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智取

 旅商人と人足たちが山道を歩いていた。人足たちは荷を背負っており、全身の汗がその重さを物語っていた。

 一行を太陽が厳しく照りつけていた。

 先頭を行く商人が笠を少し上げ、目を細め太陽を見る。汗が滴るその顔には大きな青痣があった。

「遅れているぞ、もう少し急ぐのだ」

 商人の恰好をした楊志は後続の人足たちに檄を飛ばした。その人足の後ろに使用人二人に付き添われた、老商人が見えた。

 楊志は老商人を睨むと、深く溜息をついた。

 楊志は生辰綱を運ぶにあたって、商人と人足に扮する作戦をとった。自分が商人に変装し、屈強な護衛官たち十一人のうち一人を用人に、残りの十人を人足に仕立て上げた。

 これならば生辰綱の運搬だと露見する事はない。だが用心に用心を重ねて過ぎることはないが、唯一つ楊志の気がかりは最後尾の三人だった。

 老商人に扮したのは、謝(しゃ)という名の都管(とかん)だった。謝都管は乳母の夫である奶公(だいこう)で、二人の虞候とともに梁中書の意向で加えられた者たちだった。

 楊志はもちろん反対した。人選は楊志の命令を聞く者ばかりであったが、自分よりも高位の者たちを連れていては、計画に支障をきたす恐れがあるからだ。

 しかし結果として、梁世傑が三人に楊志の命令を聞くように厳命する、という条件付きでしぶしぶ承知させられたのだった。

 はじめは順調に思えたこの任務も、楊志が懸念した通り、綻びが見え始めた。

 北京大名府を出立して十日余り、二人の虞候が不満を漏らし始めたのだ。

 始めの五日ほどは日射しを避けるため暗いうちから歩き出し、昼の暑さの盛りを避けて休む行程だった。しかしさらに五、六日たち次第に民家も少なくなり、ついに本格的な山道へと入った。

 道中、二竜山の方向へ向かう熊のような僧侶を見かけて驚いた事はあったが、ここまでは比較的平穏な道のりだった。

 だがここからはいつ山賊に襲われてもおかしくない場所である。そのため楊志は日が昇ってからの安全な時間帯を歩くようにした。

 謝都監はもちろん二人の虞候も、自ら荷を担いで長旅などした事などない。楊志に急かされると、わざと遅れている訳ではない、暑さのせいだと弁明する。だがそれが余計に怒鳴られる原因となった。虞候たちは謝都管に楊志を諌めてもらおうとするが、梁閣下の命令だからもう少し辛抱するように、と言われるばかりだ。

 しかし頼みの綱の護衛官たちまで日影があれば我先に駆けこんで休む始末。楊志は籐(とう)の鞭を手に、彼らを追いたてた。

 そして護衛官もついに不満を漏らし始めたが、謝都管は任務達成の暁には充分な褒美を与えよう、と護衛官たちの怒りを抑えていた。時ここに至り、護衛官たちの心さえ完全に楊志から離れてしまっていたのだ。

 楊志はただ一人、任務の遂行に躍起になるあまり、彼らの事を考えられなかったのだ。いや考える余裕が無かった、と言った方が良いかもしれない。花石綱での失態が、楊志の心に深く傷をつけていたのだ。この生辰綱に文字通り命をかけて取り組んでいたのだ。

 だが楊志は強すぎた。

 獅子が兎の心を知る事ができない様に、謝都管や虞候はもとより、護衛官たちよりもはるかに勝(まさ)っていた楊志は、彼らの気持ちを知る事ができなかったのだ。

 さらに幾日か、楊志が振るう鞭を怖れ、そして都管の言葉を励みに何とか一行は進んで行った。

 やがてこの旅、最大の難所である黄泥岡(こうでいこう)が、一行の前に姿を現した。

 

老竜のような松が一行の行く手を阻むように生えている。先に岡へと登った護衛官たちは一斉に荷を下ろし、松の木陰に寝ころび始めた。

「待て、ここをどこだと思っているのだ。狙ってくれと言っているようなものだ。さあ、起きて早くここを抜けるのだ」

 楊志は籐の鞭を手に護衛官を叱り飛ばす。だが彼らは、八つ裂きにされても動けない、と立ち上がろうとしなかった。

 そこへ謝都管と二人の虞候が這い上がるように遅れてやってきた。鞭を振り回し喚(おめ)く楊志を制して、謝都管は言った。

「楊志どの、少し休ませてやりなされ。この暑さでは思うように動くこともできまい」

「謝どの、あなたはこの黄泥岡の恐ろしさを知らぬからそう言えるのだ。ここら一帯は昼でも盗賊の出る危険な場所なのです」

「口を開けば賊、賊と、その言葉は耳にたこができるほど聞いたわ。じゃが、ここまで鼠一匹出てこなかったではないか」

「今ままでは、です。しかしいつ襲われても本当におかしくはないのですよ」

 ここで護衛官たちが謝都管の味方についた。その一人が楊志に楯突く。

「楊志どの、俺たちは百斤もの荷を担いでいるんだ。手ぶらのあんたとは訳が違う。梁中書さまがご自分で指揮をしていても言い分を聞いて下さるだろうに、あんたときたら鞭を振り回し、怒鳴り散らすばかりだ。俺らは牛や馬じゃないんだ、もう少し人間扱いしてくださいよ」

 じりじりと焼けつくような暑さに誰もがぴりぴりとしている。

 謝都管も、老人の言う事は聞くものだ、と楊志に言う。だが楊志は失敗する訳にはいかないのだ。

「今は平穏な時世ではないのですよ」

 楊志が思わず漏らした言葉に謝都管が顔をしかめる。

「貴様、今の帝の世が泰平ではないと申すのか。聞き捨てならぬ言葉じゃぞ」

 知らぬのだ、謝都管は。楊志は思う。

 都管も各地を旅したというが、それはかなり前の話だ。今は違うのだ。

 この太行山系にも桃花山、二竜山、赤松林と数えればきりが無いほど山賊たちが巣くう寨(とりで)がある。今はそれが全国に広まっており、喰いつめた民衆たちが山賊や盗賊となり、集結しているのだ。自分が訪れた梁山泊もそうだったが、すでにお上の手に余るような巨大な賊たちが存在しているのである。

 しかしその山賊たちを討伐し、民衆を守るのが楊志たちの役目。天下が泰平ではないと言えば、己の職務怠慢のように思われても仕方がない。

 なんとか言い返そうとした楊志。だがその時、松林の向こうで影が動くのを目の端で捕えた。急ぎ、その方向を向くと影は林の奥へと消えて行った。

 とうとう出たな山賊め。

 楊志は鞭を朴刀に変え、勇ましい足取りで林の中へと分け入った。

 そこで楊志が見たのは、木陰で涼をとっている上半身をはだけた男たちだった。男たちは七人。近くに手押しの荷車が置いてある。

 楊志が見ていると、朴刀を持った赤茶けた髪の男がこちらに気づいた。その男が近づいて来た。

「何者だ、お前たち」

 楊志が威嚇する。男たちは、ひっ、と跳び起き、朴刀の男が叫ぶ。

「お前こそ何者だ」

 何度か同じような問答を繰り返し、互いの素性を話しあった。

 男たちは七人兄弟で、棗(なつめ)を売りに東京へ行く途中だったのだという。楊志も商人と名乗り、勘違いを詫びると一行の元へと戻った。

 心配そうな顔の都管が急き込むように聞いてくる。

「山賊か、賊ならば早く逃げねば」

「いえ、大丈夫です。棗売りの商人たちでした」

 安堵の表情を浮かべ、都管は楊志に皮肉を送る。

「ほう、何と恐ろしい山賊がいたものだ」

 護衛官たちもくすくすと笑う。ばつが悪い楊志は一同に言った。

「わかった。ここでしばらく暑さを凌ぐ。涼しくなったら出発だ」

 そうこなくっちゃ、と護衛官たちは手足を伸ばし、寝ころび始める。楊志も朴刀を地面に刺し、木の幹にもたれかかった。張りつめていた気が解けたのか、少しうとうとし始めた時、岡の下から歌声が聞こえてきた。

 すわ今度こそ山賊か。楊志は朴刀に手をかけ、じっと待つ。

 その男は天秤棒を担いでおり、両端にはその体躯に似合わぬ大きさの桶がぶら下げてられていた。悠々と楊志一行の側までやってくると、松の木陰に天秤を置き、腰を下ろした。

 男はちらりと楊志たちへ目礼すると、煙管(きせる)をふかし始めた。大きな二本の前歯が邪魔そうだったが、器用に吸っている。

「おい、その桶の中身は何かね」

「こいつか。こいつは白酒だよ」

 人足に扮した護衛官に、酒売りは答えた。ひと桶の値は五貫だという。

 喉が渇いて仕方のない護衛官たちは、めいめい金を出し合い、酒を買う事に決めた。だが気付いた楊志がそれを咎める。

「俺たちが身銭を切るだけです。旦那には迷惑はかけないですから」

「だめだ、お前らは旅の道中がどれほど危険か知らぬのだ。しびれ薬を盛られ、あげく殺された者がどれほどいると思っているのだ」

 それを聞いていた酒売りが言う。

「おい、お前さんも見て来た風な事を言うんじゃねぇ。おいらの酒にしびれ薬が入っているだって。冗談も休み休み言うこったな」

 楊志たちと酒売りが口論をしていると、先ほどの棗売りたちが朴刀を手にやって来た。

「一体なんの騒ぎだ」

 長兄らしき男が楊志と酒売りを睨む。酒売りが事の顛末を語ると、末っ子らしき若者が喜びながら言った。

「酒だって。ちょうど俺たちも喉が渇いていたんだ。ひと桶売ってくれよ」

「だめだ。この酒にはしびれ薬が入っているんだ。売る訳にゃいかねぇよ」

「まあまあ、ちょっとした冷やかしなんか気にするなよ。ちゃんと銭は払うから」

 酒売りは渋々、ひと桶を彼らに売る事にした。

 男たちの一人が荷車から椰子の碗をふたつ持ってきて、棗を肴に代わる代わる飲み始めた。喉を鳴らしながら飲む様子に、護衛官たちは指をくわえるばかり。

 七人はあっという間にひと桶を開けてしまった。兄弟の一人が酒売りに銭を払っている時である。

 赤茶けた髪の男がそっと残りの桶に近づくと、碗を入れて酒をすくって、一口飲んでしまった。酒売りが気付くと、その男は碗を持ったまま逃げてしまった。酒売りが追うと、今度は松林から色の白い男が駆けてきて桶の酒をすくった。酒売りは色の白い男から碗をひったくると、酒を桶に戻して毒づいた。

「とんでもねぇ連中だな。汚ねぇ真似しやがって」

 酒を飲みたくてうずうずしていた護衛官たちは、謝都管にとりなしてもらうよう頼んだ。都管の頼みに、楊志は考えた。

 見ていたところ、棗売りの連中は何ともないようだ。残りの桶も手をつけたが平気なようだ。考えすぎだったか。先ほどは護衛官たちに怒鳴ってしまったが、彼らもここまでよく耐えてきたものだ。

 楊志は許可を出したが、酒売りはまだごねていた。この酒にはしびれ薬が入っている、と頑として売ろうとしない。困った楊志だったが、棗売りたちがなだめてくれたおかげで、何とか酒を買う事ができた。碗も彼らが貸してくれ、大量の棗まで分けてくれた。

 楊志の前にも酒が置かれたが、用心のため口は付けなかった。しかし、周りが飲んでいるのと、この暑さでの喉の渇きはさすがに耐えかねた。そこで楊志はひと口だけ酒を飲むと、杯を返した。

 いくらもかからず護衛官たちは桶を空けてしまった。酒売りは空の桶を担ぐと、はじめと同じように歌いながら、もと来た道を戻って行った。

 棗売りたちが松にもたれてこちらを見ている。何故かにやにやと口元を歪めている。彼らを見ていた楊志の視界がぼやけて来た。墨絵に水を落としたように、すべてが滲みはじめ輪郭がなくなってゆく。

 朴刀はどこだ。手の感覚がない。体全体が宙を漂っているようだ。

 しびれ薬。馬鹿な。彼らも飲んだではないか。

 この酒にはしびれ薬が入っている。酒売りの言葉は本当だったのか。

 運がない。楊志はつくづくそう思った。

 どこも動かせない。思考もぼんやりと霞がかかったように曖昧になってきた。

 滲んだ世界で、誰かが近づいてくるのが辛うじて分かった。

 そいつは何か話しかけているようだ。だが聞き取れない。

 安心しろ、命までは取らない。

 男はそう言っていたのだが、楊志はそれを知ることなく意識を失った。

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