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武人

 高俅は苛立った様子で、朝議が始まるのを待っていた。

 足をせわしなく動かし、歯を強く噛みしめている。その様子に蔡京さえも声をかけるのをためらうほどであった。

 蔡京や楊戩に何を言っても無駄だ。何だかんだと理由をつけて、言い逃れをするだけだ。 今まではそれでも良かったかもしれない。

 高廉が、梁山泊軍に殺された。

 その報告を聞いた高俅はしばらく眠ることができなかった。数日も公務に出ず、屋敷に閉じこもっていた。

 張り詰めた気が緩み、まどろんだ高俅が立ちあがるほどの勢いで目覚めた。直立し、全身を汗で濡らした高俅は、いま見た光景を思い起こし身震いした。

 突如、部屋に飛びこんできた林冲が、喉もとに槍を突きつけたのだ。

 林冲の目は、白虎節堂で取り押さえた時に見た、あの獣の目をしていた。

 頬がこけ、やつれた姿の高俅は思った。これが、遠からず現実のものとなる。高廉の次は自分なのではないか。

 姪を王慶という賊に汚(けが)されたという童貫に、私怨を持ち込むなと言った。だが、なりふりなど構っている場合ではない。何としても、高廉のためにそして己の身の安全のために、梁山泊を叩き潰さなくてはならないのだ。

 帝に奏上し、討伐軍を出させなければならない。

 高俅の目が、若い時分の飢えた狼のようになっていた。この身ひとつでのし上がってきた。この地位を脅(おびや)かすものは、何者だろうと葬ってきた。

 王進も、林冲も、だ。そして次は、梁山泊だ。

 鐘が鳴り、静粛を促す浄鞭(じょうべん)が三度(みたび)鳴った。

 居並ぶ高官たちが、静まりかえった。

 朝議の開始が告げられた。

 

 地響きを上げ、馬の大群が駆けていた。実に心地よい響きだった。

 丘の上から男がそれを見ていた。

 男は鎧かぶとをつけており、どうやら軍人のようだ。背が高く、厚い胸板、太い腕であった。腰には二本の棒のようなものを下げていた。その軍人は、そこに立っているだけで威風堂々たる姿であった。

 馬は三百ほどだろうか。だが良く見ると、その三百がいくつかの小さな固まりで駆けているようだ。その男が手を動かすと、それに合わせて馬が方向を変えた。

 この三百の馬を、男が指揮していたのだ。

 軽装の兵が丘を駆け上がってきた。男はそれに気づき、馬の速度を緩めてゆき、そしてゆっくりと止まらせた。

「東京開封府からの知らせです、統制」

「何事だ。開封府からだと」

「すぐに東京へ向かうようにと。高太尉からのお召しとの事です、呼延灼(こえんしゃく)さま」

「そうか」

 何かを考えるように呼延灼が頷いた。

 呼延灼は、東京の南、淮河のやや北に位置する汝寧州の統制を務めている。

 先祖に宋建国の功臣である呼延賛(こえんさん)を持ち、また呼延灼自身もそれに負けぬ武勇の持ち主であった。得意とする武器は、かの呼延賛と同じく鞭(べん)である。しかし呼延灼が持つ銅鞭は二本であった。

 双鞭の呼延灼。部下たちからは尊敬の念を込め、敵からは畏怖の念を持って、そう呼ばれていた。

「では、行ってくる。しばらく戻れんかもしれぬが、必ず便りを出す。家の事は頼んだぞ」

「わかりました、あなた。気をつけて行ってらっしゃいませ」

 うむ、と呼延灼は妻と幼い息子にしばしの別れを告げた。

 気持ちの良い冬晴れだった。

 太尉である高俅直々の招聘を受け、東京開封府に上る。軍人としてはこれ以上ないほどの名誉であろう。だが呼延灼の顔は、空とは反対に曇ってみえた。

 何度か訪れた事のある東京開封府だが、いつもその賑やかさに驚かされる。

 馬を預け、到着の報告を入れる。別な部屋に通され、しばし待たされる。やっと誰かが現れたと思ったら、今度は別の建物に通された。

 何度来ても、この手間のかかる手続きには辟易させられる。

 文官が決めたのだろうが、軍人である呼延灼には馴染めないものだった。

 軍事においてもそうだった。ちょっとした武具や馬の補充などに、夥(おびただ)しいほどの手続きが必要なのだ。だから呼延灼は、意識してかどうかは分からないが、それが少ない地方軍を選んだのかもしれなかった。

「そなたが呼延(こえん)統制だな。そなたの威名は、この開封府にまで轟いておるぞ。その活躍ぶりはかの英雄、呼延賛を彷彿とさせるというではないか。遠慮する事はない、どうか立ってくれ」

 これだけ待たせて、その事にはひと言も触れない。いや、これだけ待たされた事もおそらくは知らないのだろう。

 呼延灼は高俅を見て、思ったよりも野趣あふれた男だと感じた。ほかの官僚とは違い、科挙でもなく裸一貫で成り上がった男だと聞いていた。なるほど、高俅が怖れられている理由が分かったような気がした。

「失礼ですが、私を呼ばれたのは」

「おお、すまない。では早速、本題に入ろう。そなたを呼んだのはほかでもない。そなたに、梁山泊討伐軍の指揮官を命じるためだ」

「梁山泊、ですと」

 梁山泊の名は、もちろん聞いていた。

 湖に浮かぶ島に集まった賊徒たちだが、最近勢力を伸ばしてきているという。先ごろも祝家荘(しゅくかそう)を荒らし回り、非道の限りを尽くしたという。

 そこではたと呼延灼は気づいた。その後、梁山泊は高唐州を襲い、知府を殺したというのだ。たしかその知府が高俅の血縁だったはずだ。

「奴らは国に仇なす、極悪な賊徒どもだ。もはやこれ以上のさばらせておくわけにはいかんのだ。やってくれるな、呼延灼よ」

 白虎節堂から出て、呼延灼は背筋を伸ばした。

 できるかできないかではない。やらなければならない。

 これは命令なのだ。己も軍人の端くれ、軍人の答えは結果で出すものだと知っている。だが相手は梁山泊、楽な相手ではない。

 突如、強力な兵を有し始めたのには訳がある。もと禁軍教頭の林冲、精強で知られる青州軍の秦明や花栄といった軍人たちが梁山泊に流れているからだ。林冲が落草した理由も高俅にあると聞いてはいたが、呼延灼はそれ以上考えない事にした。

 事情はさておき、負けるわけにはいかない。そこで呼延灼は開封府軍からではなく、信頼のおける者を副将に据えたいと申し出た。

 高俅は少し渋い顔をしたが、それを認めた。これで呼延灼も少し気が楽になった反面、絶対に失敗できない事も理解していた。

 副将として二名の者を選んだ。かつて出会い、呼延灼自身が認めた男たちである。彼らの到着を待ち、出陣する事になる。

 梁山泊か。

 練武場に立ち、呼延灼が二本の銅鞭を握っていた。

 何かを断ち切るように、呼延灼が鞭を振った。

 要請した二将が開封府に到着した。

 陳州団練使の韓滔(かんとう)と、潁州団練使の彭玘(ほうき)という男たちである。陳州は汝寧州のやや北東、潁州は東に位置する州だ。

「変わりありませんな、呼延灼どの」

 韓滔が嬉しそうに微笑んで言った。彭玘は少し後ろで薄い笑みを浮かべていた。

「よく来てくれた、二人とも。お前たちも変わりはなさそうだな」

 呼延灼が立ち上がり、二人を迎え入れる。懐かしい思い出が胸に去来する。だがすぐに表情を引き締めた。

「話したい事は山ほどあるのだが、今は久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)している時ではない」

「聞いてもよろしいでしょうか。何故ゆえに我らをお呼びになったのですか」

 彭玘が目を細めて訊ねた。

「この度、わしは梁山泊討伐を命ぜられた。そこでお前たちに白羽の矢を立てたのだ」

「なるほど、梁山泊ですか。ちょっと有名になったからって、つけあがっているようですね。なあ、彭玘」

「確かに。しかし、どうして呼延灼どのをわざわざ招聘(しょうへい)したのだろう。開封府にも精強な将軍たちはいるだろうに」

「俺は呼延灼どのほどの将が、開封府にいるとは思えないがね」

 韓滔が腕を組み、息を荒くした。彭玘は少しうつむき加減になる。

「そうだと良いのだがな。もちろん、呼延灼どのの力は俺たちも良く知っている。開封府ももちろん、承知しているだろう」

 だからこそ、呼延灼を梁山泊にぶつけた。勝てば、それで良し。負けても、責めを負うのは、敗戦の将となる呼延灼なのだ。

 彭玘は、そう考えているようだ。

「おそらく、その通りなのだろうな。わしは負けられぬ。だからお前たちを呼んだのだ。力を貸してくれるか」

「当り前です。我らの力、思い知らせてやりましょう」

「韓滔の言う通りです。梁山泊といえど、我らに敵(かな)うはずがありません」

 頼もしい二人の言葉に呼延灼は満足し、出陣の日取りを半月後と定めた。それまでにさらに兵を鍛え、万全の態勢にて汝寧州で合流する。

 三人は再会を約し、別れた。

 韓滔と彭玘を見送った呼延灼は、思った。やはり己は軍人だ。

 鞭を持つ手に、自然と力が入った。

 久しぶりの本格的な戦を前に、呼延灼は湧きあがる思いを抑える事に必死だった。

 

 もう吐く息が白くなってきた。

 柴進が梁山湖を見下ろしていた。湖面に何十艘もの船が展開していた。

 太鼓の音が鳴り、船の隊列が目まぐるしく変わっていく。また旗を使って、合図しているのも見えた。その様子を柴進は飽く事なく見ていた。

「水軍の調練ですか」

 宋江が隣にいた。やはり、吐く息は白い。

「見事な動きですな。まあ、詳しい事は私も分からないのですが」

 柴進が柔らかい微笑みを浮かべた。

 呉用が提案し、組織された水軍。江州で出会った李俊が頭(かしら)となり阮三兄弟や、張兄弟、童兄弟が主力となっている。さらに飲馬川から孟康が加わった事で、性能の良い軍船の量産が可能になった。

 この気温の中、水に入っている兵もいる。柴進は思わず体を震わせた。

「高唐州では多くの犠牲が出たとか。私などのために、本当に申し訳ない」

 柴進はため息をついた。

 世が世なら、帝になっていたかもしれない。意識はしないようにしていたのだが、周りから言われるたび、自分でも心の奥底でそう思っていたのかもしれない。

 今の帝は政(まつりごと)にあまり関心を示さず、珍しい木や石を集めて壮大な庭園を築いているという。はたして自分も好漢たちを集め、横海郡の屋敷で、まるで帝のように振る舞っていたのではないかと気付いたのだ。

 己もその器ではなかったという事だ。

 そして、いまはもうただひとりの男だ。

 高廉によって囚われ、丹書鉄券などすでに無用の長物なのだと悟った。すべてを失った今の自分に何が残されているのか。柴進は考えたが、何も残ってはいなかった。

「そんな事を言わせるためにお救いした訳ではありません。柴進どのはこの国にとっても、梁山泊にとってもなくてはならないお方。あなたがいなければ、この梁山泊もここまで大きくはならなかったのですから」

 柴進は初代頭領の王倫を世話していた事がある。その後、林冲が加わり、宋江も加わった。博徒だった石勇も世話になっており、柴進を尊敬してやまないという。

「武松もあなたに世話になった一人です」

「いまは青州の二竜山にいるとか。あの男は、あなたに会ったから変わったのですよ、宋江どの。他にもあなたに影響を受けた者は、大勢いる」

「いいえ、出会った者たちには、私の方が学ばせてもらっておりますよ」

 柴進は大きく白い息を吐いた。

「さて、私は何をすれば良いのかな。私は何ができるのかな」

「あなたにしかできない事が、たくさんあるではないですか」

 宋江はあえてはっきりと答えずに、水軍を見つめていた。

 答えは己で見つけろ、という事か。

 初めて会ったときから随分と大きくなったものだと、柴進は思った。

 あの時も、及時雨と呼ばれるだけの何かを持っていた。だが、今はそれが、しっかりとした芯のようなものになっているようだった。顔つきもどことなく、精悍になってきたようだ。

 柴進の手が冷たくなっていた。

 だが温める事はせず、じっと湖を見つめ続けた。

 水軍の調練が休憩に入ったようで、笑い声がこだましていた。

 

 ついに来た。官軍が、この梁山泊に狙いを定めた。

 晁蓋は腕を組み、目を閉じてじっと思いを巡らせていた。

 東京開封府に忍び込んでいる白勝の部下からの報告があった。高廉を討たれた高俅が怒り、ついに官軍を差し向ける事を決めた、と。

 梁山泊で官軍と戦ったのは、黄安が率いてきた時以来だ。

 あの時は圧倒的と言ってよい勝利だった。そしてそれから恐れをなしたのか、官軍の攻撃はぴたりと止(や)んだ。

 その間(かん)、梁山泊から出ての戦いだった。江州、祝家荘そして高唐州である。どれも苦戦はしたものの勝っている。しかし今度は地の利のある、梁山泊での戦いだ。

 だが晁蓋は、そう楽観的に考えてはいない。情報によると、黄安や他の官軍とは比べ物にならないほどの将軍が抜擢されたというのだ。

 そして晁蓋は思う。これは国と対等に戦ができるかどうかの試金石となるのだ、と。

 地方の州兵や民兵ではない、東京開封府や北京大名府などの本格的な軍に勝てなくてはならないのだ。そうでなければ、国と戦う事など夢のまた夢なのだ。

「官軍はいつ攻めてくるのだ、軍師どの」

「半月ほど先との情報です」

 うむ、と晁蓋が立ち上がり、拳を上げた。

「ものども、この梁山泊を陥とそうと官軍が攻めてくる。しかし怖れる事はない。お前たちの力は、わしが一番知っている。どんな軍勢が押し寄せようとも、この梁山泊は決して揺るがない」

 おおっ、と居並ぶ頭目たちが、同じように拳を上げ、声を張り上げた。

「どんな野郎が来ても、おいらがぶった切ってやりますぜ」

「はは、頼もしいな、李逵は」

 豪快に笑う晁蓋の横で、宋江はほんの少し眉をしかめていた。

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