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慕情

 李固はその光景を、待ち焦がれていたように見ていた。

 盧俊義が縄をかけられ、取り押さえられている。

 その前には北京大名府の留守司、梁世傑が座していた。

 その手には、詩が書き記された紙が揺れている。

「なるほど、盧俊義よ。梁山泊と通じ、謀反を起こそうという魂胆であったか。ただの商人とは思っていなかったが」

「何をおっしゃいます。それは易者の言葉をそのまま書き記したにすぎません。私が反乱を起こすように読み取れるのは、まったくの偶然にすぎません」

 捕り手の力を押し返すように、盧俊義は上体を起こし、そう告げた。

 梁世傑は難しい顔をする。そこへ李固が追い打ちをかけた。

「梁中書さま、まだ証拠はございます。この者は梁山泊に自ら赴き、そこで頭目たちと歓談していたのです。私はこの目でしかと見ました。もし通じていなければ、あの梁山泊から無事に戻ってくるはずなどございません」

「お前の言うことはもっともだな」

 梁世傑は大きく頷いた。

 かつて信頼していた楊志という男に、まんまと生辰綱を奪われた。籠った二竜山は童貫によって陥とされたが、生き延びて青州に逃げたと聞いた。さらにそこから梁山泊に合流したと報告を受けている。

 梁山泊には、同じく生辰綱を奪った仲間の晁蓋がいた。やはり奴らは気脈を通じていたのだと、臍(ほぞ)を噛んだことを思い出した。

「盧俊義は梁山泊と通じていたと見るほかあるまい。即刻、牢にぶち込んでおけ。追って沙汰があるであろう。李固とやら、謀反を未然に防いだお前の忠義は称賛に値する。そのまま盧俊義の店を、お前のものとするが良い」

「さすがは梁中書さま。ご聡明なご決断でございます」

 李固が恭しくひれ伏した。盧俊義に対する恩も、忠も、微塵も見ることはできなかった。

 燕青の言うとおりだったか。この李固に大それたことができるはずがないと高をくくっていた。だがこの始末だ。人を見る目が衰えてきたのだろうか。

 李固、と盧俊義が呼ばった。怪訝そうな目で、李固が見た。

「お前、いつになくよく吠えるではないか。いつもはわしの陰に隠れて、尻尾を丸めているのにな。飼い犬に手を噛まれるとは、まったくこの事だったのか」

 李固の顔が真っ赤に染まった。

 犬だと。この俺を、犬だとぬかすか。

 盧俊義は、動けぬ姿勢で李固を睨みつける。

「李固よ、最後に聞こう。あの銀はどこへやった」

 李固の顔が赤黒くなった。

 中書さま、と叫ぶと、水火根を持った者たちが部屋へと駆けこんできた。

 盧俊義が強く押さえつけられる。

 水火根が高く上げられた。

 鈍い音が、何度も部屋に響き渡った。

 

 索超は愕然とした。

 盧俊義が牢に入れられたと聞いたのからだ。

 急いで店に来てみると、番頭であった李固が大きな顔をして使用人をどなり散らしていた。盧俊義の姿はもちろん無く、燕青の姿も見えなかった。

「これはこれは、索超さま。いつもご苦労様です」

 こちらに気付いた李固が、手を揉みながら笑顔でやってきた。

「盧俊義どのは、やはり」

 李固はきょろきょろと左右を見渡し、袖で口を隠しながら囁いた。

「残念ながら、そうなのです。私も長年仕えておりながら、まさかという思いと裏切られたという思いで、胸が締め付けられそうなのです」

 そう言って、李固は袖口を目尻に持っていく。

 そうか、とだけ言い索超は店を後にした。

 索超も、まさかという思いだった。

 二竜山が陥ちた時、索超は酒を浴びるように飲んでいた。楊志が心配だったからである。

 そこへ燕青という青年がやって来て、告げた。楊志たちは無事で、青州に逃れたと。

 いちはやくその情報を伝えてくれたのが、その後に紹介された盧俊義だったのだ。

 さすがは北京一の大富豪だ。その情報網も、裏のものであろう事は推測された。だが、まさか梁山泊とつながっていたとは。

 いや、今はまだ疑いにすぎない。違うと信じたい。

「索超どの」

 狭い路地の方から、微(かす)かに声がした。その主を探そうとしていると、また聞こえてきた。

 大きな体を畳むように索超が路地へと入る。

 そこにぼろ布をまとい、変装をした燕青がいた。

 叫びだすすんでのところを、燕青に止められた。危なかった。

「索超どのは、関わらない方が良い。いま河北(かほく)は例の賊の一団が各地を占領してきて、梁世傑もぴりついています。大名府を守るべきあなたが疑われては、とてもまずいことになりましょう」

 索超は無言で頷いた。その通りだ。

 燕青の言う賊の頭領は田虎。河北一帯を手中にしつつあり、索超ら大名府軍とも何度か干戈を交えている。

「私が、旦那さまを助け出します」

 見ようによっては女性にも見えるその美しい顔とは裏腹に、その目には猛々しい炎が宿っていた。

 正牌軍を務める索超が、思わずぞくりとするほどだった。

「ああ、小燕子か。二十年も前の事だったが、覚えているよ。とても面白い旅の一座が鄆城に来ていると聞いてな。仕事の合間を見つけ、見に行ったのだ」

 宋太公が眉尻を下げ、懐かしそうに話してくれた。

 小燕子は、やはり素晴らしい才能を持っていたようだ。宋太公も思い出し、絶賛した。

 だが知りたいのは、その後だった。鄆城を去った一座が、小燕子がどこへ向かったのか、である。

「確か、少し他の土地を回りながら、北京大名府に向かう、と聞いておったが」

 がたり、と曹正と白勝が腰を浮かせた。

 北京大名府だと。東渓村から盧俊義と盧成は大名府へと戻ったと言っていた。しかし盧成は、一座が来ていたとは言っていない。

 宋太公を信じるならば、少なくとも鄆城から北へと向かったはずだ。だが大名府には来ていない。それまでの間に何かがあったのか。

 宋太公に礼を言い、白勝たちは再び梁山泊を出て、北へと向かった。

 二十年も前の事だ。宋太公や盧成のように覚えている者がいる方が珍しい事だった。

 情報を得るのに難渋はしたが、何とか足取りを掴むことができた。

 黄河(こうが)を越え、寿張そして東昌府には来ていたようだ。

 そこからまた足取りが途絶えた。

「どうなっているのだ。行く先を変えたのだろうか」

 曹正が腕で額の汗を拭う。日差しの強い日だった。二人は街道の木陰に隠れるようにして、大きめの石に腰を下ろしていた。

 瓢箪(ひょうたん)の酒を飲んだ白勝がため息をついた。

 どこへ行けばよいのだろうか。だが進むしかないのだ。

 しばらく休んだ二人は、気合とともに腰を上げた。

 しかし次の街までは遠く、日が暮れてしまった。

 野宿ができる季節だとはいえ、なるべくならば避けたかった。

「曹正の旦那、あれを」

 白勝が指さした先に、ほのかに光が見えた。

 そこは名も無いような農村だった。明かりが見える家の戸を叩き、宿を借りた。

 翌日、朝飯の後、ぶらぶらと散歩をしていた白勝が、青白い顔で飛んで帰ってきた。

「どうした。幽霊でも見たような顔をして」

「ゆ、幽霊じゃないんですが。はやく、ちょっとこっちへ」

 手が抜けるほど引っ張られ、その場所に着いた曹正も、青白い顔をした。

「こいつは。まさか」

 村の外れに墓があった。

 墓標がひしめくように建てられており、その中のひとつに目が引かれた。

 雨で滲み、風に朽ちてはいるが、確かにそう読むことができた。

 それは小燕子の墓だった。

 

 体中が痺れていて、宙に浮いて入るようだ。

 盧俊義は黴(かび)の匂いと血の匂いを嗅いだ。その血は自分のものだった。

 体を動かすと、鎖が擦れる音がした。鎖が足首にはめられていた。首にも枷がしっかりかけられており、それ以上動くことは難しかった。

 混濁した意識がはっきりしてくると共に、水火根で受けた痛みもはっきりとしてきた。

 足が爆ぜるのではないかと思うほど、脈打っている。そのたびに激痛が走った。

 盧俊義は歯を食いしばり、それに耐えながら晁蓋を思った。

「お前の元へ、行くのかな」

 そう呟くと、頭の中の晁蓋が笑って言った。

「まだこっちへ来るのは早いぞ。来るならわしとの約束を果たしてから来い。わしの仇の首を土産(みやげ)に持ってな」

「相変わらず厳しいな、お前は」

 盧俊義は、ふふふと微笑んだ。

 その姿を見た牢番は、ついに気が触れたのだと思った。

 眠ったのか、痛みで気を失ったのか分からなかった。

 光も射さぬ牢の中、昼なのか夜なのかも分からない。

 朦朧とした中で、盧俊義は夢を見た。

 東渓村から戻ってから、二年近く経った頃である。

 新しい商いも軌道に乗り始め、店構えも大きくしなければと考えていた。また、数年後には東京開封府に支店も出そうか、などと夢のような事を盧成と語っていた。

 そんなある日、嬉しい訪問者があった。晁蓋である。

 晁蓋は、盧俊義の店ではなく、別な場所を指定してきた。

 確かに他の者がいてはできない話もあるだろう。だが晁蓋が言う場所とは、旧友が再会を喜び合うには、およそ似つかわしくないところだった。

 法華寺である。

 それでも盧俊義は、晁蓋と会える喜びで、場所などどこでも良かった。

「久しぶりだな。調子はどうだ。東渓村は相変わらずかな」

「ああ、変わらんよ。お前の方は、ずいぶん出世したみたいじゃないか」

 笑顔の晁蓋だったが、いつもとは違っていた。笑顔を作っているように見えた。

 ちょっと待っててくれ、と言い、晁蓋が寺の奥へ消えた。

 戻ってきた晁蓋は、胸のあたりに小さな包みを抱えていた。

「なんだ、それは」

 晁蓋はじっと盧俊義を見つめていた。

 しばらく無言だった。

 包みがふいに動いた。包みの中から、何か聞こえた。

 晁蓋が包みを、盧俊義に差しだした。

「この子は、小燕子の子だ」

 盧俊義は石になったように、動けなかった。

 目だけは、その赤ん坊を凝視していた。

 赤ん坊は、屈託のない笑顔で、盧俊義を見つめ返していた。

 くるくるとよく動く瞳が、小燕子とそっくりだった。

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