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葛藤

 李固が手を揉み、満面の笑みを浮かべていた。

「やっと、この瞬間が来たか。これでお前とも晴れてひとつになれるのだな」

 横にいる賈氏に向けて、そう言った。賈氏も満更でもない顔であった。

 北京大名府の大きな通りの四つ辻である。これから盧俊義の処刑が行われようとしていた。

 誰しもが耳を疑い、駆けつけて目を疑った。北京一の富豪、河北の三絶とも呼ばれる盧俊義が首枷をはめられ、膝をついていた。

 その傍らにいるのは鉄臂膊の蔡福と一枝花の蔡慶。ふたりとも困りきった顔で、鬼頭刀を手にしていた。

「盧俊義どの、まさか捕まっちまうなんて。うまくいったと思ったんですが」

「もう良い、蔡福。こうなったのも定めというものだ、もうあがくまい。むしろお前の手で刑に処されるのを、名誉に思わねばならんな」

「やめてくださいよ。こんな時に。兄貴も俺も、こんな事はしたくないんです」

 ふふ、と盧俊義が微笑む。そこには覚悟を決めた者の、強さのようなものが見えるようだった。

 時間だ。と役人のひとりが叫んだ。

 普段あれほど騒がしい雑踏も、いまは水を打ったように静まり返っている。

 蔡慶が枷を外し、盧俊義の首を据え直す。蔡福がゆっくりと刀を持ち上げてゆく。

 首斬りの役に就いて、これほど緊張した事があっただろうか。秋の風が涼しいのに、蔡福も蔡慶も汗を流している。

 孔目が、梁山泊と密かに通じ謀反を起こそうとした云々、と罪状を読み上げてゆく。

 そこに大声が響き渡った。

「いかにも。梁山泊ならここにいるぞ」

 声と同時に、近くの店の二階から男が飛び下りてきた。手には朴刀を握っている。

「盧俊義どの、お助けいたします」

 それは石秀だった。

 石秀は楊雄、燕青と別れ、独りで大名府に潜りこんでいた。そして刑が行われるという場所の近くの店に居座り、その時を待っていたのだ。

 兵たちが異変に気付き、駆けつけてきた。石秀は二人ほどをその刃で斬り倒すと、盧俊義の元へ駆け寄った。

「事の次第は燕青から聞きました。さあ、私の背にしっかり掴まっていてくださいよ」

 石秀はひょいと盧俊義を背負い、刑場から走り去ってしまった。

 兵たちが喚声を上げ、石秀を追ってゆく。

 その間、蔡福と蔡慶は驚いて動く事ができなかった。

 そして顔を見合わせると、同時に大きなため息をついた。

 報告を受けた梁世傑はすぐさま兵たちに命令を飛ばした。それは速やかに伝わり、四方の城門が固く閉ざされた。

「さすがは北京大名府って訳かい。梁中書ってのは、役に胡坐をかいているだけじゃなかったんだな」

 盧俊義を担いだ石秀は、それでも必死に脱出を試みた。だが捕り手たちに囲まれてしまった。

「わしを置いて逃げろ。お主だけならまだ希望はある」

「駄目です」

 石秀は毅然と言い放った。

「燕青はあなたを助けるために命がけだった。俺も、いや梁山泊もそのつもりです」

「しかし」

 その間にもじりじりと捕り手たちが二人に迫る。

「そうですね。もう捕まっちまうでしょう。だから、牢の中までご一緒しますよ、盧俊義どの。必ず、必ず梁山泊は助けに来ます。その時まで、俺が隣であなたを守ります」

「なるほど、噂に違わぬ拚命三郎ぶりだな」

 石秀がそう呼ばれていると、晁蓋の手紙にもあったのを思い出した。

「よしてくださいよ」

 撓鈎が幾つも伸び、石秀と盧俊義の体を捕らえた。二人は引き離され、固く縄をかけられた。

 梁山泊、か。

 あれほど頑なに拒んでいた梁山泊の事を考えている自分に、盧俊義は苦笑いした。

 新任の王という太守が、おびえた表情で一枚の紙を手渡した。

 受け取った梁世傑はそれを読み、冷や汗を流した。

 先日の騒動があってから、大名府に捲かれている布告文であった。

 もし捕らわれた盧俊義と石秀を返すのならば梁山泊は何もしない。だが二人にもしもの事があれば、大名府は火の海と化すであろう、という文書であった。

「ふうむ、どうしたものか」

「畏れながら」

 と王太守が進み出た。

「梁山泊の者どもは、これまで何度も討伐軍を打ち破っております。かの呼延灼将軍でも勝てなかった相手でございます。もし奴らが攻めて来たならば、あの文に書いてある事が現実のものとなってしまいましょう」

 王太守はおどおどした顔をしていた。心底、梁山泊を恐れているようである。

「北京大名府の軍を持ってしても、勝てぬというのか」

「いえ、そう言う訳ではありませんが、万全の対策を講じるのが良いかと存じます」

「ふむ、言ってみろ」

「はい、まずはこの事態を速やかに東京開封府へ上奏します。次に、中書さまのご親族であられる宰相さまに報告をして、お力を貸していただいてはいかがかと。そして最後に、大名府軍を展開し、不測の事態に備えます。もちろん、捕えた二人に手を下してはなりません」

「なるほど。義父の力はこういう時に借りんとな。よし、お主の意見はもっともだ」

 ははあ、と王太守はあらん限りの平伏をした。

 梁世傑は二人の兵馬都監を呼んだ。

 天王の李成と大刀の聞達である。

 梁世傑が梁山泊に警戒しての布陣を伝える。李成も聞達も直立し、いささか緊張した面持ちで命令を受けた。

「王の奴は何やかやと言っておったが、この大名府にはお主らがいる。我が軍は、開封府の軍にも劣るものではないと信じている。期待を裏切らないでくれ」

「必ずや、奴らの鎧の欠片、軍装の切れ端さえも残さぬほどに、粉々に打ち破ってみせましょう」

「李成の言う通りです。この大名府に梁世傑さまという偉大な指導者がいることを、世に知らしめてみせましょう」

「頼もしい言葉だ」

 梁世傑が満悦そうな笑みを浮かべた。

 李成と聞達は早速、軍議を開いた。諸将が進み出て拝謁する中に、ひときわ鋭気を漲らせている将軍がいた。

 北京大名府軍正牌の索超であった。

「李成どの、聞達どの、ぜひ先鋒はこのわしに任せていただきたいのですが」

 李成が頷いた。急先鋒と渾名されるこの索超は、いささか気が逸るところがあるが、武芸の腕は北京一と言っても良いほどだ。誰もが怖れる梁山泊に対して、自ら進み出るとは感服ものだ。

 索超は命を受け、兵たちを引き連れ飛虎峪という地に布陣した。大名府から三十五里ほどの位置である。

「お前たち、梁山泊など怖るるに足りぬぞ。騒がれてはいるが所詮は盗賊どもだ。ひとり残らず刀の錆としてくれようぞ」

 索超の檄に、兵たちが喊声を上げる。

「来ますかね、奴らは」

 副牌の周謹が横で馬にまたがっている。

「来るさ。仲間が捕らわれたのだ、必ず助け出しに来る」

 索超は、そこに梁山泊軍を見ているかのような眼つきだった。その心では、先程の檄と反対の事を考えていた。

 梁山泊軍が来るということは奴も、楊志も来るに違いない。

 楊志のいる二竜山が童貫に陥とされたと聞き、愕然とした。だが盧俊義の従者である燕青が教えてくれた。楊志たちは生き延び、青州へと向かったと。さらにその後、呼延灼率いる青州軍と戦い、梁山泊へ加わったというのだ。

 なぜそれを自分に伝えたのかは気にしないようにした。索超は、ただ楊志に会いたかった。

 全てをぶつけ合い、本気で戦った。そしてその戦いを通して、心が通じ合ったと思っていた。いま索超と共に、梁山泊を迎え討とうとしていたかもしれないのだ。

 楊志に、こちら側へ戻って来い、と言いたい。索超は、楊志を信じていた。きっと伝わると信じていた。

 李成が槐樹坡に陣を敷いたと報告に来た。城外に二十五里の位置である。

 索超は目を細め、地平の彼方を見つめ続けていた。

 

 牢の中には盧俊義と石秀がいる。

 その前に陣取るのは、蔡福と蔡慶の兄弟である。梁世傑から二人の監視を命じられていた。

「梁中書さまからは、あまり痛めつけず、かといって緩めすぎるな、と言われてます。安心してください」

「なに、俺たちがいれば、他の連中は近づいてきません。なあ兄貴」

 うむ、と蔡福も太鼓判を押した。

 石秀は投獄される際に棒でしたたかに打ちすえられたが、それでもその表情は明るい。

「すまないな、二人とも。そうだ、盧俊義どのと一緒に梁山泊に来ないか」

「梁山泊に、か」

 蔡福と蔡慶が顔を見合わせる。そう言えば訪ねてきた柴進にも、事が成った暁には厚遇すると言われていたが。

「でも、さしもの梁山泊軍も、大名府軍に勝てるのかな」

「勝てるかどうかは、分からない」

 蔡慶の問いに、石秀がはっきりと言った。

 盧俊義はそれに驚いた。盧俊義も商売人だ、大言壮語する者を多く見てきた。だが分からないものを分からないと、言いきれる者はそう多くはなかった。そしてその者は大抵、盧俊義が気にいるような者であった。

「分からないけど、必ず助けに来てくれる。梁山泊の連中は、そういう奴らだ」

 真っ直ぐな瞳だった。

 石秀が、義兄である楊雄という男の話を始めた。楊雄も首斬り人で、蔡福と蔡慶にとって尊敬の的であるらしかった。

 真剣に聞く二人のその目は、英雄の物語を聞く子供のようだった。

 梁山泊か。

 晁蓋よ、お前は全くとんでもないものを作っちまいやがったな。

 盧俊義は牢の壁にもたれかかり、石秀の話に耳を傾けることにした。

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