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智取

 男が飯を食っていた。

 黄泥岡から南に二十数里離れたあたりの小さな居酒屋である。

 男は黙々と飯を頬張り、酒でそれを喉の奥に流し込んだ。牛肉と根菜を甘辛く炒めたものだったが、美味かった。こんな辺鄙な所にも美味い物はあるものだ。

 男は笠をかぶり店を出る。

「つけにしておいてくれ」

「あんた待ちな。うちはつけはやってないんだよ」

 叫ぶ女将(おかみ)を尻目に男はさっさと道を歩いてゆく。追ってきた若者が腕を掴むが、腹に拳を喰らい道端に転がされた。

「おい、待つんだ」

 さらに店から追っ手が現われた。

 大きな肉切り包丁を持った店の主人らしい男と、杈(さすまた)を持った男だった。

 主人は口元に髯をたらした巨漢で、肥満だがその下にはかなりの筋肉が隠れているようだった。袖を捲り上げているが、それが太い腕ではち切れそうなほどになっている。

 男は構わず歩き続ける。

「待てと言っているんだ」

 主人は包丁を構え、駆けた。背を向けた男に包丁を振り下ろす。

 男は振り向きざま、手にした朴刀でそれを受けた。手が軽く痺れる。なかなかの膂力だ。しかも何のためらいもなく包丁を振り下ろした。油断はできない。

 男は笠を外し、道の脇へ放(ほう)った。

 男の顔には大きな青痣があった。

 青痣の男、楊志と主人は二、三十合ほど渡りあった。かたや朴刀、かたや肉切り包丁である。膂力では勝る主人も、楊志の武芸には敵わない。勝てぬと見るや、さっと飛びのき距離をとる。

「大した手練だが、あんた名は何と言う」

「逃げも隠れもせぬ。青面獣の楊志とは俺の事だ」

「なんと東京殿帥府の制史の楊志さまか」

 昔の話だがそうだ、という楊志に主人は平伏してしまった。

「何故、俺を知っているのだ」

 主人を起こした楊志が尋ねる。

 居酒屋の主人の名は曹正(そうせい)といい、何と林冲の弟子だったというのだ。

 もともと開封府に住んでおり、林冲にはその頃世話になっており、楊志の名も聞いていたのだという。

 曹正は代々肉屋を営んでおり、屠殺の腕前も確かで操刀鬼(そうとうき)と呼ばれているという。

 若い頃、ある分限者(ぶげんしゃ)から五千貫を預かり、山東で商売に出たが元手をすってしまった。帰るに帰れなくなり、この居酒屋の婿になったという。先ほどの女将が妻で、杈を持った男はその弟だった。

 楊志と曹正たちは店に戻り、改めて酒が運ばれてきた。奇縁を祝し、杯を上げると曹正はこれまでの経緯を尋ねた。

「生辰綱を知っているか」

 楊志は杯を空けると、目を細めて訥々と語り出した。

 

 目が醒めた時には、あの七人は姿を消していた。頭の中で鐘が鳴っているようだ。

 ゆっくりとまわりを見ると、謝都管と虞候、そして護衛官たちはまだ昏倒したままだった。自分は一口しか酒を飲んでいない事が幸いし、早く目覚めたようだ。

「何という事だ。またしても大任を失敗してしまうとは」

 楊志は歯ぎしりをして悔しがった。そして楊志は倒れている一行を指さして怒鳴った。

「お前らが俺の言う事を聞かないから、こうなったのだ」

 一体どうしてくれる。朴刀を手に楊志はその場を離れた。

 あてもなく黄泥岡をさまよい、やがて切り立った断崖へと出た。

 覗きこむと、そこはまさに千尋の谷。この失敗では死罪は免れないだろう、たとえ死は免れても立身は叶うまい。楊志は谷へ身を躍らせようとした。

 こんな事なら梁山泊で王倫の誘いを受けていれば良かった。

 と、楊志は林冲の顔を思い浮かべた。断崖の端で足を踏ん張り、考える。

 あの男も、濡れ衣ではあるが、死罪から逃れ、自ら道を切り開いたではないか。このまま死んでは、楊家の名が地に落ち、ご先祖様に顔向けができんな。

 そう決めると楊志は黄泥岡を下りる道をとった。

 死んで花実が咲くものか、とはよく言ったものだ。

 生きてやる。こうなれば、浅ましくとも生きてやる。

 花石綱と生辰綱を失敗した。これ以上、怖れるものがあろうか。

 運がない。そう思うのが癖になっていた。

 そうではない。己から運を逃がしてきたのだ。

 笠を深くかぶり、山路を行く楊志。

 日射しは盛りを過ぎ、風が少しだけ出てきたようだった。

 

 話を終え、目を開けた楊志は無銭飲食の件を詫びた。

 曹正は笑って、それを許し、酒を注(つ)いだ。しかし、これからどうしたものかと、楊志はその杯を一気に空けた。

「済州になりますが、梁山泊という所が近ごろ隆盛だとか。そこへ行ってみては」

 楊志は笑って、梁山泊での顛末を話した。林冲との決闘、王倫という男、そして入山を断った事。

 林冲の入山の件は曹正も噂を聞いていたようだ。王倫の狭量さは伝わっているらしい。一度断った手前、やはり今さら梁山泊に入れてくれとは言いにくい。

 それならば、と曹正は語り出した。この近くの二竜山に金眼虎(きんがんこ)の鄧竜(とうりゅう)という男が寨を構えており、このところなかなか勢いがあるという。

 鄧竜はもともと二竜山にあった宝珠寺の住職であった。だが突如、還俗すると他の僧侶ともぐるになり、ならず者たちを集め近隣を荒らし回っているという。

 生辰綱運搬に際して盗賊、山賊たちの情報は得ていた。桃花山、赤松林、二竜山は特に用心していたが、よもや宝珠寺が山賊の巣窟となっていて、頭領の鄧竜がもと住職だったとは。やはり、今の世は泰平などではないのだ。

 楊志はそこで身を立てる事を決め、その翌日、曹正の店を出た。

 夕闇が迫る頃、ようやく山の麓に到着した。山を登るのは明日にしよう、と楊志は野宿のため林へと入って行った。

 だがそこには先客がいた。肥った僧がもろ肌を露わに、木の根もとで涼んでいたのだ。僧の背中には紅い牡丹の花が咲き乱れていた。

「誰だお前は、どこから来やがった」

 僧が起き上がり、吼えた。

 楊志は思い出した。生辰綱運搬の途中で見かけた、熊のような僧ではないか。やはり二竜山へ来ていたのだ。

 僧の言葉に生まれ故郷の関西(かんせい)訛りを聞いた楊志は、僧に尋ねた。

「おい、あんたはどこの」

 僧かね、と言い終わらぬうちに、その僧が巨大な禅杖で打ちかかって来た。

 避けた楊志は見た。楊志の背後にあった樹が粉々に砕け散ったのを。

「化物坊主が」

 楊志は朴刀を抜き、僧に斬りかかる。打ちあうこと四、五十合。互いの力と技は拮抗し、勝負がつかない。

 突然、熊のような僧が飛びのき、楊志に勝ちを譲った。

「あんたなかなかやるではないか。名は何と言う」

 楊志が名乗ると、僧が豪快に笑いだした。

「あんたが開封府で牛二を殺した男か」

 楊志が驚くと、僧も名乗った。楊志はその名を知っていた。

 禁軍の林冲と同じように、その名は東京開封府に知れ渡っていたのだ。

 この花和尚、魯智深の名は。

 

 野猪林で林冲を暗殺の魔の手から救った魯智深は、東京大相国寺へと戻った。

 いつものように菜園で酒盛りをしていると、張三が駆けこんで来た。

 例の護送役人たちが戻ってきているというのだ。数刻のち、今度は李四が駆けこんで来た。咳き込むように言う。取り手たちがここに向かっていると。

 董超と薛覇は滄州から戻ると、決めていた通りありのままを報告した。

 暗殺を果たせなかった高俅は二人を叱責すると、魯智深に捕り手をさしむけ、また陸謙と富安に林冲の暗殺を命じた。

 だがこれで捕えられる魯智深ではなかった。張三、李四らの協力もあり、東京から脱出したのだ。

 しばらくあちこちを流れていた魯智深は、孟州(もうしゅう)の十字坡(じゅうじは)にある一件の居酒屋へと足を踏み入れた。

 そこの夜叉のような女将にしびれ薬を盛られ、あやうく殺されそうになったが、運よく亭主が戻って来たため事なきを得た。

 二人は追い剥ぎ居酒屋をやっており、亭主は、僧侶は殺すなと厳命していたのですが、と苦笑して詫びた。その女房は、どうやらあまり言いつけは守っていないようだった。

 その夫婦と義兄弟となった魯智深はそこにしばらく逗留し、二竜山の話を聞いた。いつまでも二人に迷惑をかける訳にはいかない、と考えた魯智深はここへとやって来たのだ。

 しかし、と魯智深は続ける。

 鄧竜は魯智深の入山を断ったのだという。思わず鄧竜を蹴りつけたが、手下どもに取り押さえられ、放りだされたというのだ。そして力では敵わぬと見たのか、門を閉ざして出て来ようともしないという。

 鄧竜も、王倫と同じく狭量な男なのか。楊志と魯智深は一度、曹正の店へと戻り、策を練る事にした。

 曹正に魯智深を紹介し、卓に杯が並べられた。

 夜はとうに更けた。だが二人の武勇譚は尽きそうにもなかった。

 

 二竜山、宝珠寺の門の前に数人の男がいた。

 門の上の男と何やら話をしている。

「お前は何者だ。で、その坊主をどこで捕まえた」

「おいらはこの先で居酒屋をしている曹正って者だ。そこへこの坊主が酒を飲みに来て暴れやがったから、酔ってつぶれたところを縛り上げたんでさぁ」

 古びた服を着た曹正は縄を持っている。縄の先には両手を後ろに縛りあげられた魯智深が繋がれていた。魯智深は曹正の連れに武器を突き付けられ、動けない様子だ。

「こいつは先日、この二竜山で騒いでいたとか。頭領にお伝えください。こいつを差し出しますので、どうかおいら達にお目こぼしをいただきたいと」

「でかしたぞ、待っていろ」

 と、その男は注進に消えた。

 しばらくすると、門がゆっくりと開かれ、山賊たちは曹正たちを招き入れた。勇壮な宝珠寺も今は山賊の寨と化していた。

 一行は仏殿へと通された。仏像は取り払われ、虎の皮の床几(しょうぎ)にもたれた一人の男がそこにいた。二竜山の頭領、鄧竜であった。

 鄧竜は魯智深を見るや、目をむいて怒鳴った。

「このくそ坊主め、貴様に蹴られた所がまだうずくわ。生き胆を取り出して薬にしてくれる」

 鄧竜が手を振ると、左右に居並ぶ手下が武器を構える。

 縄に縛られたままの魯智深が近づき、吼えた。

「民の苦しみを無くすために祈る僧が、民の苦しみの元になるとは笑止千万」

 曹正が縄をぐっと引っぱった。すると縄が一瞬にして解けた。曹正が仕込んだ空(から)結びだったのだ。

 腕が自由になった魯智深に、連れの百姓たちが禅杖を手渡す。

 目を丸くした鄧竜は手下たちに指示しようとするが、できなかった。

 仏殿に立っている手下は一人としていなかった。

 立っていたのは、血のついた朴刀を手にした、百姓の身なりをした楊志だけだった。

 この数瞬のうちに、すべて斬り倒したというのか。

 鄧竜に、魯智深が迫る。腰を浮かせかけたその刹那、鄧竜の頭部は禅杖で破壊された。

「降参しろ。刃向かう者は、斬り殺すぞ」

 頭領を殺された山賊たちは烏合の衆だった。魯智深の怪力と、楊志の技を見た一同はすぐに戦意を失い、ひれ伏した。

「これで悪僧を退治したのは二度目だな。わしが僧になったのはこの為かもしれぬとつくづく思うわ」

 魯智深は冗談なのか本気なのか分からない口調でそう言うと笑った。

 鄧竜の亡骸を火葬にした後、二人が曹正の作戦に感心していると、曹正の義弟が慌てて駆けて来た。

 案内された一同は目を見張った。庫裡(くり)に積まれた眩いばかりの数々の金銀財宝。それは紛れもなく、昨年奪われた生辰綱だった。

 楊志はつぶやいた。

「まさか、鄧竜が奪っていたとは」

 二竜山が近ごろ隆盛だった理由はこれだったのだ。使いきれぬほどの、莫大な資金を手にしていたのだ。

 生辰綱護送に失敗した自分が、昨年強奪された生辰綱を発見し、その犯人を図らずも見つけてしまうとは。 

 運が良いのか、悪いのか。

 狂喜する曹正や魯智深の後ろで、楊志は苦笑いするしかなかった。

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