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疾駆

 まるで滝のようだ。

 目の前にいるはずの武能の姿が、見えないほどだった。

 空は雲ひとつない初春の陽気である。しかし豪雨が、楊春めがけて降り注いでいた。

 ずぶ濡れになりながら楊春は、それでも機を探っていた。

 だが、たかが雨。じりじりと武能の方へにじり寄ってゆく。

「たかが雨だ。そう考えているのだろう」

 武能の声が聞こえた。思わず鼓動が高鳴った。

 楊春が一歩、踏み出した。がくりと膝をついてしまった。

 体が、重い。大桿刀を地面に突き立て、何とか立ち上がろうとする。

 雨は短い間にも、確実に楊春の体力を奪っていたのだ。

 楊春の様子をうかがう陳達に、徐瑾が囁く。

「仲間を助けなくていいのか。もっとも、自分で精いっぱいだろうがな」

「はん、心配なんざしちゃいねぇよ。あいつは白花蛇(はくかだ)だ。蛇はしつっこいんだぜ」

「ほざけっ」

 徐瑾が風の勢いを増した。

 痺れを切らした田豹が叫んだ。

「おい、馬霊。こいつらなどどうでもいい。とっとと孝義県を攻撃してしまえ」

 ちらりと田彪を見た馬霊が、無言で配下に指示を出した。

 段仁、陳宣、苗成の三人が、それに応じた。だが陳達、楊春の部下たちがそれを阻止すべくぶつかった。

 馬霊の配下で、武能と徐瑾だけが妖術使いだった。しかし段仁ら三人もそれぞれが鬼の一字を渾名に背負う者。梁山泊軍を押し返し、孝義県へと近づいてゆく。

 くそ、どうする。威力を増した風に耐えながら、陳達が楊春を見る。

 膝をついていたはずの楊春は、いつの間にか両の足で立ち、前へ進もうとしていた。その目はまったく諦めていなかった。

 そうこなくっちゃなあ。陳達も風に逆らい、一歩前へと踏み込んだ。

 その時、微かに馬蹄の音が聞こえた。唸る暴風の中でも、確かに聞こえた。

 何か、来る。

 駆けてきた五百ほどの騎馬が矢のように突進し、段仁たちを蹴散らした。

 その先頭で馬を駆る龔旺が吼えた。

「よく持ちこたえたな。大したもんだぜ」

「お前たちが遅すぎるんだよ」

「へへ、言ってくれるねぇ。これでも急いだんだぜ」

 と馬首を返し、龔旺が徐瑾に向かった。巨大な槍を肩に担ぐように構えながら、馬を走らせる。

 くらえっ、と徐瑾めがけて槍を飛ばした。

 徐瑾は片手を、その槍に向けた。風が槍を押し返そうとする。だが龔旺の放った槍は、勢いよく飛び続けた。

 舌打ちした徐瑾が、両手を向けようとしたが遅かった。

 龔旺の槍が目の前に迫っていた。

「くそうっ」

 横に転がるように何とか槍を避けた徐瑾。

 風が止(や)み、陳達が嬉々として駆けた。

 さらに五百の騎馬が現れた。率いるのは丁得孫(ていとくそん)だ。

 丁得孫は、武能に向かって突っ込んでゆく。肩に飛叉(ひさ)を担いでいる。

 武能はすぐに術を解き、逃げにかかった。

「はっ」

 いつの間にか目と鼻の先に楊春が迫っていた。

 馬鹿な。歩くことさえままならない雨の中、ここまで来ていたというのか。

 楊春と目が合った。動けない。

 楊春が大桿刀を横薙ぎに払った。

 武能は、やはり動けない。

 突如、楊春の額が割れた。

 よろめいた楊春だったが、大桿刀を振り切った。武能の肩口が衣と共に裂け、鮮血が吹き出した。

 膝をつき、額を押さえる楊春。何かが飛んできたのだ。

 視界に、武能とは別の足があった。その足は、輪の上に乗っていた。

 馬霊だった。

 馬霊が何かを手にしている。先ほど飛ばしたのは、おそらくそれだ。

「楊春」

 丁得孫が叫び、馬霊の背を目がけ飛叉を飛ばした。飛叉が当たる寸前、馬霊の姿が消えた。

 殺気を感じた。見ると馬霊が、丁得孫と並走していた。駆ける馬と並んで走っているのだ。

 飛叉の鎖を引き戻し、頭上で大きく旋回させる。もう一度だ。

 だがそこに田彪の声がした。

「おい馬霊。そいつらよりも俺を助けろ。早く、早くしろおっ」

 孝義県の梁山泊兵と、龔旺の配下が田豹に襲いかかっていた。

 振り向いた馬霊は、少し田豹を睨むようにして踵を返し、まさに飛ぶように駆けた。

 立ち直った武能と徐瑾も田豹の援護に向かった。さらに段仁たちも加わった。

 龔旺、丁得孫は距離をとり、臨戦態勢を取っている。攻めてくるのか。

 なにやら田豹が喚いていが、やがて敵軍はいずこかへと遁走していった。

 楊春を抱きかかえるようにして、陳達が言う。

「まったく無茶しやがって」

「無茶は、お前だって一緒だろ」

 楊春は疲労しきっていたが、笑みを浮かべていた。

「ともかく、なんとか間に合ったな」

 そこに戴宗がいた。

 孝義県を通りかかった際に異変を感じた。報告を聞いた盧俊義は、汾陽から龔旺らを援軍として送りだしたのだ。

 しかし、

「あれが、あの男がそうなのか」

 山士奇から聞いていた、一日に千里を走る馬霊という男。

 輪のようなものに乗っていた。神行法とは違う術のようだが、確かに速かった。

 戴宗は自分の足に括った甲馬を見た。

 勝てるだろうか。いや。

 神行法を覚えてから初めて味わう敗北感のようなものを振り払うように、戴宗が首を振った。

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