吼えた。

 怖い。

 手が、脚が、体が震える。

 鼓動が早い。息が苦しい。

 目を逸らしてしまいそうになる。

 す、と瓊英の腕に、何かが触れた。

 優しくて、暖かい。懐かしい匂い。

「大きくなったわね」

 囁きが聞こえた。

 この、声は。

 震えが止まった。

 お母さん。

「田虎、父と母の仇。覚悟っ」

 瓊英の画戟が閃いた。だが、手ごたえが無い。

 あっ、と瓊英が声を上げた。視界が揺れた。馬がよろめいた。瓊英が地面に放りだされ、背をしたたかに打ちつけてしまう。だがすぐに立ち上がった。田虎がそこにいるのだ。

 見ると、馬の首から血が夥しく流れていた。

「くくく、お前のような娘一人に、わしが倒せるものかよ」

 思い出した。田虎は元々猟師だったのだ。

 飛び付くように画戟を拾い、構える。腕は震えない。行ける。

 気合いと共に、瓊英が画戟を放つ。だが田虎はそれを素早く避けた。

 次の画戟も、その次も当たらない。田虎の顔にうすら笑いが浮かんでいる。

「鄔梨がお前の事を大層褒めちぎってたけどよ。大したことないじゃねぇか。まあ、あいつも大したことはなかったがな」

 田虎が前に出る。突風のような勢いで刀が襲いかかる。

 鈍い音とともに画戟の柄が両断された。

 画戟を捨て、瓊英が距離を取った。

 まずい。どうする。足が微かに震え出す。

「落ちついて」

 また声が聞こえた。母の声と、それに重なるもう一つの声。

「俺が伝えられることは全て教えた。君は、強くなったんだ」

 それは全羽、張清のものだった。

 右手が腰の袋に伸びた。そして抜いた手が見えないほどの速さで、礫を放った。

 礫は田虎の手首に当たった。嗚咽を漏らし、刀を取り落とす。

「貴様あ」

 礫か。これも鄔梨が自慢していたな。女子(おなご)の、所詮は曲芸だと思っていた。くそったれめ。右手が痺れてしまっている。

 だがそれでもやはり、しょせんは児戯だ。

 田虎は左手を鷲の爪のように広げ、襲いかかる。

 瓊英が再び礫を投げた。

 しかし田虎は横に飛び、礫をかわしてしまった。

 三発、四発、そして左右同時。だがことごとくかわされてしまう。

「当たらなければ、そんな石ころなど怖くないわ。その細い首をへし折ってやる」

 田虎がさらに近づいた。

 瓊英が思わず後ずさってしまう。

「落ち付いて。稽古を思い出すんだ」

 張清の声が、また聞こえた。

 そうだ。焦っちゃだめだ。

 目を閉じ、夢を思い出す。張清の一挙手一投足を思い浮かべる。

 そして目を開け、素早く礫を放った。

 田虎はまたも横へ飛び、礫を避けた。

 だが、その礫の向きが変化した。突如、田虎の顔面に向かって、角度を変えたのだ。

 礫が田虎の鼻を砕いた。

 張清との夢の中で編み出した技だ。瓊英の非力さを補える、と言っていた。

 田虎の鼻から大量の血が溢れ出ている。押さえる手も、地面も血で染まっている。

 礫が曲がった、だと。

 頭がぼんやりする。意識が朦朧とする。

 田虎の足がふらついている。

 ここで、決める。決めなければならない。

 瓊英はありったけの礫を田虎に飛ばした。

 腕に、腿に、脛に、腹に、肩に、耳に、頭に、そして最後に眉間に礫が当たった。

 血が飛び散る。

 白目を剥いた田虎が、一度天を仰ぐようにして、倒れた。

 ぴくぴくと痙攣をしている。もう立てまい。

「お父さま、お母さま。やりました。仇を」

 そして瓊英も意識を失った。

 倒れる瓊英を抱きとめるように、そこに白い石が現れていた。瓊英は石の上に、眠るように横たわった。

 父と母に抱きしめられる、懐かしい夢を見た。

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