108 outlaws
追跡
三
晁蓋一味、逃亡。
期限まであと五日の朝、報告を受けた何濤は愕然とした。
白勝の供述を得ると鄆城県へと向かった。知県の時文彬に命令書を提出し、あとは万事うまくゆくものと思っていた。
どうして失敗したのだ。しかし、考えている時間も惜しい。
次に何濤は、石碣村へ向かう準備を始めた。
白勝の話によると、共犯者のうちの阮という三兄弟がこの村にいるという。
石碣村の湖は深い入り江と入り組んだ水路が多く、葦の生い茂る広い湖。さらに梁山泊とも接しており、普段から強盗の出る物騒な地域だ。
何濤は充分な装備を整え、五百の官兵と共に村へ乗り込んだ。
「だめです。いません」
阮小二という男の家はもぬけの殻だった。妻子がいたはずだが、それらも消えている。
東渓村の時もそうだったが、こちらの行動が読まれているようだ。まさかとは思うが、情報が漏れているのか。
何濤は家の中をつぶさに調べた。つい先刻まで生活していた跡が残っている。遠くへは行っていない。まだこの近くにいるはずだ。
次に捕り手たちは阮小五と小七の家へと向かう。二人がいなくとも、彼らの母親を捕える事ができれば。
二人の家へは舟でなければ行けない。何濤は村の舟をかき集め、見張りを数名残して舟に乗り込んだ。
何十もの舟が湖上を進む。入り組んだ水路の両脇は、丈の高い葦に覆われ見通しが悪い。慎重に舟を進め、五里ほど行った時だった。
葦の茂みから歌が聞こえて来た。
「俺は漁師さ、この蓼児洼で。稲も植えなきゃ、麻も植えぬ。悪い役人みな殺す。それが俺の奉公さ」
官兵たちが、ぞっとしながら見ると、男が舟を操っている。
「あいつは阮小五だ」
顔を知っている官兵が叫び、一斉に小五の方へ漕ぎだした。阮小五は櫂を操りながら吼えたけた。
「この泥棒役人め、のこのこ来やがって。まだ俺たち百姓を苛め足りねぇのか。後で吠え面かくんじゃねぇぞ」
弓部隊が小五に狙いを定める。それを見て、おっと、と小五は水の中へと飛び込んでしまった。矢は無人の舟に突き刺さるばかりだ。
「先へ向かうぞ」
何濤の号令でさらに入り江を進む。
官兵たちは、葦の茂みを注意深く観察する。その入り江の奥へ入ると、今度は茂みから口笛が聞こえて来た。
葦の向こうで、二人組が舟を漕いでいる。また歌が聞こえて来た。
「石碣村で生を受け。人を殺すが、おいらの定め。まずは何濤の首を斬り。そいつを天子の土産にしよう」
何濤は背筋が寒くなるのを感じた。確かに自分の名を言っていた。首を斬る、だと。寒村の漁師風情がつけあがるな。
阮小七が歌をうたい、阮小二が船を操っていた。
捕えろ、と何濤が叫んだ。
それを合図に、官兵たちの舟が押し寄せる。
「へへっ、捕まるもんかよ」
阮小七は笑うと船は舳先の向きを変え、水路の奥へと逃げてゆく。櫂を操る阮小二の膂力は尋常ではないようだ。
何濤たちは懸命に追ったが、すぐに距離を離されてゆく。
入江はさらに狭くなり、舟一艘がやっとという幅になる。阮小七と漕ぎ手を乗せた舟は、すでにその奥へと姿を消していた。
「待て、岸へ寄せるのだ」
深追いは危険だと判断した何濤は岸に上がり辺りを見渡した。そこは一面の葦の原で、道一つ見当たらない。どうするか。
何濤は舟を二艘出し、偵察に行かせた。
しばらく待つが一向に戻ってくる気配が無い。仕方なく、もう一度送りだすが、それも戻ってはこない。
日は既に暮れ始めている。
日が落ちては、ますます危険だ。何濤は自ら舟に乗り込み、入江の奥へ行くことにした。同行した捕盗巡検を残し、舟には手練を選んで乗せた。
進むこと五、六里。西の空が赤くなってきた。
ふと見ると岸にひとりの百姓が歩いていた。
「おい、お前は何者だ。ここは何という所なのだ」
「おいらは村の百姓だ。ここらは断頭溝(だんとうこう)といって、先は行き止まりだ」
百姓は肩に担いだ鋤(すき)を揺らしながら答えた。
「先に来た舟を見なかったかね」
「それならこの先の森に行ったよ。誰かを追っかけて行って斬り合いをしてるみてぇだが」
偵察隊が、阮兄弟の誰かを見つけたのだろう。何濤は加勢に行こうと舟を岸に寄せさせた。二人の官兵が先に岸へと上がった時、百姓が鋤を振り上げた。二人の官兵がもんどりうって水の中へ落ちる。
「貴様」
立ちあがった何濤だったが、そこから動けなかった。誰かが足首を掴んでいたのだ。手の主がゆっくりと水から顔を出した。
「へへっ、捕まえたぜ」
阮小七か。何濤は叫ぶ間もなく、そのまま湖の中へ引きずり込まれた。
罠か、罠だったのだ。何濤は必死に抵抗したが、水の中では阮小七に分があった。
のこりの官兵は、百姓の姿をした阮小二に叩き殺されていた。
湖面が西日と血とで赤く染まっていた。
遅い。
日はとうに暮れ、空には星が輝いていた。
偵察隊と同じように、何濤も戻って来ない。賊を見つけたのなら良いが、もしや。
捕盗巡検は首を振ると、湖を見た。
葦がゆらりと揺れたと見るや、背後から突如強風が吹いてきた。
「何事だ」
満天の星空は消え、いつしか黒雲が空を覆っていた。
巡検が風の吹く方に目を凝らすと、ぼんやりと光が見えた。それは徐々に大きくなり、こちらへと向かってくるようだ。
それらは何艘もの小舟だった。小舟を二艘ひと繋ぎにし、乗せられた柴に火がつけられていた。それが風上からこちらへと、強風に押されて近づいてくる。やがて火は周りの葦に燃え移り、煌々と巡検たちを照らし出す。
水路は狭く、避けようがない。さらにこの強風で操舵もままならない事態だ。業火をたたえた船団の熱気は、すでに巡検たちにも届いていた。
官兵たちは我先に水へ飛び込み、逃れようとした。だが葦の原も、火の海と化している。
すると風上からさらに一艘の舟が現われた。舳先に道士のような格好をした男が立っている。左手の人差指と中指を立て、もごもごと何か呟いている。そして右手の宝剣をさっと伸ばし、叫んだ。
「風よ吹け」
道士の声と共に、風がさらに勢いを増す。火勢も一気に強くなった。
あの男が風を吹かせていたというのか。本当に道術を使える者がいるとは。
巡検は部下たちと共に葦のない泥沼へと逃げ込んでいった。乗っていた船はすでに火の中だ。
「一人も逃すな」
道士が再び叫ぶと、両岸から武器を持った男たちが出て来た。戦意喪失している官兵たちになすすべは無かった。
やがて最後に残った巡検が泥沼に倒れ、官兵は全滅した。
血のついた刀を持った晁蓋が船上の道士、公孫勝に合図を送る。
公孫勝が剣をさっと振ると、燃え盛っていた火が一瞬にして消え去った。
「すげぇや、これが道術かぁ」
感心する阮小七が舟で現われた。舟の胴には縄で固く縛られた何濤が寝かされていた。
小七は何濤を岸へ引きずりおろす。そこへ晁蓋、阮小二、小五、公孫勝が集まって来た。
何濤は惨劇を目の当たりにし、声も出ない。そこへ小七が指をつきつける。
「良民をいじめる毒虫め。本当は殺してやりたいところだが、あんたにはやってもらう事がある」
「うう、殺せ。さっさと殺せ」
わめく河濤に、晁蓋が言う。
「まぁ、そう言うな。お前には伝えてもらわねばならんのだ。今後、わしらに手出しは無用とな。再び来た時は」
くいっと晁蓋が顎で示す。その方向には官兵の死体が幾多も転がっていた。
「わかったな。お前は弟が送っていく。上役への伝言頼んだぜ」
阮小二はそう言って、何濤の首筋に手刀を叩きこむ。
潰された蛙のような声を上げ、何濤は気を失った。
石碣村の外れの岸辺で、何濤は目を覚ました。
夜が明けている。
「うう、なんという事だ」
全滅。その言葉が胸に突き刺さる。
だが、まだ生きている。犯人は晁蓋と阮兄弟たちだと完全に判明した。
もう来るなと脅されたが、さらに人員と装備を増強すれば次は捕えられるだろう。入り組んだ水路も大体把握できた。
殺された官兵たちのためにも、このままおめおめと引き下がる訳にはいかない。何濤は湖上を睨んだ。
風の音が聞こえる。
おかしい。葦の穂も揺れておらず、湖面にも波は立っていない。
ぽたり、と肩に何かが落ちた。
雨か、いや空は晴れている。今度は逆の肩にも落ちる。見ると肩が赤く染まっていた。
風の音は大きさを増し、嵐のようになった。
さらにそれが耳鳴りへと変わる。やがて両耳が心臓になったかのように鈍い鼓動を感じ始めた。
何濤はおそるおそる両手を顔の横に持っていく。
無かった。何濤の両耳が、そこには無かった。
そんな馬鹿な、と何濤は水辺へ戻り、顔を湖面に映した。そこにいた何濤の両耳も、綺麗にそぎ落とされていた。
痛い、痛い、痛い。頭が矢に貫かれたように痛い。
許さん、許さんぞ。絶対に許さんぞ。
石碣村に、何濤の悲鳴にも似た叫びが響き渡る。
よたりよたりと、何濤は村を後にした。
耳からの血は、やっと止まってきたようだ。
だが風の音は、止みそうになかった。