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慕情

 北京大名府から盧成がやってきた。

「帰りが遅いので、大旦那さまが探しておられたんです。やっと見つけましたよ」 

「すまなかったな。しかし、もう少し待ってくれないか」

「少しって、どのくらいですか。大旦那さまも我慢の限界ですよ」

「少しだ。少ししたら必ず戻るから」

 ふう、とため息をつき、盧成が晁蓋に向きなおった。

「申し訳ありません。という事で、私も東渓村にしばらくご厄介になります」

「ははは、わかりました、盧成どの。お好きなだけおられると良い」

 晁蓋がそう笑い、盧俊義は少し気まずそうな顔をした。

 思い出した。盧成はああ見えて、けっこう頑固で肝が据わっているのだ。盧俊義はそうひとりごちた。

 一座が鄆城県(うんじょうけん)にいる間、盧俊義と小燕子は時間を見つけては会うようになっていた。

 小燕子は盧俊義よりもふたつ下だった。名前は聞いてはいない。彼女も小燕子と呼ばれることの方が慣れていたし、盧俊義も同じだった。

 国のあちこちを回っているためか、小燕子は各地の言葉に精通していた。

 江南の方言がこうで、関西の方言はこうで、などと面白おかしく教えてくれた。話をしているうちに、小燕子がとても聡明であることが分かった。

 さらにその武芸の腕前である。

 盧俊義と戯れに立ち会ってみた。盧俊義は徒手では勝てなかった。だが棒を持とうとはしなかった。下手に怪我をさせると悪いと盧俊義は言ったが、実は棒を持ってさえ負けるのが怖かったからだ。小燕子はそれに軽く微笑んだだけだった。

 あの大哥という男が、小燕子の武芸の師であるという。

 まだ十になる前に一座に入った小燕子に、武芸を教え込んでくれた。小燕子は本当の兄のように慕っているのだという。

 大哥は舞台には上がらない。大小の道具やその修繕、演武の指導など裏方に徹しているのだという。

 なるほどあの時、大哥から感じた気は紛れもない本物だったという訳だ。

「どうだ、もう大名府へ帰りたくないだろう」

 晁蓋に冗談ぽく言われても、盧俊義は素直にそうだなと答えるまでになっていた。

 弾けるような笑顔に、くるくるとよく動く大きな瞳。

 男装なのだが、時おり見せる少女の表情に、盧俊義はどきりとさせられた。

 その日、興行は休みだった。

「大哥に止められなかったのか」

「うん。でも、平気だよ。心配性なんだ、大哥は」

 馬に乗り、二人は狩りに出かけた。

 そこで盧俊義はまた驚き、新たな発見をすることになる。 

 小燕子は、弩の腕前にも長けていたのだ。

 雁(かり)を、盧俊義は五羽、小燕子は三羽仕留めた。

「ちぇ、負けちゃったなあ」

「弩でそれだけ獲れれば、大したものではないか」

 盧俊義は普通の弓だったのだ。その言葉に小燕子は明るく微笑み、ありがとうと言った。

 帰る段になり、突如空が暗くなった。雷が鳴り、痛いほどの大雨が降ってきた。

 二人は馬を飛ばし、鄆城へと急いだ。

 馬をつなぎ、ずぶ濡れの姿を笑いあいながら、一座へと戻る。

 そこに大哥が待っていた。大哥もずぶ濡れで、二人を睨みつけていた。

 いや、睨んでいたのは盧俊義の方だけか。

「どこまで小燕子を連れ回していたんだ。可哀相に、そんなにずぶ濡れで」

「大丈夫だよ、大哥。盧俊義は良かれと思って、連れて行ってくれたんだ」

「小燕子は悪くないんだ。おい、お前」

「すまない。遠くまで連れ出し、雨に濡らしてしまったのは、悪いと思っている」

 大哥が盧俊義の側へと歩いてくる。大哥の怒りの気が、盧俊義を後ずさりさせた。

「風邪でも引いたらどうするんだ。大切な体に何かあったら、どう責任を取るのだ」

 すまない、と盧俊義は頭を下げるしかなかった。

「さあ、もう行くぞ。服を着替えて、暖かくするんだ」

 小燕子が連れられてゆく。小燕子は少しためらうが、大哥には逆らえなかった。

 幕屋に消える一瞬だけ、小燕子が振り向いた。目と目が合った。

 その小さな口が何か言いかけたようだったが、聞こえなかった。

 雨はまだ降り続いていた。

 翌日、予定通りに興行は行われた。

「行かないのか」

 晁蓋の誘いも、盧俊義は断った。会いたい気持ちはある。だが大哥がいる。何となく会ってはいけないと思った。

 風邪は引かなかったようだが、もし病気にでもなっていたら。大哥の言う通り、どう責任を取るつもりだったのだろうか。盧俊義は自分の軽率さに反省をしていた。

 盧成の催促もあるし、そろそろ北京大名府へと戻ろうか。

 だが、

「馬鹿だな。小燕子もお前に誘われて嬉しいから来たんだろう。うじうじ悩むなよ。それで将来、俺の補佐をするというのか。もっと自信を持て」

 と思い切り背中を張られた。

 晁蓋の言葉と背中の痛みで、悩みは飛んで行った気がした。

 いつまでも小燕子が鄆城にいる訳ではないのだ。ぼんやりしている時間はない。

 すぐに盧俊義は馬に乗り、鄆城へと駆けた。

 しかしやはりというか、そこに大哥が待ち構えていた。

「来ると思っていたぞ」

 盧俊義は馬から降り、無言で正面に立った。

「今日は芝居を観に来たのだ。頼む。入れてくれ」

「駄目だ。お前のせいで小燕子がこのところおかしくなっている。稽古に身が入らなくなっているのだ。お前は、小燕子を駄目にする。もう会わせる訳にはいかん」

 大哥の目が光った。

 盧俊義の足が竦んだ。

 だが、気を振り絞り、懸命に足を持ち上げ、一歩前に出た。

「会うか会わないのか。それを決めるのは、小燕子だ」

 大哥が目の前に、いつの間にか来ていた。

 大哥の拳が、盧俊義の鳩尾を貫いていた。

 臓腑が抉られる感触がした。

 胃の中のものが溢れだした。

 地面が見えた。

 覚えているのは、そこまでだった。

 

 心配そうな盧成の顔が、目に飛び込んできた。

 その後ろには晁蓋もいた。

 もう目を覚まさないかと思いました、と涙声で盧成が言った。

 晁蓋の表情からそれが冗談などではない事が知れた。

 三日、経っていた。

 起き上がろうとすると、腹に痛みが走った。

 冷たい大哥の瞳を思い出し、寒気を感じた。

「そうだ、小燕子は」

「一座は、鄆城を出たよ」

 晁蓋が残念そうに言った。そうか、とだけ盧俊義は呟いた。

 何があったのか聞かれると思っていたが、晁蓋は何も聞かなかった。

 良い友を持った。盧俊義は晁蓋に感謝した。

 数日で回復した盧俊義は、盧成と共に北京大名府へと戻った。

 それから盧俊義は商いに没頭した。これまで以上に、商いに対する姿勢が鬼気迫るものになったと盧成は感じた。

 まるで何かを忘れようとしていたのかもしれない。盧俊義は、自分でそう思った。

 そして半年足らずで儲けを倍以上に増やすことができた。その頃には盧俊義は純粋に商いの面白さを実感していた。

 大名府に戻った当初は下男たちに、小燕子の一座がどこにいるのか密かに探らせようともした。だが、思い直した。

 もし縁があるならば大名府か、近くの街へとやってくるだろう。もしそれが無いのならば、そこまでの縁だったのだ。そう思い定めた。

 そしていつしか小燕子の事も、あまり思い出さなくなっていった。

 かくして、東渓村から戻り、一年かからずして盧俊義は北京の店を譲られるに至った。

 

 曹正が腕を組み、渋い顔をしていた。白勝は口を開けて、聞いていた。

「私が知る話は、ここまでです」

 盧成は小燕子にも会っておらず、どういう人物なのかは知らないという。晁蓋に、その話を少し聞いただけだというのだ。

 曹正は唸る。たしかに晁蓋と盧俊義がつながっていることは分かった。だが盧成の話だけでは、何かが足りない。肝心の史文恭の姿が浮かび上がって来ないのだ。

「小燕子か」

 手掛かりはどうもその少女にあるようだ。

 曹正と白勝は礼を言い、盧成の店を出た。

「どうしますかい、旦那。せっかく何かつかめると思ったんですが」

「小燕子が鍵だと思うのだ。それに、時は経ってしまったが、それほど人気のあった一座なら、誰かの記憶にはあるはず。盧俊義どのは二十年前、鄆城で会っていた。ということは」

「宋太公ですかい」

「それだ。もしかしたら宋太公も覚えておられるかもしれない」

 二人は急ぎ、梁山泊へと取って返した。

「あなた」

 盧成の妻が悲痛な面持ちで、部屋に入ってきた。ただならぬ様子に、盧成は腰を上げた。

「どうした」

 妻がゆっくりと静かに言った。

 盧俊義が謀反の罪で、捕らえられた。

 梁山泊の二人が来た事で、ある程度の覚悟はしていた。

 盧俊義に何かあったのだと。

 だが実際にそれを聞き、盧成は拳を戦慄かせた。

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