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求道

「お前に、力を授けてやろう」

 いつのことだったろうか。闇のようにいつの間にか目の前にいた、みすぼらしい老人がそう言った。

 見るからに怪しい風体だったが、老人の言葉は何故かそれが本当の事を言っているのだと信じられた。今でもそれが何故だったのかは分からない。

「どうして私などに。私はただの役人だぞ」

 高廉(こうれん)の言葉に、老人は短く笑った。

「面白そうだからだ」

 そして高廉は力を与えられた。怪風を起こす力と、紙を獣に変える力だ。

 知府になってからでも、術の事は誰にも話した事はなかった。自分ですら信じられないのだ、他人が信じるはずもなかろう。ましてや己は役人の身、そんな力を持っているなど吹聴(ふいちょう)すれば、気が触れたと思われるのが関(せき)の山だろう。

 だからこの術の事は飛天神兵、高廉の直属部隊だけが知る事であった。

 高廉は知府の椅子で、しばし呆然としていた。

 梁山泊軍の中にいた道士に術を破られ、飛天神兵がほぼ全滅したのだ。あり得ない。

 高廉は持っていた杯を思い切り床に投げ捨て、砕いた。

「まったく、面白くもない」

 また飛天神兵を育てなくてはならない。どれだけの手間をかけたと思っているのだ。

 高廉は、まんじりともせずに夜を過ごした。

 やがて一番鶏が鳴いた。瞼(まぶた)に突き刺さるような朝日に眉をしかめていた高廉だったが、すぐに顔をほころばせた。

 先日要請していた、東昌と寇州からの援軍が来た。すぐに鎧を着こみ、出陣の準備にかかる。残りの兵を招集し、城壁へと登った。

 地平の彼方、南の方角に土煙が見えた。

 宋の旗が翻っていた。その軍勢に追われるように、梁の旗が見えた。援軍が梁山泊軍を攻撃し、追走しているのだ。

 この機を逃してはならない。

「者ども、門を開けよ。出陣だ。飛天神兵の恨みを晴らし、梁山泊どもを粉々に打ち砕いてくれようぞ」

 鬨の声と共に、高唐州の門が開かれた。高唐州軍が喚声と共に、一斉に討って出る。援軍との挟撃の形をとる。高廉は剣を抜き、呪文を唱え黒気を巻き起こした。

 梁山泊軍とぶつかった。飛天神兵はいないが、数では梁山泊軍を圧倒的に上回っている。力で押しつぶすのみだ。後方でも、援軍が散々に打ち負かしているようだ。

「首領の首を狙え。敵の首領を探すのだ」

 高廉が斬り進むと、前方に守られるようにして駆けてゆく者が見えた。周りには狼牙棒を持った将軍と弓の将軍がいた。その間で馬に乗る小男、あの男こそ梁山泊軍の首領、宋江に違いない。幸いあの忌々しい道士の姿はない。

 はっ、と馬に鞭をくれ高廉が駆けた。

 軍勢を引き連れ宋江を追い、丘を越えた。宋江らは裏道へと逃げてゆく。逃がすものか。高廉が楯を打ち鳴らし、獣を現出させた。

 その時、丘の向こうで号砲が鳴り響いた。

 高廉が何事かと思う暇もなく、左右から一団が飛び出してきた。先頭の将が共に方天画戟(ほうてんがげき)を掲げ、雄叫びをあげる。白と赤の軍装だった。

 不意をつかれた高唐州軍が、呂方と郭盛に討ち取られてゆく。獣も種が明かされてしまえば、今までのような効果は発揮できないようだ。獣を恐れない梁山泊軍に倒され、次々と紙切れに戻ってゆく。

 高廉は必死に馬を駆り、丘を登りきった辺りで振り返った。高廉は唖然とした。

 高唐州の城壁に、梁山泊の旗が高々と掲げられていたのだ。

「な、どうして」

 高廉が援軍を見た。しかしそこにいたのは援軍ではなく、梁山泊軍であった。

 反対側の丘では呉用と公孫勝が指揮をとっていた。援軍になりすました燕順と黄信の隊が城内へと突入してゆく。

 高廉は援軍要請の手紙を送ったのだが、すでにそれは露見していた。そして梁山泊の加勢に来た燕順と黄信の二隊を、上手い具合に援軍に仕立て上げる事ができたのだ。

 高唐州が陥ちた。丘の上にまで梁山泊の勝利の声が聞こえてくる。

 高廉はその様子に、ただ茫然とするしかなかった。

「もうお終いだ。観念するんだな」

 花栄がぴたりと矢の照準を合わせていた。高廉のいる丘にも、梁山泊の兵が上ってきている。もう味方はいないようだ。

「さあ、柴進どのを解放するんだ」

 花栄の横に来た宋江が叫んだ。だが高廉の顔には不敵な笑みが浮かんでいた。

「死んだよ」

 蛇のような笑みを浮かべ、高廉は言った。

 柴進は死んだ、と。

 宋江も、花栄も動く事ができなかった。高廉の言葉で、体を痺れさせたようになってしまった。

 それを見た高廉は素早く剣を振り、足元を指した。瞬時にそこに雲が現れ、高廉が飛び移った。そして剣を上に向けると一瞬にして雲は上昇、はるか上空にまで上がって行ってしまった。

「今回は負けてしまったが、次はない。高太尉の力で、貴様ら梁山泊の逆賊など、ひとり残らず殺しつくしてくれるわ」

 ははは、と哄笑と共に高廉が空を駆けてゆく。

「花栄」

 宋江の声で、花栄が矢を撃とうとした時である。高廉の雲が弾けるように飛び散った。

「あれを見ろ、宋江」

 向こうの丘で公孫勝が剣をかざしていた。公孫勝が、高廉の雲を消し去ったのだ。

 だが雲はわずかに残っていた。それにしがみつくようした高廉が、必死に体勢を立て直そうとする。

 しかし空中をもがきながら、地面近くまで落ちてきた。その高廉に合わせるように、横合いからひとつの影が跳んだ。

 雷横だった。刀を逆手に持ち、高廉目がけて斜面から跳躍をした。

 挿翅虎、見上げる者はその渾名の通りの姿を、雷横に見た。

 高廉と雷横が交差する。

 雷横が中空で刀を払った。

 断末魔を上げる事もなく、高廉の首が飛んだ。

 高唐州の城内。建物のあちこちから上がる火を、梁山泊の兵たちが消している。

 宋江の命(めい)で、住人には一切手を出させてはいない。人々は梁山泊を恐れ、隠れながらも、これまでの賊徒とは違う何かを感じているのかもしれない。

 戴宗と公孫勝が往来を歩いていた。

「しかし二仙山で李逵の言った言葉が気になっているのだが。あんたはどう思うかね」

 それは、どうして羅真人を小僧などと呼んだのか、という事であった。

 公孫勝はしばし黙し、空を見上げるようにして話し始めた。

 かつて仁宗帝の御世、国全土に疫病が蔓延した。あらゆる手を尽くしたが、一向に治まる気配はなかった。そこで仁宗は竜虎山の張天師に、薀疫を払う祈祷を依頼するため使者を送ることになった。

「その洪信という太尉が張天師に会ったのだが、その時はそれに気がつかなかった。何故ならば張天師は童子の姿だったからだ、というのだ。後から竜虎山の者に聞き、太尉もそれと悟ったのだという」

「という事は、羅真人さまも」

「年を経(へ)、術を極めた神仙は、もしかしたら童子の姿になるのやもしれん」

「お主には見えぬのか、公孫勝」

「恥ずかしながら。李逵の心は子供のようだ、と宋江どのも言っている。だからこそ、羅真人さまの本当の姿が見えているのかもしれんな。私もまだまだ修行が足りないようだ」

「なるほど」

 感心する戴宗が道の先に見つけた。李逵と湯隆が高唐州の城内を歩いていたのだ。

「こいつは、どういう事ですかい、兄貴」

「ううむ、どうやら梁山泊がすでに勝っちまったようだな。くそう、おいらの腕前を見せられなくて残念だわい」

 二人が高唐州に着いた時、すでに戦は終わっていた。怯える住人たちは家に隠れ、いまは梁山泊の兵が事後処理をするのみであった。

「李逵、やっと来たか。公孫勝どののおかげで、もう終わったよ」

 戴宗が李逵を見つけて手を振った。李逵は、ちぇっとつまらなそうな顔をしていた。

「だいたい、あの羅真人って野郎のせいなんですぜ、戴宗の兄貴。妙な雲で飛ばされちまって、兄貴たちが先に行っちまうから」

「すまん、すまん。ところで、そいつは」

 李逵は湯隆を紹介し、高唐州にたどり着くまでの顛末を語った。

 鍛冶屋を勧誘した事を褒められ、また公孫勝が羅真人の代わりに謝ったので、李逵の気分もいささか落ち着いたようだった。

「おい、李逵」

 振り向くと、そこに宋江がいた。

 宋江の兄貴、と駆け寄る李逵だったが、どうも宋江の機嫌が良くないと見える。理由を訊ねると、なんと柴進が死んだと言うではないか。

「そんな馬鹿な。大官人が死んだですって」

「分からん。だが高廉が死ぬ間際に言っておったのだ。今、手分けして探させているのだが」

 まだ見つけたという報告はない。ただ、柴進の亡骸も見つかっていない事だけが、唯一の希望だろうか。

 李逵と湯隆も捜索に加わった。しかしどれほど探しても、それらしき影も見当たらない。

 真っ先にかけつけた牢には柴皇城の家族が捕らえられていたが、柴進の姿はなかった。彼らも行方は分からないというのだ。

 日は中天を越え、傾き始める頃だ。あまり長居する訳にもいかない。

 腰を下ろし、休んでいる宋江の元にひとりの男が近づいてきた。服装から見て、高唐州の役人のようだ。

「あなたが梁山泊の首領ですか」

「なんだ、お前は」

 李逵が斧を構え、立ち上がる。宋江はそれを制して、男を促した。だが宋江もその男の言葉に思わず立ちあがることとなる。

「私は牢役人を務めております、藺仁(りんじん)と申します。柴進どのの所へご案内いたします」

 驚く一同を尻目に、ついて来いとばかりに藺仁が背を向けて歩き出した。

 

 案内されたのは、古い枯れ井戸だった。

 柴進が死んだ、と高廉に告げたのは藺仁だった。

 すぐに殺せと命じられていたが藺仁にはできなかった。そこで、柴進が重病の様子で手を下すまでもないと説明した。しかし数日するとまた急かされたので、柴進は死んだと告げた。

 そして藺仁は死人(しびと)となった柴進を牢から出し、この井戸の中に隠したのだという。

「柴大官人、助けに来ましたぞ」

 宋江が井戸を覗き、叫ぶが返事はない。井戸は深く、底まで見る事ができなかった。

「おいらが下りてみる」

 太い綱を吊るし、その先に大きな籠(かご)を結びつけた。それに李逵が乗り込む。

「気をつけていくのだぞ、李逵」

 まかせといてください、と李逵が笑う。

 戴宗、湯隆が綱をしっかりと持ち、ゆっくりと下ろしてゆく。井戸は深く、綱が足りないのではないかと思うほどだった。

 底に達した李逵は手探りをする。上から差し込む光など届かず、井戸の底は真っ暗だ。しかも足元は泥のようになっており、動くのもやっとだった。

「大官人、いるんですかい。いたら返事をしてくださいよ」

 李逵の手が何かに触れた。丸く、ごつごつしたそれを拾い上げ、手で触れて確かめてみる。

 中央に穴が二つ開いている。その下あたりに少し小さな穴。撫でまわすように触って、李逵が気付いた。

「うわあっ、髑髏じゃねぇか、こいつは」

 泥の中にそれを放ると、李逵は泣きそうになりながらも再び探し始めた。

「まったく大官人さまじゃあないだろうな、今の髑髏。おおい、いるなら返事してくれよう」

 李逵の手がまた何かに触れた。今度は布のようだった。探るとその下には人の体があった。微かに動いたような気がした。李逵が静かにすると、確かに呻くような声がした。

「おい、大官人さまか。しっかりしろ、生きてるのか」

 必死に泥から掬いあげ、籠に乗せる。そして合図用の鈴を大きく鳴らした。柴進を乗せた籠がゆっくりと上がっていった。

「柴進どのですか、私です。宋江です。いかん、ひどい怪我だ。早く手当てを」

 柴進の足や背にはたくさんの傷があった。頬もこけており、見るからに衰弱していた。

 木の戸板に乗せられ、柴進が陣へと運ばれてゆく。

「私のせいです。こんな方法しか思いつかなかったのです」

 藺仁が平伏し、涙を流していた。宋江は藺仁の肩に手をやり、優しく助け起こした。

「そうではない、藺仁。あなたが機転を利かせて柴進どのを匿わなければ、あの高廉に命を奪われていたのだ。あなたは大恩人です」

 ここでは応急の手当てしかできない。一刻も早く、梁山泊に戻らねばなるまい。その時である。

 かすかに井戸の底から声が聞こえた。

 李逵の事を忘れていた。

 すぐに籠を下ろし、李逵を引き上げた。泥まみれになった李逵が頬を膨らませていた。

 宋江をはじめ、皆で李逵をひとしきりなだめると、高唐州を出発した。

 

 高廉は死んだ。

 奴はどこで術を学んだのか。本当ならば、高廉の口からそれを聞き出すはずだった。しかしもうそれは叶わない。

 二仙山を出る時に、羅真人に告げられた言葉を思い出していた。

 曰く、幽に逢って止まり、汴に遇って還る。

 一体、何を指す言葉なのかはわからない。だが羅真人の言葉なのだ、必ず起こる事なのだろう。時が来れば、分かる事だ。

 城壁の縁(へり)に、いつの間にか男が立っていた。

 男というよりも、老人といった方がふさわしいだろうか。

 落ちたら命はないという高さであるのに、その老人はまるで平地のように顔色ひとつ変えてはいない。周りを歩く兵は、その老人に気がついていないようであった。

「やはり、駄目であったか、あの程度の男では。面白いものを見られると思ったのだが」

 老人の虚ろな目が、去りゆく梁山泊軍の隊列をじっと見つめていた。

 馬に揺られ、公孫勝が高唐州城を振り返った。

 誰かに見られている気がした。

 しかしそこには、城壁で忙しそうに立ち働く兵の姿が見えるだけであった。

 気のせいだったのか。

 公孫勝は前に向きなおり、馬の歩を速めた。

 公孫勝の頬を風が撫でた。

 冬の始まりを思わせる、ひやりとする風だった。

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