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葛藤

 報告を聞いた梁世傑が、げっそりとした青い顔をしていた。

 何ということだ。李成や索超をもってしても、梁山泊軍を退けることができないとは。

 梁山泊軍が庾家疃を越え、槐樹坡に近づいているという続報に、梁世傑は血の気を失った。

「中書さま、この私も出陣しましょう。何としても梁山泊の奴らを叩きのめしてみせます」

「おお、聞達よ、よくぞ申した。もうお主しか残っておらぬ、頼んだぞ」

 聞達が命令を拝し、駆けて行った。だがまだ心配そうな梁世傑の前に王太守が進み出た。

「畏れながら」

「なんだ、またお前か。言ってみろ」

「天王の李成どのと大刀の聞達どのの力があれば、今度こそ梁山泊の奴らも簡単には攻められないでしょう。ですが、開封府の蔡太師どのからはお返事など」

「まだ来ておらんのだ。わかった、こうなっては義父に早く動いてもらおう」

 梁世傑は督促の使者を出すことにした。それには報告のために大名府に戻っていた王定が選ばれた。王定はすぐに手紙を携えると開封府へと急いだ。

 冬の最中だというのに。この汗はどうだ。

 梁世傑は椅子に腰を下ろして汗をぬぐった。

 翌日、聞達は兵と共に馬を飛ばし、槐樹坡へとたどリついた。

「李成、お前がいながら何という体たらくだ」

「言い返せぬよ。その通りだからな」

 む、と聞達は苦い顔をした。李成がそこまで言うほどの相手なのか、梁山泊とは。

「索超」

 聞達が呼ばった。すぐ幕屋に索超が駆けてきた。聞達が来た事に少し驚いているようだ。

「王定の奴は開封府へ走らせた。蔡太師に力を借りるためにな。悔しいがな」

 確かに悔しかった。索超も口を固く結んだ。

「ともかく、だ。このままおめおめと引き下がるわけにはいかない。李成、お主はここを守っていてくれ。わしと共に出るぞ、索超」

 はっ、と索超が吼えた。

 槐樹坡の陣を出撃すると、すぐに梁山泊軍が現れた。すでにこんな近くまで来ていたのか。

 聞達は檄を飛ばし、兵を駆けさせた。索超も先日の負けを忘れるがごとく、声を張り上げ、駆けた。

 両陣営の先頭がぶつかり合う。

 乱戦の中、梁山泊軍から一人の将が悠然と進み出た。いかにも軍人という体躯に、幾多もの戦場を潜ったと思われる目つき。後ろにたなびく旗には、秦の文字。

 梁山泊軍前軍を率いる、霹靂火の秦明であった。秦明の声が朗々と響きわたる。

「北京大名府軍よ、聞くがよい。罪のない民百姓のため思いとどまっていたのだ。まだ間に合う、盧俊義と石秀を引き渡すのだ。そうすれば大名府が火の海にならずに済むというものだ。よく考えるのだな」

 聞達が命令を飛ばす前に、索超が飛び出していた。

 索超が怒りに声を震わせる。

「抜け抜けと言えたものだ。貴様も国の禄を食んでいた身ではないか。よくも賊になどなり下がりおって。このわしが叩きのめしてくれる」

 秦明という名は聞き及んでいた。青州で統制まで務めていた軍人だ。

 だが清風山の山賊と戦い、それに敗れた。そして賊の仲間となり、ついには梁山泊へと流れたと聞いていた。

 何故ゆえ山賊などに。秦明に対してそう思った時、ふと楊志の顔が浮かんだ。

「よく言った。その言葉そっくり返してくれるわ」

 秦明も索超に向かって駆けだした。

 狼牙棒と金蘸斧。どちらも異形の、まさに凶器が唸りを上げた。力と力がぶつかり合い、どちらも一歩も引かなかった。

 互いの武器を押し合い、歯を食いしばり、睨みあう。同時に離れ、また得物を振るう。

 金蘸斧が秦明の頭をかすめ、狼牙棒が索超の喉元をかする。どちらの軍勢も固唾を飲んで、その戦いを見守る。

 この戦いで秦明の副将となった韓滔と彭玘も、思わず拳を握りしめている。

「なぜ、賊などに降った」

「梁山泊は、賊などではない」

「賊以外の何だというのだ」

「この国を救うという大義を掲げた連中だ」

 索超は狼牙棒を避けた。だが次の手が遅れた。

 秦明に投げた言葉は、そのまま楊志に聞きたかったものでもあった。そしてその答、秦明の言葉に戸惑いを見せた。梁山泊が国を救う、という言葉に。

 その隙を突き、秦明が優勢になった。索超も我を取り戻したが、防戦一方となってしまう。

「何をしている、索超め」

 聞達が歯嚙みをした。兵を呼び、命令を伝える。すぐに兵が一列にならび、弩を構えた。

 号令と共に矢が放たれた。

 だがその前に彭玘が単騎、飛びだしていた。

「韓滔、あとは」

 頼む、と最後まで言わさず、韓滔が応える。

「おうよ」

 韓滔も一拍遅れて馬を駆った。

 弩兵と秦明、索超の間に入った彭玘が、三尖両刃刀を舞わせた。冬の陽を反射し、光の弧を描いた。

 聞達は目を見張った。吸い込まれるように、矢が両刃刀に落されてゆく。まるで演武を見ているようだった。

 しかし彭玘だけで落とせる矢の数ではなかった。二本ほどが、秦明に向かっていた。

 駆けながら韓滔が弓を構えていた。弓は得意とは言えないが、武器の届く距離ではなかった。しかも二本同時に射るのだ。

「当たれ」

 韓滔が思わず叫んでいた。

 当たった。だがひとつだけだ。

 もう一本は秦明に向かっていた。

 韓滔も彭玘も、それを目で追うことしかできなかった。

 だが矢と秦明の間に、索超が割って入った。

「何を」

 聞達が叫ぶ。矢は索超の左腕に突き刺さった。

 秦明が駆け寄ろうとする。だが索超は無事な右手で、それを制するようにした。

「これは不覚。背後から矢が飛んできていたとは。すまんが、勝負は預けさせてもらうぞ」

 索超は落ちた金蘸斧を了事環に戻すと、左腕を押さえながら馬を返した。

 秦明も、韓滔も彭玘も、その姿を見守っていた。

 誰もが動く事ができなかった。

 索超の腕から血が滴る。

 うっすらと積もった雪の上に、紅い花がいくつも咲いたように見えた。

 白勝と曹正が、村の老人から話を聞いていた。

「覚えているとも。ほんに気立てが良くて、美しい女子じゃった」

 二十年ほど前の事だ。大名府へと向かう途中で、小燕子の一座はこの村に寄った。その頃は、まだ人も多くいたのだという。

「三日目くらいの事かのう」

 老人は記憶を辿るように話し始めた。

 その日、賊の一団が村を襲った。だが小燕子ともう一人の男が賊どもを蹴散らしてくれたのだという。

 こんな奪う物もない村に賊などと、と思ったがとにかく難は去った。村人たちはできる限りの礼を贈ったが、小燕子はそれを笑顔で断ったという。

 だが村人も小燕子も油断していたのだろう。賊が仲間を引き連れて、夜襲をかけたのだ。

 家々に火をつけられ、寝込みを襲われたが村人と小燕子たちは必死に抵抗した。

 だが、と老人は言葉を詰まらせた。

「小燕子も、強い男も殺され、残されたのはたくさんの死体だけだった」

 老人が絞り出すように言い、嗚咽を漏らした。白勝と曹正も、やるせない思いでそれを聞いていた。

 賊が去り、老人を含め生き残った人々は憔悴しきったまま朝を迎えた。

 太陽の下で見る犠牲者は、それは凄惨なものだった。どの者も傷が酷く、顔も判別できないほどだったという。村人は辛うじて、着ている物で誰であるかを判断した。

 小燕子と強い男も、身に付けていた服でわかったのだという。

「その賊は」

 曹正が怪訝そうに聞いた。

「さあ、それっきりじゃったよ。西の山の方へと去ったみたいじゃったがな」

「そうですか。ご老人、辛いことを思い出させてしまったようで、申し訳ありませんでした」

 老人は何も言わずに、席を立った。畑の方へと向かったようだ。

「曹正の旦那、手掛かりが無くなっちまいましたね」

 しばらくの沈黙の後、白勝がぽつりと言った。曹正は腕を組み何やら考えていたが、やがて立ち上がった。

「その、西の山とやらへ行ってみよう」

「西の山ですかい」

 白勝は、自分でも間の抜けた言い方になったのに気付いた。慌てて立ちあがる。

「そこへ行って何を、旦那」

「手がかりは消えた。だが、どうにも納得できないのだ」

「何がですかい」

「賊だ。あの老人も言っていたが、村を襲う意味があったとは思えない」

 白勝は無言だ。

「もし、襲う理由がその時だけあった、としたら」

「その時だけ、ですかい。まさか」

「分からんよ。だが、もし小燕子を襲うため、だったとしたら」

 ごくりと白勝が、青い顔で唾を飲み込んだ。

 二人は急いで西の山へと向かった。その日は野宿し、次の朝早くに麓へと着いた。

 人がいる形跡は絶えて久しいようで、草が伸びきっていない道のようなところを辿って上を目指した。

 開けた場所に出た。そこに古い廟が打ち捨てられていた。草が伸び放題になっており、廟の壁なども半ば腐っているようだ。

「旦那」

 白勝が血相を変えて叫んだ。曹正が駆け寄る。

 廟の裏手であった。そこにいくつもの人骨が散らばっていた。

 数十体はあるだろうか。脇に刀が落ちている事や、残っている服装からして、老人が言っていた賊だと考えられた。

「同士討ですかね。あ、旦那」

「ふうむ」

 曹正が骨に近づいてゆき、何本か手に取って調べ出した。

 白勝は、ひえぇと悲鳴のようなものを漏らした。いくら普段屠殺の仕事をしているからとはいえ、これは人の骨だ。曹正の旦那も大胆だなあ、などと思いながら遠巻きに見ている。

「おい、これを見てくれ」

 そう言われ、恐る恐る覗き見た。

 それは足の骨だった。脛だろうか。おかしな方向に折れている。次に頭骨を見せられた。その頭骨は、顔面の中央が丸くくぼんでいた。

「旦那、これは」

「刀などではない。蹴りや拳で、こうなったのだ」

「こいつら、全部ですかい」

「おそらく、な」

「そんな事ができるんですかい」

 曹正は黙った。そのまま廟の方へと歩き出した。白勝がそれを追った。

 そして廟の中に奇妙なものを見つけた。

 廟の中には、小さな籠や衣服などが置かれていた。汚れたままの食器なども落ちていた。

「誰か、住んでたのかな」

 そして廟の祭壇の上を見た白勝は、あっと叫んだ。曹正も、目を見開いた。

 そこにあり得ないものを見た。

 簡素な手作りの、位牌のようなものだった。

 そしてそこには、長い年月で薄れてはいたが、確かに小燕子という名前が読み取れた。

「じゃあ、あの村にあった墓は一体」

 曹正の言葉に、白勝は首を振るばかりだった。

 胸にしこりを抱えながらも、曹正と白勝は山を後にした。

 しかし本当に驚くのはその後だった。

 梁山泊に位牌を持ち帰った。

 それを見た蕭譲が断定した。

 これを書いたのは晁蓋である、と。

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