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葛藤

 北京大名府の大通りが、にわかに騒がしくなった。

「蔡兄弟だ」

 子供たちがそう叫んで、沿道を駆ける。たくさんの人々も集まっていた。

 その人々に賛辞の言葉をかけられながら、二人の男が闊歩していた。

 その手には刃が鈍く光る、首斬り刀が下げられていた。

 蔡兄弟は今しがた斬首を終えた、首斬り役人の兄弟であった。

「なんでも、ここいら一帯を荒らし回している田虎一味を捕らえたらしい。今日はそいつらの処刑だったとか」

「そうだったのか。いや、俺もこの目で見たかったよ」

「捕らえた副牌の周謹どのもさすがだが、やはりあの二人の斬首は名人芸だからなあ」

「さすが鉄臂膊。いいぞ一枝花」

 人々はそう喝采しながら、二人に祝儀や酒などを振る舞っていた。 

 鉄臂膊と呼ばれたのは兄の蔡福。常人の何倍もあろうかという腕の太さが、その渾名をよく表していた。

 一枝花というのが弟の蔡慶。細身ではあるが引き締った筋肉で、痩せている訳ではない。そして髪に花をひと挿ししている。それが渾名の由来だった。

 やがて蔡福と蔡慶は、宿舎のある牢城へと消えた。

 山のような祝儀を卓に放り、蔡福は大きな体を寝台に投げ出した。大きく寝台が軋み、埃が舞い立った。蔡慶は刀を掛けると、倒れるように椅子に腰かけた。

 そして二人は同時に大きなため息を吐きだした。

「はあ、おいどうするんだよ、慶」

 枕に顔をうずめた蔡福が弱々しく言った。

「どうするって。俺に聞くなよ、兄貴」

 蔡慶は顔を手で覆い、この世の終わりかと思うような様子だった。

 さきほど通りを堂々と歩いていたのとはまるで別人のような二人であった。

 その日の朝、盧俊義が入牢してきた。その牢の節級がこの蔡兄弟だった。

「しかしどうして、盧俊義どのが投獄されたりするのだ」

「何でも梁山泊と裏でつながっていて、謀反を企てていたとか」

「そんな馬鹿な」

「だよな、兄貴。俺もそう思うんだ」

 蔡福と蔡京はもちろん盧俊義の事を知っていた。なにしろ彼らがまだ下っ端の役人だった頃から、何かと面倒を見てくれていたのだ。

 さらに、ふたりの名前である。福と慶、そう名付けたのはなんと盧俊義の父であったのだ。蔡兄弟の父も牢役人で、盧俊義の父と親しかったのだ。

 小さな頃から父に、

「盧家には世話になっている。お前たちの名は盧家からいただいたものなのだから、ご子息にも失礼があってはならんぞ」

 と、つねづね言い聞かされてきたのだ。

「蔡福さま、蔡慶さま、お客さまが見えられておりますが」

 部下が部屋の入口に立っていた。蔡兄弟は話をしていて気付かなかった。

 飛びあがるように蔡慶が立ち上がり、部下の前に立った。

 左手で部下の右手をねじあげ、己の右手をその顔に当てた。

「おい、いきなり入ってくるんじゃねぇ」

 牢では冷酷で、仕事には定評のある二人で通っている。泣き言など漏らしている姿を見られたとあっては、沽券(こけん)に関わるのだ。

 蔡慶は人差指と中指を、部下の両目に近づけた。そして指先を目玉とその下の骨の窪みにずぶりとめり込ませた。

 にゅるりと目玉がこぼれ出しそうなほど飛び出した。

 ひい、と悲鳴が上がる。

「やめろ、慶」

 蔡福の言葉にやや自分を取り戻した蔡慶だったが、指はそのままだった。

「ふん、つまらん奴だ。とっとと出て行け」

 と言って、部下の尻を蹴とばした。

 ひいっ、と無事に済んだ部下がすっ飛んで行った。

「まったく見境がないな、お前は」

 へへへ、と蔡慶は酷薄な笑みを浮かべた。

「しかし、客だって言ってたが、一体誰なんだ」

「そうだな。わしが行ってくるから、お前は盧俊義どのを見てきてくれ」

 蔡福が大きな体を揺すり、部屋を出た。

 蔡慶は髪に挿した花を少しいじっていたが、やがて牢へと向かった。

 蔡福の顔を見た途端、燕青がひれ伏した。

 燕青は額を地面に擦りつけるほどで、涙を浮かべていた。

「蔡福どの、私にはお渡しできる付け届けもございません。ここになんとか集めた食べ物がここにございます。これをどうか旦那さまにお渡しいただきたいのです」

 驚いた蔡福は、すぐに燕青を助け起こした。

「わしに頭など下げないでください。わしたち兄弟は盧員外はもちろん、あなたにも世話になっていたのですから。どうぞご自分の手でお渡しなさると良い。いまは弟がいるはずですから」

「そうですか。ありがとうございます」

 燕青は深々と頭を下げた。蔡福は何ともやりきれない思いだった。

 燕青は、盧俊義の従者である。だが只の従者以上に、盧俊義に対する忠誠心が強いようだ。

 赤子のころに拾われて、育ててくれた恩があるとはいえ、と蔡福などは思う。

 また盧俊義の燕青に対する態度も、主従のそれとは少し異なるようにも見えた。

 盧俊義は、燕青にあらゆることを仕込んできた。歌舞音曲、武術や弩の使い方、地方の方言や所作、風習など、上げると切りがないくらいだ。そして燕青の方も、砂が水を吸うようにそれらを習得していったのだ。

 才能は充分に持ち合わせていたのだろう。それを見抜いた盧俊義の目も確かだが、それに応えた燕青もまた常人ではないのだろう。

 盧俊義は燕青に刺青を彫らせた。北京大名府随一の彫り師が手掛けたという華やかだが精緻な刺青は、燕青の白い肌、引き締った肉体に良く映えているという。

 さすがは浪子と呼ばれる燕青だ、と見た者は溜息まじりにそう言うのだった。

 燕青を見送った後、また男から声をかけられた。蔡福は男に連れられ、州橋を越えたところにある茶店の二階へと上がった。

 そこにはこちらを窺うような眼つきの、李固(りこ)が待っていた。

「お待ちしておりました、蔡福さま」

「何の用だね。わしは忙しいのだよ」

 蔡福が遠慮することなく、卓にどっかと腰を下ろした。続いて手を擦りながら、李固も腰を下ろす。

「ご存じでございましょう。盧俊義の事ですよ」

 む、と蔡福が唸った。すでに盧俊義の事を呼び捨てているとは。燕青と思わず比べてしまう。

「ここに五十両の金がございます」

 卓の上に重そうな音をたて、金の延べ棒が置かれた。

 李固が、どうだという顔をした。

「これで盧俊義を亡き者にしていただきたいのです」

 弟の蔡慶が言っていた事を思い出した。李固が盧俊義の事を密告したのが始まりだという。胸がむかつき、蔡福は顔をしかめた。

「あんたは役所に鎮座している戒石の文句を知らぬと見えるから教えてやろう。下民は虐げ易きも、上天は欺き難しってな。盧俊義どのの店をまんまと乗っ取って上手くやるつもりなのだろうが、関わり合いになるのはごめんだ」

「そうおっしゃらずに。足りないのならば、もう五十両お出しいたましょう」

 李固は臆面もなくそう言ってのけた。

 蔡福は呆れるばかりだったが、ふと思いついたことを言ってみた。

「あんたも大した玉だな。しかし玉麒麟と呼ばれる盧俊義どのの命が、たった金百両だと思うのか。もし願いを叶えたければ金五百は出してもらわないとな」

 李固の顔色があからさまに変わった。さっきまでの作り笑いが消え、こめかみのあたりに脂汗がにじむ。しかし、ぶつぶつと何か言いながらしばらく思案した後、再びその笑みを蔡福に向けた。

「良いでしょう。五百お出しいたします。その代わり」

 蔡福は大きな掌を広げ、李固の言葉を遮った。

 そしてすばやく金を懐にしまいこみ、告げた。

「分かった。明日の朝、亡骸を担ぎに来てもらおう」

 ははあ、と李固が頭を下げた。蔡福はそそくさと店を後にした。

 通りを歩きながら、懐に手を当てる。まさか本当に五百を出してしまうとは。鎌をかけたつもりだったのだが、奴も本気らしい。

 蔡福は金を持ったままでは落ち着かないので、一度家に置きに帰る事にした。

 だが家にもまたもや、客が待っていた。

 身なりの良い、どことなく気品のある男だった。

「はて、どなた様ですかな」

「私は柴進と申します。盧俊義どのの様子を探りに、梁山泊から参りました」

 蔡福は、柴進という名前と、梁山泊という言葉両方にどきりとした。

 柴進と言えば大周皇帝の末裔で、国から不可侵のお墨付きを与えられている。盧俊義もかくやという人物ではないか。

 柴進が高唐州に捕らえられたという事件は知っていた。そして柴進を助け出すために梁山泊軍が、高唐州を攻めたことも。

 その後、助けだされた柴進は梁山泊に入ったということか。

「手下の調べでは、盧俊義どのはあなたが節級を務める牢にいるとか」

「ああ、その通りだ。それが、どうかしたかね。それにわしだけではない。弟も一緒だ」

「それならば、安心しました」

「安心だと。盧俊義どのは牢なのだぞ」

「だからです。あなた方が側にいれば、誰も手だしすることはできません。そこでひとつ相談なのですが」

 蔡福が眉間に皺を刻んだ。よく相談される日だ。

「盧俊義どのを救っていただきたいのです。鉄臂膊の蔡福、一枝花の蔡京兄弟は北京大名府でも名だたる好漢だと、楊雄どのも言っておりました」

 楊雄、だと。あの病関索の楊雄か。柴進はそうだと答えた。

 蔡兄弟も首斬り役人の端くれである。薊州で名を轟かせていた楊雄には敬意を抱いていた。その楊雄が、自分たちの事を知っていてくれたというのか。蔡福は素直に嬉しいと思った。ほんの少し頬が緩んだ。

「もしそうしていただけるのならば、梁山泊はあなた方に厚意を持って応じたいと思います。ですが、万にひとつ、間違いでもあったならば、大名府が火の海になるかもしれませんが」

 そう言って柴進は沈黙した。じっと蔡福を見つめるだけであった。

 北京を火の海にするだと。いや、梁山泊ならば本当にやりかねない。ここはうまく立ち回らねばならない。しかし蔡福は考えあぐねていた。

 その沈黙を、笑顔で自ら破った柴進は外に向かって合図をした。すぐに手下が入ってきて、包みを柴進に手渡した。

「ここに金一千両ございます。これはあなた方兄弟への信頼の贈り物です」

 蔡福の手に一千両の重みが伝わる。李固の出した額の倍を、すんなりと出して見せた。

 盧俊義はどうやら本当に梁山泊とつながっていたようだ。しかし、これは大変なことに巻き込まれてしまった。

 怪訝そうな顔の蔡福に、柴進は両腕を広げてみせた。

「先ほども言ったように、私は梁山泊の者です。もし捕えようとするのならば、どうぞ縄をかけてください。この柴進、逃げも隠れもいたしません」

 蔡福は、微笑む柴進から自負心のようなものを感じた。梁山泊であることを微塵も恥じてなどいないようだった。

「まずは中へいかがですか。話は分かりました」

「ご承諾いただき、ありがとうございます。この大恩は決して忘れません」

 柴進は微笑んで、出て行ってしまった。

 蔡福は強張っていた筋肉を緩めた。どっと汗が噴き出した。

 蔡福の手元に一千五百両もの大金が転がり込んできた。だが決してそれは幸運などではなかった。

 李固と柴進、いや梁山泊から正反対の頼みをされたのだ。

 盧俊義の命を奪うのか、盧俊義の命を救うのか。

 蔡福の胃がきりきりと痛んだ。

 この時、開封府から司法監察官が来ていた。

 梁山泊と共謀したという盧俊義を確認するためである。

 監察官の前には蔡慶が腕を組み、立っていた。

「それでこの者、梁山泊と関わりがあるという事だが」

 と覗きこんだ監察官は、すぐに目を背けてしまった。

「この野郎、なかなか吐きませんで。ですが、もう少し痛めつければ、何か聞き出せるかと」

 監察官はもう一度、ほんの少し盧俊義を見たが、やはり目を逸らした。

「うむ。お主の事は、蔡福と共に良い働きぶりだと聞いている。今後も職務に励むように」

 蔡慶は恭しく頭を下げた。だが、その顔には笑みが張り付いていた。

 監察官や取り巻きたちが去り、牢獄に静寂が訪れた。

 どれ、と蔡慶が盧俊義の牢に入る。

 盧俊義は首枷をつけられたまま、上半身をむきだしにしていた。その至るところから血が筋となって流れており、背からも血が大量に流れ落ちて、床に血溜まりができていた。

 両手は鎖で吊るされており、その指先に何かがあった。見ると、指と爪の間に針が差し込まれている。十本の指すべてにである。

 また顔もあちこちが紫色に腫れており、片眼はつぶれているように見えた。

 監察官さえも目を背ける、拷問を受けた盧俊義の姿がそこにあった。

 だが蔡慶は悪びれもせずに側へ行くと、盧俊義の耳元に顔を寄せた。

「もう行きましたぜ。すみませんね、こんな事させてしまいまして」

「いや、お前の職務なのだから謝ることはない。しかし大した手際だ」

 盧俊義が微笑んだ。まるで拷問など受けていないかのように。

 動かないでください、と蔡慶が言い、指の針に手を添えた。そして慣れた手つきで、針を抜いてゆく。

 次に手拭いを取り出し、盧俊義の体を拭いてゆく。すると拭いたところから血の跡がきれいに消えてゆくではないか。後に残されたのは、目を凝らさねば分からないほどの細い筋だけだった。背中も同じように、ほとんど傷が見えなくなっていた。

 最後に顔に塗った紫の絵の具を落とし、目の辺りをいじると、腫れていた瞼(まぶた)が嘘のように戻っていた。

「蔡慶、お前に拷問される者の事を、本気で不憫に思ったよ」

 蔡慶はそれに笑みで応えるだけだった。

 斬首の腕では蔡福が北京一であると言ってよい。かたや蔡慶が怖れられているのは、実は拷問の腕によるものであった。

 兄に負けんとするためか、日々拷問の研究に精を出していた。ついには蔡慶に口を割れぬ者なし、などと言われるようになった。

 だが決して好きこのんでしている訳ではなかった。いつからか蔡慶は、拷問を受け、あの世に旅立ってしまった者の髪に花を捧げるようになった。口を割る事のなかった強い心に、蔡慶は敬意を払っていたのかもしれない。

 効果的に痛みを与えられるということは、その逆にも精通しているということでもあった。 

 不思議なもので、人間には針を刺しても痛いと感じない箇所があることを、蔡慶は経験で知っていたのだ。

 燕青が面会に来て、飯を差し入れに来た。そして燕青が帰った後、監察官が来ると聞き、急いで盧俊義にそれを施したのだ。

 傷口も薄い刃で切っただけで、すぐに塞がるようなものだった。

「もう少し、頑張ってください。俺たち兄弟が何とかします」

 蔡慶は盧俊義に上着を着せると、灯りを消し、牢を出た。

 家に戻った蔡慶を迎えたのは、苦虫を噛み潰したような顔の兄だった。

「どうしたんだい、兄貴」

「どうしたもこうしたもあるかよ。胃が痛いよ、わしは」

 なるほど、蔡福の胃が痛くなるわけだ。

 話を聞いた蔡慶は腕を組み、椅子に深くもたれるようにした。

 卓に上には輝く黄金が一千両。だが今は疎ましいものにしか見えない。

「どうする、慶。何か良い考えはないか」

「腹をくくろう、兄貴。人を殺さば血を見るまで。人を救わばとことんまで、と言うじゃないか」

「だからどうするんだ」

「おあつらえ向きの物が、ここにあるじゃないか。こいつを好きな連中がごろごろいるじゃないか」

 蔡慶が目でそれを示した。

 あ、という顔を蔡福がした。

 そこには鈍く光る金があった。

 疎ましく見えていたそれが、本来の輝きを放って見えた。

 

 盧俊義は死罪とならず、沙門島への流罪と決まった。

 蔡慶の案で、金を役所内の上から下まで賄賂としてばらまいたことによる結果だった。

 判決は延び延びになり、李固がせっついたものの、当人も関係を否定し続けているし、証拠不十分だという結論だった。

 蔡福と蔡慶はとりあえずは胸をなでおろした。盧俊義を手にかけることなく、かつ牢役人としての責務を果たすことができた。

 あとは梁山泊が救い出してでもくれれば、御(おん)の字である。

 一方の李固はその判決に納得ができなかった。それに約束を果たさなかった蔡福にも怒りを覚えた。

 何が、明日の朝に死体を引き取りに来いだ。蔡福は、上官である梁世傑が許さないとか、言い訳ばかりであったのだ。

 李固は何とか怒りを抑え、護送役人の二人を酒屋へと招いた。

 訝しむ二人に、そっと包みを手渡した。中身はもちろん銭である。

「お役人さま、どうか何も言わずにこれであの盧俊義を亡き者にしていただきたいのです。臆病な役人連中にはもう頼みません。沙門島までは、片道三千里の長旅です。お二人も早く戻って来たいでしょう」

 護送役人は顔を見合せ、黙って包みを懐へとしまった。

「お主の言う通りだな」

「まあ、悪いようにはしないから、安心して待っていなさい」

 二人は思わぬ収入に、口の端を歪めた。

 その護送役人の名は、董超と薛覇といった。

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