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葛藤

 高俅の虫の居所が悪かったのだろう。

 林冲暗殺に失敗したにもかかわらず、お咎めなしと思われていた董超と薛覇だったが、思い出したように異動を告げられ、北京大名府に来ていたのだ。

 二人は盧俊義を連れ、沙門島までの長い道のりを歩いていた。往復で六千里ほど。早くても優に三、四か月はかかる距離である。

「やっぱりあの林冲を護送してから、運が落ちちまったなあ」

「まったくだ、董超。しかもまたあんな面倒くさそうな奴を護送とは」

 二人がちらりと後ろの盧俊義を見やる。そしてため息をついた。

 盧俊義は足をひきずるように歩いていた。流罪前の棒打ちによるものだった。

「とっとと歩くんだ。沙門島まで、どれだけかかると思ってるんだ」

「いつも輿に乗ってばかりいたから、自分の足じゃ歩けませんってかい」

「薛覇、上手いこと言うじゃないか」

 げらげらと二人が笑い合っている。

 盧俊義の目はどこか虚ろだった。時折ぶつぶつと何かつぶやきながら、よろよろと歩いていた。

 晁蓋が死んだ。梁山泊で、晁蓋の遺言を聞いた。仇を討った者を頭領にせよ、と。

 仇は討ちたい、だが梁山泊に入る訳にはいかなかった。だが李固に密告され、投獄された。

 蔡福と蔡慶の二人ができる限りの事をして、死刑は免れた。あの二人には感謝している。

 沙門島か。奇しくも、自分が救い出させた裴宣の流罪先と同じとは。

 街道の木々の葉が黄色くなっていた。根元には落ち葉が敷き詰められようとしていた。

「おい、なにがおかしいんだ。にやにやしやがって」

 董超が水火根で突いてくる。盧俊義は我知らず笑みを浮かべていたようだ。

 日を重ね、やっと二十五里ほどだろうか。

 昨日の宿を出発してから、人家が次第にまばらになっていた。道の先にこんもりとした森が見えてきた。

「今日は朝早かったから疲れてるんだ。あの森で休みたいのだが、お前が心配だから、どうしたものか」

 董超が邪魔くさそうに盧俊義を見る。

「どうぞ、そうしてください。わしは木にでもつないでくれれば、おとなしくお待ちしております」

「本当か。逃げだそうって魂胆じゃないだろうな」

「とんでもございません。見てください、この足じゃ逃げられなどしません」

 盧俊義の足は傷だらけで、血豆のようになっているところもあった。

「まあ、そこまで言うのならば、お言葉に甘えようか」

 薛覇がそう言って森へと入ってゆく。

 董超は森の手前で、ふと何かを思い出した。

「おい、薛覇。なんか前にこんな光景見たような」

「何だ、董超。何か言ったか。早く来いよ」

 董超は首をかしげながらも、森へと入って行った。

 盧俊義は縄をかけられると疲れからか、意識を失ったように眠ってしまった。

 薛覇が水火根を手にして、人が来ないか見張ってくれと董超に言った。

「そのまま眠っていてくれよ、盧俊義の旦那。あんたの店の李固に、やれって言われたんだ。化けて出るなら奴のところに出ろよ」

 どさりと落ち葉の上に何かが落ちる音がした。

「おい薛覇。やったか」

 何度か聞くが、答えがない。

 見ると、そこに倒れていたのは薛覇だった。

 董超が駆け寄ると、薛覇の胸に三寸ほどの矢が刺さっていた。弩に使われる矢だった。

 薛覇は白目をむき、もう息も絶え絶えだった。

 木の陰から、弩を手にした燕青が現れた。

 思い出した。

 董超の側頭部に矢が突き立った。

 野猪林の時と同じ光景だったと思い出した。

 だがそれは、少し遅すぎたようだ。 

 その赤ん坊は男の子だった。

 小燕子の子だ、と晁蓋は言った。

 盧俊義はその子を、燕青と名付けた。

 父が誰か、晁蓋は告げなかった。そして盧俊義も聞かなかった。小燕子の子、それだけで充分だった。

 妻はいないため養子にはせず、孤児を引き取ったことにした。

 言葉を話すころには、その顔だちがますます小燕子にそっくりになってきた。

 盧俊義は燕青に、小燕子の姿を見ていたのかもしれない。

 幼い時分から燕青に書や歌舞音曲を教え込み、さらに商人である盧俊義は仕事に燕青を連れ歩くと各地の方言や風習などを教え込んだ。

 小燕子がそうであったように、燕青もまたそれを習得する才能と、素地があった。

 盧俊義は武芸も教えることにした。燕青の筋肉は、鹿のように締まったものだった。

 重い武器を振りまわす、軍人などに向いた熊のような筋肉ではない。むしろ自らの体を武器とする拳法に向いていると判断した。

 やはり小燕子の血を継いでいる。盧俊義の読みは当たった。

 小燕子の華麗な技に、男である筋力を加え、盧俊義さえも目を見張るほどだった。

 だがそうはいってもまだ子供である。組み手では何度も盧俊義に打ち返され、転がされた。

 当時の盧俊義は気力、体力も盛(さか)りだったと言って良い。負けて当たり前なのだが、それでも燕青は悔しかったのだろう。

 いったん休憩だ、と言った盧俊義に打ちかかって行った。背を見せていた盧俊義は、それに気付き、咄嗟に渾身の力で拳を打ちこんでしまった。

 嗚咽をもらし、燕青が気を失った。

 盧俊義は自分の掌を見つめていた。

 思わず本気でやってしまった。いや、本気を出さなければならないほどの殺気を感じたのだ。背筋が怖気(おぞけ)立つような、臓腑を抉られるような殺気である。

 盧俊義は思い出した。かつて同じような気を感じた。

 初めて小燕子と会った時の事である。その側にいた男から感じた気に確かに似ていた。

 気を失った燕青は、まだあどけなさを残した顔をしていた。盧俊義は、燕青を肩に担ぎ、家路を急いだ。

 燕青が寝息を立てている。

 まさか、この子が。どうして、あの気を。

 晁蓋は、燕青の父が誰か告げなかった。

 知らなかったのか。もし、知っていて告げなかったとしたら。

 まさか、あの男が。まさか、そんな。まさか。

 盧俊義はその先を考えることを放棄した。

 いまも無意識に、震える手が燕青の首元に伸びていたのだ。

 この子に、燕青に罪はない。

 そう思うしかなかった。

 だが、それを貫ける自信が、盧俊義にはなかった。

 燕青は、盧俊義の予想通りに端正な顔立ちの美丈夫に成長した。

 盧俊義はあの日以来、燕青に冷たく当たってしまうことがあった。

 分かっている。分かっているのだが、あまりに優秀すぎる燕青の姿にあの男の影を、あるはずもない影を感じてしまうのだ。

 だがそうとは知らず、燕青は育ててくれた恩義を抱いている。

「申し訳ございません、旦那さま」

 小燕子の面影でそう言われると、盧俊義は得も言われぬ思いに苛まれるのだった。

 

 揺れている。

 は、と目を開けると、やはり揺れていた。

 燕青が、盧俊義を背負って歩いていた。

「わしは、夢を見ているのか」

「お気づきになられましたか、旦那さま」

 燕青が嬉しそうに笑った。燕青の体など隠れてしますほどの盧俊義を背負っているのに、汗ひとつかいてはいなかった。

 盧俊義はそのまま背に揺られながら、燕青が語る経緯(いきさつ)を聞いた。

 投獄中は、蔡兄弟が役人すべてにたんまりと袖の下を渡していたのだが、牢の外となると誰も守ってくれる者はいない。

 案の定、李固が董超と薛覇を呼びだすのを目撃した燕青は、ずっと後をつけて来た。そしてこの森で盧俊義を殺そうとしたところを救いだしたのだ。

「すまんな、小乙よ」

「なにを言います。私が旦那さまから受けた恩を思えば、このくらい」

 盧俊義はこみ上げるもので言葉を詰まらせた。

「しかし、小乙。役人を手にかけてしまい、これからどうすれば良いのか」

「旦那さま、ひとつ提案しても」

「なんだ」

「梁山泊へ、逃れるほかないかと」

 盧俊義はまたも言葉を詰まらせた。

「ならん。それはならんぞ」

「こうなってしまった以上、覚悟を決めましょう。晁蓋さまの仇を討つには、それが一番かと思います。もちろん私もお供いたします」

「小乙、わしに指図するのか」

 いえ、と燕青は前を向いた。

「その話は後だ。とりあえず、お前も疲れただろう。どこか適当な宿を見つけて、そこで休もうではないか」

 はい、と燕青の顔が明るくなった。

 董超と薛覇は、通りがかりの旅人に発見された。

 すぐに役所に連絡が入り、手配の布告がかかり、人相書が各地に立てられた。

 宿の主人はお触れを知り、すぐに組頭に届け出た。

 曰く、人相書とそっくりな風体の二人が泊まっていると。

 燕青が戻った時、盧俊義が捕り手たちに連行されるところであった。燕青は晩飯のおかずのために、鳥を仕留めに行っていたのだ。

 飛び出して助け出そうと思ったが、向こうは武器を手にした二百人もの多勢である。独りで勝てないとは言わないが、間違えば却って盧俊義を危険にさらしてしまうことになりかねない。

 近くの丘の上で、樹に隠れながら燕青は手をこまねいているしかなかった。

 盧俊義が去った道は北京大名府へ続く道だ。こうなれば梁山泊に行き、宋江を頼るしかあるまい。そう決めると、燕青は南へと駆けだした。

 気は急くのだが、いかんせん腹が空いてしまった。盧俊義を助けだすのに必死で、ほとんど口にしていなかったのだ。

 燕青の耳に鳥の鳴き声が聞こえた。丘の上の林の中から聞こえた。気配を殺し、岡を登るとそこに鵲がいた。

 だが手持ちの矢は一本。鵲を仕留め、何とか体力の足しにしなければならない。

 燕青は、矢が当たるように天に祈った。

 気を矢の先に集めるようにして、燕青が弩を引いた。矢は鋭い音とともに、鵲に向かって飛んだ。

 矢は尾のあたりに当たった。鵲はわずかに飛びあがっただけで、そのままよろよろと岡の向こう側へ落ちて行った。

 燕青は急いで丘を駆けおりて探したが、どこにも見当たらない。

「何という事だ」

 天を仰いでいる所へ、前から二人の男がやってきた。もしや捕り手だろうか。

 燕青は顔を隠しながら、男たちとすれ違った。そして二人の背を見つめて思う。

 鵲も逃し、矢も尽きた。何の恨みもないが、この者たちの銭を拝借するしかあるまい。

 燕青は気を消し、二人の背に近づく。

 ふっ、と息を吐き、拳をひとりの背に叩きこんだ。

 ぐ、と呻き、男はよろめいたが何とか倒れるのを堪えた。

 燕青は少し驚いた。自分の拳で、しかも不意打ちでも倒れないとは。

「兄貴、大丈夫ですか。誰だ貴様は」

 もう一人の男が棒を横に薙ぎ払った。燕青は即座に頭を下げ、棒を潜ると一足跳びで男の眼前に迫った。

 燕青は男の体に掌打を繰り出した。男は身体を無理やりに捻ると、肩口でそれを受けた。

 この一撃をかわすのか。この二人、一体。

 棒を持った男はそのまま、燕青を抱きかかえるように倒れこんできた。がっしりと燕青の服をつかんでいる。

 そこへ兄貴と呼ばれた男が腰刀を抜き放ち、燕青に迫った。

「楊雄の兄貴、いまです。こいつをたたっ斬ってください」

「そのまま動くなよ、石秀」

 楊雄の刀が、頭上高く上がった。

「待ってくれ」

 燕青が叫んだ。

「あんた、楊雄というのか。もしかして病関索どのなのか」

「いかにも。だが、それがどうした」

「私は燕青。北京大名府の盧俊義さまに仕える者だ。あなたの噂は、大名府の蔡福という者から聞いていた」

「蔡福とは鉄臂膊の事か。わしも蔡福そして蔡慶の噂は聞き及んでいる。おい、石秀」

 石秀が、燕青を解放した。棒を構え直し、燕青に向きなおる。

「どうしてこんな所にいるんだい」

 燕青は包み隠さず語った。流罪となった盧俊義が殺されそうになり、それを救いだした事。そして宿の主人が通報し、盧俊義が再び捕らわれの身となった事。

 石秀はすっかり警戒を解き、同情する顔をしていた。

「そうだったのか。ご苦労だったなあ。俺たちも北京に様子を探りに行くところだったのだ。いやあ、会えて良かった」

 その言葉に燕青の胸が熱くなった。だが、張っていた気が緩んだのだろう、燕青が両膝をついてしまった。

 石秀が心配そうに駆け寄ってくる。

「おい、大丈夫か。そうか、何も喰ってないんだっけな」

「よし、石秀。どこか飯の支度ができそうな場所を探してくれ。丁度こいつがあって良かった」

 楊雄が鵲を手にしていた。尾のあたりに矢が刺さっていた。

 苦笑いをした燕青は、天を仰いで呟いた。

「晁蓋さま、ありがとうございます」

 飯だけではなく、頼もしい味方まで与えてくれるとは。

 燕青は微笑み、天に感謝した。

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