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慕情

 二騎が並んで駆けていた。馬を駆るのは共に、精悍な若者だった。

 二十年ほど前の、晁蓋と盧俊義であった。

 呉用もまだ東渓村におらず、宋江は青州にいた頃の事である。

 晁蓋が笑顔で問いかける。

「なあ、あとどれくらい、ここにいるんだ」

「さあな、分からん。飽きるまでいるかもな」

「そうか、飽きるまでか」

 この土地にか、それとも晁蓋という人間にか、それは聞かずにおくことにした。

 はっ、と馬に鞭をくれ、盧俊義が速度を上げた。晁蓋はその背中を眩しそうに見つめていた。

 盧俊義が東渓村へ来て、何日経っただろう。

 北京大名府の商家の息子で、商売を勉強するため東京開封府にしばらく滞在していた。

 その帰りの事である。

 北から賊が東渓村へやってきた。騎馬と歩兵あわせて二十ほどだろうか。

 だが村の入り口に一人の男が立ちはだかっていた。

 それが晁蓋であった。晁蓋は朴刀を手に、笑みさえ浮かべていた。

「来たか、賊ども。村に入りたくば、この俺を倒してゆけ」

 はじめはへらへら笑っていた山賊も、五人ほどが倒され、やっと尋常ではない事態に気付いた。

 そこに行き会った盧俊義が加勢に入った。手には鉄の棒。

 商人の家だったが盧俊義は武芸にも興味があり、しかも才能があった。

「余計なお世話だったかな」

「いいや。旅の人、感謝する。もし無事で済んだなら、酒でも奢(おご)らせてくれ」

「それでは、首を落されんようにしなければならんな」

 ははは、面白い男だ、と晁蓋が飛び込んだ。盧俊義も続いて棒を回転させた。

 やがて剣戟の音が止み、賊の骸が道に転がった。

 晁蓋と盧俊義は背中合わせに、地面に腰を下ろしていた。ふたりとも息が荒かった。

 盧俊義が喘ぎつつも言った。

「喉が、乾いたな」

「約束通り奢るさ。あいにく肴がないのが残念だ」

「肴なら、ちょうど俺が持っている。商売用だがな」

 二人は笑い合った。

 うららかな陽射しが心地よい午後だった。

 

「役人どもは民を、俺たちを守ってはくれん。だから自分たちの手でやるしかないのだ」

 ぐいっと杯を空け、晁蓋が胸を叩いた。

 盧俊義も杯を空けた。確かに晁蓋の言う通りだと思った。

 晁蓋は東渓村の保正の家に生まれた。父を尊敬はしているが、役人たちの態度には思うところがあるようだ。

 ひとりで賊を迎え討とうとしたのもその表れだった。盧俊義も父の跡を継ぐ身であり、役人に対しては同じ考えを持っていた。

 盧俊義は晁蓋という男が気に入った。帰りの日を伸ばし、東渓村にしばらくいることを決めた。

 二人が親しくなるのに時間はかからなかった。

「何か大きな事をしでかしたいものだな。役人たちにひと泡吹かせるような、でかい事だ」

「あまり声高に言うものではないぞ。壁に耳ありだ」

「お前はそう思わんのか」

「思うさ。役人どもは好きなだけ税を絞りとりやがる。父がどれだけ苦労しているか、目の前で見てきたのだ。だから俺は役人どもにおもねる事のない、大商人になってみせる」

「なるほど。成った暁には、美味い酒でも馳走してもらうとしよう」

「酒だけで良いのか。お前が成った暁には、この俺が支援をしてやるよ。ただし俺がすごいと認めた時だ」

「何をすれば、認めてくれるのだ。たとえば」

「たとえば」

 二人はそれ以上言わず顔を見合せ、にたりと笑うだけだった。

 ある日、盧俊義が遠乗りから戻った時である。

 東渓村へ向かう道で賊を目撃した。その賊たちは旅芸人の一団に目をつけたらしい。見るとあの時の賊のようだった。

「懲りない連中め」

 あいにく晁蓋は留守だった。盧俊義は棒を構え、馬を駆けさせた。

 賊の怒号が聞こえる。旅芸人たちに車から降りろと命じているようだ。

 一人の青年が降り立った。華奢で端正な顔立ちだった。

 賊のひとりが青年の腕を掴んだ。次の瞬間、その賊が地面に叩きつけられていた。青年は何事もなかったような、涼しい顔をしていた。

 賊たちも、盧俊義も何が起きたか分からなかった。

 正気に戻った賊たちが一斉に斬りかかった。青年は、徒手にもかかわらず、焦ることなく軽やかに動いた。

 ほんの少し、腕を振る。ほんの少し、体を捻る。それだけの動きで、次々に賊たちが転がった。

 盧俊義は目を見張った。もはや加勢は邪魔なだけだと思った。

 まるで演武のようになめらかで美しい動きだった。盧俊義はその動きに見蕩れてしまっていた事に気付いた。

 賊たちがほうほうの体で逃げだした頃、旅芸人の後続の車が追いついてきた。後ろの車から男が飛びおり、駆け寄ってくる。

「大丈夫か、小燕子(しょうえんし)。怪我はないか」

 小燕子と呼ばれた青年は、たおやかに男に頷いた。

「はい、大丈夫です。賊たちはもう逃げてゆきました、大哥(たいか)」

 大哥(にいさん)と呼ばれた男は、それでも心配そうな顔だった。

 ふと小燕子がこちらを向き、頭を下げた。

 盧俊義は、馬から降りることも忘れ、小燕子に魅入っていた。

 その旅芸人の一座は、ほど近い鄆城県に逗留することになった。

 晁蓋と盧俊義は早速見に行くことにした。

「楽しみだな。その小燕子とやらが」

 晁蓋は満面の笑みだったが、盧俊義は、うむと仏頂面で言うのみだった。

「なんだ、そんな顔をして」

「いや、そう言う訳ではない。俺も楽しみさ」

 ははは、さあ行こう。と晁蓋が盧俊義の背中を叩いた。

 はじめに小唄などが披露された。その後、器楽が鳴らされ劇の幕が上がった。

 内容は、謎の人物に親を殺された小燕子が、ひょんな事から出会った武芸の達人に弟子入りし、仇を求めて旅をするというものである。

 小燕子とは役の名だったのだ。

 盧俊義は、先日と同じようにやはり見蕩れた。

 武芸の技はもちろんだが、その演技に見蕩れてしまった。迫真の演技に観客も、自分の事のように感情移入してしまっていた。

 親のために小燕子が泣くと観客も涙し、仇を憎めば観客も拳を上げて声を張った。

 修行が厳しく諦めかける小燕子に、観客は声援を送り、ついに仇を倒した時には、会場が一体となって歓喜の声を上げた。抱き合って泣いている者たちまでいた。

「おいおい。こいつは大したものだな」

 晁蓋さえも食い入るように熱中している。

 最後の場面である。小燕子が親の墓を訪れ、復讐の報告をする。そして小燕子がくるりと回り、衣装が一瞬にして変化した。

 そこに現れたのは美しい少女だった。

 盧俊義が目を見開き、思わず立ち上がった。

 晁蓋は腕を組み、なるほどとうなずいていた。

 なんと小燕子は男装をした少女だったのだ。

 その日の興行が終わり、晁蓋と盧俊義は幕屋の外にいた。

「いやあ、観(み)に来てくれてたんですね。ありがとうございます」

 挨拶に出てきた小燕子は姿も、喋り方も青年のものに戻っていた。

 盧俊義が晁蓋を紹介する。小燕子は屈託のない笑顔で、挨拶をした。

「おい小燕子、ここにいたのか」

 幕屋から出てきたのは、大哥と呼ばれていた男だ。大哥は二人を見るとあからさまに怪訝(けげん)そうな表情になった。

 小燕子は盧俊義を示した。

「大哥。あの時、助けてくれた人です。覚えておりますか」

「あの時は、お前ひとりで追い払ったんだろ。この人はなにもしていない」

「いいえ。いつでも加勢に入れるようにしてくれていたんです。だから私も力が発揮できました」

 大哥の言うとおりだった。盧俊義は何もしていない。助太刀どころか、小燕子に見蕩れ、それを忘れるところだったのだ。

「まあ、それでもいいさ。とにかく、明日もあるのだ。今日のところは早く休んでくれ」

 大哥が急かすように言う。

 分かりました。そう言って小燕子が盧俊義と晁蓋に拱手をした。

「お二人にお会いできて本当に良かった。しばらくこの街におりますので、いつでも遊びに来てくださいね」

 そしてにこりと微笑むと、幕屋へと消えた。

 その笑顔は、あの美しい少女のものでった。

 盧俊義はその笑顔に、胸がむず痒くなるのを感じた。

「おい、お前たち」

 大哥が睨むようにしている。

「小燕子はああ言ったが、もう来ないでくれ。彼女は誰にでも優しすぎてね。勘違いする輩が多いのさ。お前らも、一緒さ」

 小燕子の前とはがらりと態度を変えた大哥だった。あまりの物言いに、むっとした盧俊義だったが、その袖を晁蓋が引いていた。

 晁蓋が、やめろという顔をしている。

 冷静になって大哥を見た。

 大哥は無造作に立っているだけに見えた。だが盧俊義の足が、前に出ることを拒否していた。とてつもなく、強い。

 盧俊義は大哥を睨み返すだけで精一杯だった。

「分かったな。もう来るなよ」

 ふいに感じていた気配が消え、大哥も去った。

 ふたりは東渓村に戻り、酒を飲んだ。

 盧俊義が嬉しくなるほど、晁蓋が小燕子の芝居を手放しで褒めていた。

 もう来るな、という大哥の言葉がふいに浮かんだ。

 だがすぐにその言葉をかき消すように、小燕子の顔が浮かんできた。

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