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試練

 初日は誰も通らなかった。

 二日目は旅人達が、なんと三百人もの隊を組んで通って行った。

 こんな事があるのか。林冲もこれには手を出す事ができなかった。

 そして三日目。

 林冲は朱貴の店にいた。朱貴が言うには、何故かこのところ旅人も見かけないのだという。

 運がない。高俅に陥れられ、友人に裏切られ、妻とは離縁までした。大罪を犯し、ここまで来たが、こんな所で果てるのか。

「今日で三日ですな。投名状を用意できなくば、そのまま戻って来なくて結構。楽しみにしておりますよ」

 脳裏に王倫の言葉がよみがえる。悶々とした思いを振り切ると、店を出て待ち伏せを始めた。

 朝から雪が降っており、そのまま昼近くになった。いまだ人の気配すら感じない。どうしたものか、本当にこのまま終わってしまうのか。朱貴からもらった饅頭をかじりながら嘆息する。

 それでも待ち続けると、ようやく雪が止(や)み、うららかな日が射してきた。

 日が暮れる前に、荷物をまとめようか。そう考えた時である。一緒にいた朱貴の部下が、見てください、と指をさした。向こうの坂の下を旅人が歩いている。

 林冲は思わず天に感謝すると、朴刀を手に駆けてゆく。男との距離が縮まる。申し訳ないが、苦しませはしない。一撃で決める。

 だが、旅人は林冲の姿を見るなり悲鳴を上げ、もと来た道を飛ぶように去って行ってしまった。林冲は茫然と立ち尽くす。

 ついに運に見放されたか。

 うなだれた林冲の足元には旅人が落とした荷物があった。

 手下が追いつき、それを拾う。

「林冲どの、大丈夫です。これで投名状の代わりになります。王倫さまには、あっしが説明しますんで」

 林冲は顔を輝かせた。

「そうなのか、よかった。ではお前は先に戻っていてくれ」

 へい、と手下が走り去る。

 直後、林冲は聞いた。旅人が去った方から、雪を踏みしめる音がする。

 目を閉じ、耳を澄ます。一定の間隔で踏み込むその音は、聴きなれていたものだった。堅気の人間ではない、訓練された者のそれだ。

 林冲は視界に一人の男をとらえた。笠を深くかぶっており表情は良く見えない。

 向こうもこちらを見つけ、歩く速度を速めた。

「山賊め、そこにいたか」

 男は走りながら雄叫びを上げた。

 殺気が林冲を襲う。この男、只者ではない。

 林冲が朴刀を上段から振り下ろす。

 いつの間にか男が刀を抜いていた。男は林冲の攻撃を受け止めると、笠の下でにやりと笑った。

「この俺に挑むとは良い度胸だ。返り討ちにしてくれるわ」

 目と目が合った。笠の下から見えたその目は獣のようだった。

 

 思わず息をのんだ。

 手下の連絡を受けた朱貴が木陰からその戦いを見ていた。

 刀と刀が流星のように乱れ飛ぶ。互いにどれも必殺の手だ。雪上だというのに、まったくそれを感じさせない足さばき。朱貴は拳を握りしめていた。

 林冲は誘いの手を放ち、男がそれに乗った。林冲の返す刀が男の笠を切り裂いた。だが男の刀も鼻の先すれすれを通る。男は誘いに乗ると見せかけ、逆に林冲を誘ったのだ。

 何者だ、この手練(てだれ)。相当の実戦を経ている。

 林冲は一歩下がると、朴刀を構え直す。

「ちっ、半歩足りぬか。ええい邪魔だ」

 と、笠を大きく放り投げ、その顔を陽光の下(もと)にさらした。

 蓬髪を後ろで束ね、笑みを浮かべている。林冲は感じる。純粋に戦いを楽しんでいる顔だ。

 その顔の右半分ほどは大きな青痣に覆われており、獣のような目がこちらを見据えている。

 男も刀を構え直し、笑う。

「あんた強いな。山賊にもこんな男がいたんだな。だが俺の方が上だ」

 私は山賊ではない、言いかけた言葉も刀に遮られる。再び戦いが始まった。

 林冲は思う。いや、もう山賊なのだ。この男の言う通りだ。こいつは強い、一瞬でも気が抜けない。投名状云々の件は一旦忘れよう。

 覚悟は決まった。

 林冲の目が獣のように鋭い光を放ち始めた。

 あれが、豹子頭。朱貴が拳を震わせる。

 男の笑みが一瞬だけ消えた。だがすぐに笑う。

「いいぞ、そうこなくては。殺すには惜しい男だが、行くぞ」

 男の刀が林冲を襲う。疾風の如き速さだ。

 林冲は紙一重でそれをかわす。頼りなげに見えて、その実しっかりと地に根を張った動きはまるで柳のようだ。

 風は速度を増し、ついには嵐となった。だが柳は逆らうことなくそれをいなし、反撃の隙を待つ。

 静と動。雄叫びや気合を常に発し続ける男と、呼吸さえしていないのではないかと思わせる林冲。

 二匹の獣は山道から、谷川へと場を移し死闘を演じている。

 すでに百度近く斬り結んだだろうか。互いに傷一つつけることもできない。あまりに実力が拮抗しているのだ。

 勝負は一撃で決まる。

 両者が、ふっと息を吐き、刀を構えた。これで決まる。朱貴が身を乗り出した。

 その刹那。

「待たれよ、ご両人」

 林冲と男が声の方を同時に睨む。

 崖の上に大きく手を広げた王倫が立っていた。

 林冲は飛びすさり、刀を収める。張りつめていた殺気が霧消してゆく。

「何だ貴様は。邪魔をするな」

 怒りの矛先が王倫へと向いた。この男、本当に戦いを楽しんでいたのかもしれない。

「私の名は王倫。この梁山泊を治める者だ」

 王倫の左右には杜遷と宋万が控えていた。聚義庁で見た立ち位置である。

 林冲はつくづく思う。この王倫、己を大きく見せる演出に関しては一流だ、と。

 そして、あの笑みを浮かべ王倫が言った。

「ようこそ、梁山泊へ」

 

 聚義庁で一同が向かい合っていた。

 王倫が大仰な仕種で拱手する。

「旅の御仁には大変失礼をいたしました。しかしまったく大した腕前。ぜひともお名前をお聞かせ下さい」

 青痣の男は無造作に酒を飲むと、にやりと笑って言う。

「俺の名は楊志(ようし)。令公楊業(ようぎょう)からの三代にわたる武門の家柄だ」

「なんと青面獣(せいめんじゅう)どのか」

 王倫が驚くが、楊志は素っ気なく返事をしただけで続けた。

「ところであんた、何者だ。あんたも武人か何かだろう。どうしてこんな所で山賊など」

 楊志は林冲に興味があるようだった。

「私は林冲。もとは東京(とうけい)開封府で禁軍の教頭をしておりましたが、やんごとなき事情でここまでたどり着いた次第」

「あんたが豹子頭の林冲どのか、強いはずだ。東京で武官をしていた頃、何度も噂を耳にしていたよ。一度、勝負してみたいと思っていたが、こんな形で叶うとは」

 乾杯しよう、と楊志が杯を上げる。

 楊志と林冲は先ほどの死闘の話に花を咲かせ、宋万がそれに合いの手を入れる。朱貴も二人の対決の一部始終を皆に聞かせ、杜遷も二人を褒めたたえる。

 王倫が楊志の行くあてを訪ねると、東京へ戻るのだと言った。

 少し前、大事な職務で失敗し、身を隠していたのだという。この度、恩赦が出たことでそれも許されただろうから、復職するために戻るのだという。その途中でここを通りかかり、運ばせていた荷物を林冲に奪われたというのだ。

 それを聞き、王倫が思案する。

 楊志の名は、自分が科挙を受けに東京を訪れた際に聞いた事があった。林冲に勝るとも劣らぬ腕前と聞いていたが、これほどまでとは。投名状の件はうやむやになってしまったが、これで林冲を追い出す事はできなくなってしまった。ならばこの楊志も引き入れ、林冲を牽制するのが得策だ。いかにも武芸に自信を持つ、粗野な奴だがしかたあるまいて。しかし二人の名だたる豪傑を配下にした、この俺の名声も高まろうというものだ。よし。

 そう決めると、王倫がゆっくりと立ち上がる。

「楊志どの。今の東京は高俅のものと聞きます。実際この林冲も奴にはめられ、流浪の憂き目にあった事は衆目の知る所です。復職を希望しているというが、おそらく高俅はそれを赦してはくれないでしょう。それならばいっそこの梁山泊に残り、楽しくやろうではありませんか。皆、喜んで歓迎いたしますよ」

 林冲の眉がぴくりと動いた。

 なんと自分が入山を希望した際はにべもなく断ったというのに、楊志に対しては喜んで迎え入れようとするとは。だが息を深く吸い込み、怒りを抑える。

 大方、自分と争わせようという魂胆なのだろうが、高俅に関する意見だけは林冲も同意できるものだった。

「その申し出、ありがたく受けたいところなのだが、俺も由緒ある家系だ。このまま死んではご先祖に申し訳が立たんのでな」

 王倫の幾度の説得にも、楊志の決意は固いようだった。

 翌日、楊志は朱貴と共に湖を渡って行った。林冲は去り際に、高俅には充分注意しろと警告したが、楊志は大丈夫だと笑うばかりだった。

 遠のく船を見送り、林冲は思う。紆余曲折あってこの梁山泊に落ち着いた。ついに山賊となってしまったが、もう受け入れるしかあるまい。

 だが王倫を見ていると、高俅を思い浮かべてしまう。官僚と山賊の違いはあれど、権力にしがみつき、それを思うまま振るう様は、同じ穴の貉(むじな)だ。

 達者だろうか、ふと妻を想った。

 冷たい風が湖面を波立たせていた。

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