108 outlaws
戦友
三
なにが論語だ、なにが孟子だ。
あんなもの覚えきれるわけがなかろう。
故郷の者たちは俺が戻ってこないから、きっと合格したのだろうと思っているのだろう。だがその逆だ。科挙に落ちたのを知られたくなくて、戻るに戻れなかったのだ。親もそれを恥じて家を移したらしいから、なおさらだろう。
それにしても腹が減った。
足がふらふらする。
ここは一体どのあたりだろうか。距離からして東京と潭州(たんしゅう)の間あたり、光州(こうしゅう)あたりだろうか。
川の水で空腹をしのぎ、それから数刻歩いた。
頭上では烏が舞っていた。俺が倒れるのを待っているのだろうか。
ふん、お前らに喰われてたまるものか。
だが、その時目の前が暗くなった。
全身の力が抜け、膝から崩れ落ちた。
頬に砂利が食い込んだが、たいして痛くなかった。
はあ、このまま終わるのかな。
烏がひと際大きく嘶(いなな)いた。
食い物の匂いだ。
力なく目を開ける。粗末な小屋のような所だった。
烏の声を聞いて倒れた。
それからの記憶がない。
ここは、どこだ。
「ああ、起きたかね。よかった、死んじまったかと思ったで」
ふいに大きな声がした。
椀と箸を持ってどたどたと駆けてくる。それを枕元に置くと、こちらをじっと見つめてきた。
不精髭を生やした顔がにっこり笑っている。
破れたままの服。土で汚れた手足。農夫のようだ。
「びっくりしただよ。道の真ん中にぶっ倒れてるから。腹減ってるんだなと思って、連れて来たけど、うちにもこれくらいしかなくって。良かったら食ってくれ」
何とか起き上がり碗を掴んだ。
少しの穀物と少しの菜の入った汁だった。
箸も使わずかき込んだ。
美味かった。
こんな味も素っ気もない汁が、とてつもなく美味かった。
涙が止まらなかった。
農夫はその様子をにっこりと眺めているだけだった。
「よかったなあ。何があったかしらねぇけど、生きてりゃ何とかなるべ」
涙と鼻水を垂らしたまま農夫に礼をした。
「ありがとう、本当にありがとう。俺は潭州の生まれの蔣敬(しょうけい)という。科挙に落ちて自暴自棄になり、ふらふらと放浪していたのだ」
「なんと科挙を受けなさる秀才でしたか。これはこれは大したもんだ」
「いや、俺は落ちたのだよ。大したことなどこれっぽちもない」
「いやいや、受けるだけでも大したもんだべ。おいらなんて字も読めねぇからなあ」
そう言って農夫は明るく笑った。
字が読めない事など、何の不幸でもないという風に。
その農夫は、陶宗旺(とうそうおう)という名だった。
自分の名前だけは何とか書けると、見せてくれた。
土間に枝で綴られた字を見ていると何だか胸が熱くなってきた。
そこに、くう、という音が響いた。
「あらら、お腹の虫が鳴いちまっただなあ。こりゃ恥ずかしい」
「まさか、陶宗旺あんたの飯は」
「うん、あれで終いだ」
どうして自分で喰わない、と怒る蔣敬。命を救われたのに怒るとは、おかしな気分だったが。
「食いもんは何とかなるだよ。それよりあんたが死にそうだったんでなぁ」
そう言って頭をかきながら陶宗旺は笑った。
善人にもほどがある。
自分の命よりも人の命を優先するというのか。こんな人間がいたのか。
ふと故郷の潭州のあの男を思い出した。
方天画戟を使う呂布に傾倒した呂方だ。あいつもよっぽどのお人好しだったが、こいつは輪をかけたお人好しだ。
そう言えば、科挙に落ちたらあいつの店の番頭をすると約束していた。
すまない、会わす顔がない。
「ならば何か手伝わせてくれないか。せめてもの礼をしたいんだ」
蔣敬は床(とこ)から起き上がり、言った。
「ありがてぇなぁ。けど大丈夫、おいら一人でできるから、あんたはゆっくり寝ててくれ」
そう言って陶宗旺はにっこりと微笑んだ。
日の出とともに、陶宗旺が家を出た。
蔣敬はそれを待っていた。何もしなくて良い、と言われたが何かしたかった。
すぐに田に着いた。
蔣敬は目の前の光景が信じられなかった。
喰う物がないと言っていたではないか。
目の前の田には、一面たわわに穂を実らせた稲が、朝日を受け黄金色(こがねいろ)に輝いていたのだ。
「おい、こんなに米があるではないか。喰う物がないなどと言って」
陶宗旺は鋤(すき)を担いで微笑んでいる。
「いやあ、良く育ったなぁ。でもこれは、地主さまに納めなくちゃならねぇんだ」
馬鹿な、と蔣敬は目を見開いた。
ざっと見、十畝(じっぽ)くらいの広さか。これだけ実っていれば、約六千斤は収穫できるだろう。とすると五、六十人の一年分の飯は賄えようか。
一人の農民からそんな税を取り立てる法などあるものか。
「陶宗旺、それは何か違うぜ。そんなに納めてどうするんだ、お前が喰ってけないじゃないか」
「まあ、地主さまの言う事だから間違いないんだべ。さ、始めちまうぞ」
蔣敬の胸に何かが突き刺さった気がした。
本当に嬉しそうに稲を収穫する陶宗旺。
蔣敬も、何か、と田の中に足を踏み入れた。しかし歩こうとして足が前に出ず、つんのめるように泥の中に突っ込んでしまった。
「あはは、慌てるでねぇだ」
笑いながら陶宗旺が蔣敬を助け起こす。
「大丈夫だ」
と手を振り払い、何とか立ち上がった。そして足を踏み出そうとするが、上手くいかない。
一方、陶宗旺はひょいひょいと苦も無い様子で田の中で仕事を進めている。
蔣敬の不思議そうな視線に気づいたのか、陶宗旺が言った。
「ちょっとしたこつがいるだよ。村の者(もん)なら皆できるべ」
なるほど、と素直に感心した。
米の育て方も、田の中での歩き方も蔣敬は知らなかった。これまで学んできた、役人になるために学んできた事はなんだったのだろう。陶宗旺を見ていると、何とも言えないもどかしさを覚えた。
悶々とした気持ちを打ち消すかのように、蔣敬は泥を掬(すく)い陶宗旺に投げつけた。
「あ、やっただな」
泥を顔につけた陶宗旺がにっこりと笑った。
それから子供のように泥の投げ合いが始まった。お互い顔も着物も泥まみれになり、笑いあった。
その日の仕事を終え、川で泥を落とした。
ついでに陶宗旺は川魚を少し捕まえ、それで腹を満たした。
だが蔣敬の心は悶々として、満たされる事はなかった。
蔣敬が気付くとすでに日は高く昇っていた。
昨晩、悶々と考え事をして寝付けなかったのだ。
床(とこ)から飛び上がるようにして、陶宗旺の元へと駆けた。
そこに誰かがいた。遠目にも上等な着物を着てるのが分かり、でっぷりとしていた。
あれが地主だろうか。蝦蟇(がま)のようだ、と蔣敬は思った。
蔣敬は思わず畦道の陰、田に体を半分沈めるような形で隠れた。気付かれてはいないようだった。
地主らしき男は、陶宗旺の田の様子を見てからからと笑い、向こうへと去って行った。
充分に姿が見えなくなるまで待ち、蔣敬はやっと這い出るように畦道に戻った。
「おや、そんなところにいただか。泥遊びでもしてただか」
陶宗旺が嬉しそうに寄ってきた。蔣敬は彼に構わず言った。
「今の男が地主なのかい」
そうだよ、と陶宗旺は言った。
そうか、と蔣敬は泥を滴らせながら陶宗旺の家へと戻って行った。
残された陶宗旺は不思議そうな顔をしていたが、思い出したように置いていた鍬を手にした。
蔣敬は川で泥を落とし、着物を干した。
幸い、陽は暖かく、風邪を引く事はなさそうだった。
その夜は、陶宗旺が捕ってきた蛙を喰った。
田の中や近くの川にたくさんいるらしく、食料がない時は重宝しているのだという。やや硬いが、鶏肉のような感じだった。
蔣敬はあの地主を思い出していた。陶宗旺は相変わらず、さっさと床についてしまい、蔣敬は相変わらず何か考え事をしていた。
暗がりの中、蔣敬はじっと土間を見つめていた。
そこにはたどたどしく書かれた、陶宗旺という字がまだ残っていた。
蔣敬は大きくため息をつき、目を瞑ると天井を仰いだ。
外では蛙が鳴いているようだった。
「さすがは神算子どの。算盤を使わずにこれらの計算をしてしまうとは」
地主の言葉に、謙遜をしながら蔣敬が帳簿をつけていた。
なぜか算術は得意だった。はじめは算盤を使っていたかもしれない。だが次第に頭の中で計算できるようになり、今では万単位でも間違えずに計算する事ができた。
神算子。自分の事をそう呼んでくれた男がいた。
故郷の潭州にいた呂方という生薬商人だった。商人のくせに、最強の武人と呼ばれる呂布に傾倒し、方天画戟まで我流で修めてしまった変わった男だった。
蔣敬は代わりに賽温侯と名付けたが、呂方は小温侯で良いと笑った。
科挙に落ちたら呂方の店の番頭をする。そう約束していた。
いま、蔣敬は陶宗旺の村の地主の番頭をしていた。
陶宗旺には何も告げずに出てきた。宿と飯の礼は言いたかったが、置き手紙をしようにも陶宗旺は字が読めないし、悩んだのではあるが。
科挙には落ちたが、どんな計算でも瞬時にできるという触れ込みで地主に掛け合った。この村では読み書きできる者はやはり少なく、帳簿を正確に付けられる者となればなおさらだった。
はじめの半月くらいは真面目に実務をこなし信用を得る事に努めた。蔣敬はあくまでも真面目な書生を演じ、そんな彼に地主も胸襟を開くようになっていった。
「陶宗旺という男がいてな」
ある日、地主が唐突に話し始めた。
蔣敬は関心ない風を装い、帳簿に目を落としていた。
地主は独り言のように話している。
「朴訥な農夫だが、器用な男でな。田の管理、灌漑路の整備いわゆる土木に関する事はもちろん、時には農具の修理はおろか自分で作ったりしているのだ。それがまた使い勝手が良く、他の農民も欲しがるほどなのだ」
地主は持っていた湯呑みをすすった。
「九尾亀(きゅうびき)、いつしかその多芸ぶりから、陶宗旺はそう呼ばれるようになっていた。しかも、だ」
地主が蔣敬の卓に身を乗り出してきた。蝦蟇のような顔が迫り、やっと蔣敬は顔を上げた。
「ここ数年、不作が続いているのだが、奴の田だけは必ず豊作なのだ。他の農夫も教わって同じようにやるのだが、上手くいかないのだ。きっと何かほかに秘密があるに違いないとわしは踏んでいるのだがな」
ほう、と蔣敬は言うにとどめた。
確かに帳簿を見ても、ここ数年は不作といってよい出来の悪さのようだった。だが、陶宗旺の田からは通常以上の米を税として徴収していたのだ。他が不作だったから、陶宗旺に肩代わりをさせているという言い分なのだろう。
そういった時のための備蓄なりがあるはずだろう。屋敷の裏には巨大な蔵がしっかりと鎮座しているのだ。しかし地主の蔵からはそういった類のものは一切出していないようだった。
その日、蔣敬は帰路につくふりをして屋敷に隠れた。
人々が寝静まるのを待ち、暗闇で蔣敬は考えていた。
あの日、田に実った揺れる黄金(こがね)色の稲穂を陶宗旺が見ていた。
本当に嬉しそうに、まるで我が子のようにひとつひとつの穂に語りかけていた。頑張ったなと愛(いつく)しみ、ありがとうと感謝していた。
農作の事など門外漢である蔣敬は思った。
陶宗旺の稲が豊作になるのは当然だ、と。
なにか秘密があるのではない、あるとすれば陶宗旺がどんな時も全身全霊で稲に愛情を注いでいる事だけだ。
真似をしたところで、できるはずもないだろう。
心の底から稲たちを愛する事など、おそらく陶宗旺にしかできない事だろう。
蔣敬は陶宗旺の笑顔を思い出し、もう一度会いたいと思った。
やはりというか、蔵の中には俵がうず高く積まれていた。
米俵だけではなく、なにやら高価そうな調度品なども見られた。
蔣敬は頃合いを見計らい、暗闇に目を慣らすと鍵束があると思しき場所を探した。そして蔵の鍵を見つけた。そのまま裏口から忍び足で蔵へ向かい、慎重に重い扉を開けたのだ。
帳簿や書類には一切記されていない地主の隠し財産。蔣敬は暗がりの中で紙束を広げ、それらのすべてを記録した。
やがて一番鶏が鳴く頃、蔣敬は急いでその場から離れた。
空が白(しら)みだしている。
農村の朝は早い。
蔣敬は物陰や木陰に隠れながら、誰にも見つからぬよう必死に駆けた。
陶宗旺が一日の仕事を終え、家へと戻った時である。
家の陰から出てきた男を見て、陶宗旺は微笑んだ。
「やあ、蔣敬。突然いなくなったから心配してただぞ」
「すまない、いやありがとう」
陶宗旺が変わらぬ笑顔で迎えてくれた。
蔣敬も同じような笑顔だった。