108 outlaws
才覚
四
特に冬の風が冷たい日だった。
風が建物に当たり、時おり切るような音を立てている。
梁山泊軍が北京大名府(たいめいふ)の包囲を解いてから、静かな時が流れていた。
だが索超の心は落ち着くことはなかった。左腕の傷が、まだ痛む。
索超は盧俊義が捕らわれている牢へと来た。攻撃がない今のうちに、どうしても会っておきたかった。
「索超どの、どうしてここに」
牢番の蔡福と蔡慶は驚いた。
「盧俊義どのに会いたいのだが、良いかな」
「いかに索超どのといえど、それはできません」
蔡福が一歩前へ出る。体格は索超と同じくらいだった。だが索超は引かない。蔡慶も加勢するように、蔡福のやや後ろに立った。
「誰も近づけないようにとのお達しです」
蔡兄弟は、李固と柴進から全く反対の依頼を受けていた。
李固は盧俊義の命を奪え、そして柴進は盧俊義の命を救え、だった。蔡福と蔡慶は板挟みになり悩んだが、柴進との約束をとった。梁山泊の勝利に賭けたのだ。
何より盧俊義にはこれまでに受けた恩もある。恩知らずの李固と同類にはなりたくなかった。
「頼む、蔡福、蔡慶」
二人は顔を見合わせた。
戦場に出かける時のあの勇ましさは、目の前の索超からは見られない。だが有無を言わせぬ静かな力が、索超からにじみ出ているようであった。
「話を、させてくれないか」
三人が声の方を向いた。声の主は、牢の中の盧俊義であった。
蔡福と蔡慶は互いに頷き、道を開けるように端へ寄った。その間を索超が通る。誰も口を開かない。
牢の中の盧俊義は、平素と変わらない姿だった。索超は何を話そうか悩んでいたが、やっと口を開いた。
「盧俊義どの、あなたは本当に梁山泊と通じていたのですか」
「そうだ」
盧俊義は、もうそれを隠そうとはしなかった。
「そうだったんですね。しかしどうして、私に楊志の行方を教えてくれたのですか」
「梁山泊には優れた人材が必要だ。これまでも、これからもな」
「なるほど、私を試したという訳ですか。楊志の元へ、駆けつけるかどうかを」
「気分を悪くしたかな、すまない」
索超はそれに応えず、話を変えた。
「私は北京大名府軍の正牌ですよ。それなのに梁山泊は目を付けていたというのですか」
「うむ。梁山泊が、というよりも、わしがだ。梁山泊には人材が要る。それをわしの目で探していたのだ」
「盧俊義どのほどの方に言われたら、嬉しくないはずはない。しかし」
そう言って索超は軽く微笑んだようだ。
「梁山泊にはもともと軍人だった者、役人だった者が多くいる。楊志もそのひとりだ。なぜ彼らが加わっているのか、考えたことは」
「私は、考えるのは得意ではありません。急先鋒などと呼ばれているのです」
「そうかな。本当にそうならば、ここには来ないはずだ」
「買いかぶりです」
索超は、ちらりと隣の牢に目をやった。暗くて見えはしなかったが、梁山泊の石秀(せきしゅう)という男が入れられている。盧俊義の処刑場に、単身乗り込んできた男だ。
「蔡福、蔡慶、後は頼んだぞ」
索超は去り際にそう言い、最後まで振りかえることはなかった。
雪がうっすらと積もっていた。
梁山泊軍が、冬の空気のように張り詰めているのは寒さのせいではなかった。
対峙する関勝軍の先頭、そこに呼延灼の姿があったのだ。
韓滔がいまにも駆けださんばかりに、前のめりになっている。辛うじて彭玘がそれを抑えていた。だが彭玘も冷静さを装ってはいるが、心中穏やかではなかった。
昨日まで轡を並べて戦っていたではないか。韓滔も彭玘も、どこか官軍への未練がない訳ではなかった。だが呼延灼がいたこそ、割り切れもした。だが、まさか独りで寝返ろうとは。
白い雪原に関勝の赤兎馬と、呼延灼の踢雪烏騅が並んでいる。
絵になる、とはこのことだろうか。
思わず見蕩れそうになる絵の中で、呼延灼がずいと前に出る。
双鞭の一本を梁山泊軍に向けた。中軍の宋江が哀しそうな顔をする。
「見そこなったぞ、呼延灼。共に戦うと誓い合っていたのに、よもや裏切ろうとは」
「世迷いごとを抜かすな。わしがいつそのような事を」
「どうやら話し合っても無駄のようです。誰か」
宋江が眉間に皺を寄せ、呼延灼の相手を募る。
飛びだそうとした韓滔だったが、その肩を強く掴まれた。
「よせ。今のお前では、相手は務まらん」
黄信だった。彭玘も目顔でそう言っている。くやしいがその通りだろう。
黄信は青州の都監だった。そして同じく統制であった秦明と共に梁山泊へと入山した。どこか韓滔らと境遇が似ている。韓滔の気持ちも分かるのだろう。
黄信は無言で、喪門剣を引き抜く。気合を入れ、黄信の馬が駆ける。
黄信と呼延灼がぶつかり、二頭の馬の足が雪を激しく蹴上げた。
「呼延灼どの、何かの間違いだと言ってくれ」
呼延灼はただ黙って黄信の瞳を、射るように見つめるだけだ。
話し合いは無理だと悟った黄信は、裂帛の気合を込め、喪門剣を振るった。
関勝はその戦いを冷静に見ていた。宣贊が側に寄る。
「呼延灼将軍といえば、開封府でも名を広く知られています。関勝どのと同じく中央に馴染まず、地方への赴任を自ら申し出たとか」
「うむ。ぜひに会いたいと思っていた男だが、向こうから来てくれるとは」
「信用しても、良いのでしょうか」
関勝は郝思文に訊ねる。
「どう思う」
「はい。梁山泊の反応に疑わしいところは見えません。何よりあの戦いは、偽ってできるものでは無いかと」
郝思文の言う通り、呼延灼と黄信の一騎打ちはまさに命を賭けたものであった。
黄信の剣を鉄鞭が受け止めた。次の瞬間、空いた胴めがけもう一つの鉄鞭が薙ぎ払われた。
鎧が鈍い音をたて凹んだ。黄信が血を吐きながら馬上でよろめいた。
呼延灼が腕を伸ばし、黄信を脇に抱える。そのまま馬を返し、関勝軍の陣へ黄信を放り落とした。
「よし、全軍攻撃しましょう」
宣贊が指示を飛ばそうとするが、関勝がそれを止めた。
「焦りは禁物だ。いまの戦いで奴らの気勢はいくぶん削がれたが、梁山泊の地力を侮ってはいかん」
「その通りです。奴らの軍師、呉用という男は知謀に長(た)けております。どんな悪どい罠を仕掛けているのか分かりません」
呼延灼の言葉に、宣贊もなるほどと頷いた。
静かに退く関勝軍に、梁山泊の追撃があった。
だが殿を務める呼延灼が立ちはだかり、近づく事を許さなかった。
宋江は遠ざかる関勝軍を見送るしかなかった。
闇の中、軍が移動している。
馬の鈴は外し、兵もなるべく軽装で枚(ばい)を口に含んでいる。
先頭は呼延灼、その後に関勝が続いた。
呼延灼は梁山泊の布陣を知り尽くしている。
夜陰に乗じて紛れこみ、内外呼応を謀ろうという作戦はどうかと言ってきた。宣贊と郝思文は、やや不安を覚えたが、関勝はこれを決行した。
宣贊、郝思文はそれぞれ五百を率い、梁山泊陣の外側で待機している。呼延灼は静かに、確実に陣の中央へ中央へと、関勝を導いてゆく。
山を二つばかり回り、辿りついた所で向こうの方に赤い光が見えた。目を細めるようにして関勝が聞いた。
「あれは、なんだ」
「あれこそ梁山泊の中軍。あの明かりの元に、宋江がおります。ここからあの中軍の背後を突く事ができます」
関勝は、その場所まで兵を進めた。闇が深い。
関勝が右手を振った。砲が鳴り、同時に兵たちが駆ける。宣贊、郝思文も砲の合図とともに、攻撃をかけているはずだ。
赤兎馬を飛ばし、陣に駆けこんだ関勝は違和感を感じた。そして不敵に笑みを浮かべた。
陣はもぬけの殻だった。飛び込むと、喊声が関勝軍を押し包むように轟いた。梁山泊軍に包囲されたようだ。
数人の兵が関勝の側につき、逃げ道へと導く。そこに呼延灼がいた。
「関勝どの、申し訳ない。こうでもしないと、お主には勝てなかった」
関勝はにんまりと笑っている。呼延灼は困惑した。
「怒ってはいないのか。恨んではいないのか。お主を騙したのだぞ」
「うむ。見事に騙されてしまったわ」
関勝はそう笑うと、呼延灼に刀を向けている兵たちを下がらせた。
陣の周りから梁山泊兵がゆっくりと近づいてきた。絡め縄を回している者もいる。
「やめろ、お前たち」
呼延灼の一喝で、梁山泊兵が足を止めた。
ゆっくりと呼延灼は馬を下り、自ら関勝に縄をかけた。
「関勝どのに失礼のないように、充分気をつけろ」
「すまんな」
関勝の言葉に、何を答えてよいのか呼延灼には分からなかった。
主と離れて連れられてゆく、寂しげな赤兎馬に目が行った。
踢雪烏騅も、とても悲しそうな目をしていた。
号砲が聞こえた。合図だ。
郝思文は号令を発し、先頭で馬を飛ばした。
しかしその先に一団が待ち構えていた。月光に照らされ、敵将の持つ得物が輝いた。
それは蛇矛だった。
「お前たちの大将はすでにこちらの手にある。命が惜しくば馬を下り、武器を捨てよ」
林冲が言う。決して大きくはないが、よく通る声だった。その胆力がうかがえる。
だが郝思文とて、そうですかと引き下がるわけにはいかない。
相手は、関勝に二対一で襲いかかった男だ。思い出すとふつふつと怒りが湧いてきた。
「でまかせを言うな、卑怯者め」
郝思文が槍をしごき、林冲に襲いかかる。林冲は郝思文の言葉に、やや冷静さを失った。
「何だと。もう一度言ってみろ」
蛇矛と槍が火花を散らす。
「何度でも言ってやるさ、卑怯者め」
林冲の目が鋭くなった。郝思文は怯まずに槍を繰り出す。
関勝どのを捕らえたなどと、ほざきおって。我らの強さ、とくと見せてやる。
おお、と雄叫びをあげ、郝思文がさらに速度を増した。
だがそれが林冲を冷静にさせてしまった。
これは、なかなかの使い手ではないか。怒りに身を任せそうになった林冲は己を戒め、ふっと短い息を吐いた。
林冲の繰り出す技が、見違えるほどに冴えた。郝思文の頬に赤い筋が走った。
これが、禁軍師範の腕前。これが、林冲か。郝思文の頭に、ふと関勝の顔がよぎった。
「む」
郝思文が退いた。
林冲を倒し、関勝を救いに行くのではなく、馬首を転じ、林冲から逃げた。
関勝ならばこういう時、何と言うだろうか。それを実行した。
郝思文は肩越しに軽く振り向き、林冲を眼の端に捕らえた。林冲は追って来ないようだ。
卑怯者と罵るがよい。
だがここで自分が敗れては、関勝は救えない。ここは何としても逃げのびるのだ。
疾駆する郝思文に、一騎が向かってきた。馬上には女将軍の姿、扈三娘であった。
新手か。だがここは応じずに逃げに徹すると決めた。
身体を沈め、馬と一体になるように駆ける。
扈三娘があっという間に近づいた。刀ではなく、扈三娘の手には、赤い木綿の套索が揺れていた。
すれ違う一瞬、扈三娘が套索を放つ。套索は蛇のように、郝思文に絡みついた。
套索の端には重りがついており、それが振り子のように揺れる。そしてその先が、馬の脚に絡みついた。
馬が勢いよく地面に倒れた。套索が巻きついた郝思文も馬と共に転がった。
雪が衝撃を和らげてくれたのだろう。馬の横に転がる郝思文は、気を失ってはいたものの大きな怪我はないようだった。
扈三娘の指示で、梁山泊兵が郝思文をさらに縛ってゆく。
いつの間にか、林冲が側に来ていた。
「良い将だな」
満足そうな顔で呟くが、気を失った郝思文には聞こえてはいなかった。
遠くで喊声が聞こえる。郝思文が突入したのだろう。
宣贊も遅れるまいと兵を走らせ、己も馬を駆けさせる。
虚をついての夜襲のはずだった。だが梁山泊軍がすぐに押し寄せてきた。どういう事だ、と思ったが今は考えている暇はなかった。
狼牙棒を構えた騎兵が目の前にいる。捕らえた黄信の師にあたる秦明だったか。宣贊は剛刀を抜き、秦明に向けた。
「そこをどいてもらおう。さもなくば、刀の露と消えてもらう」
「どくのはお前のほうだ」
秦明が駆けた。宣贊も駆ける。狼牙棒が風を切り裂き、襲いかかる。宣贊は頭を軽く下げ、それを避けると秦明の懐に飛び込み、刀を横薙ぎに払った。
秦明の鎧に一文字の傷が走った。
さすがにこの距離での狼牙棒に、体が竦んでしまったようだ。踏み込みが甘かった。
宣贊は巧みに馬を操り、秦明と距離を置く。
秦明は鎧の傷を撫でるようにして、口を引き締めた。
宣贊と花栄との戦いを忘れていた。花栄の矢で仕留めることができなかったのだ。見た目に反し、器用な事もできる力を持っているのだ。
秦明はにやりとした。でなければ、開封府で軍人など務まらんというわけだ。気合を入れ、再び駆ける。
五合、十合と宣贊と打ち合う。力ではやはり秦明に分があるようだ。徐々に宣賛の手数が減ってゆく。だが、減りはしたものの、止めはしない。打ち合う代わりに、狼牙棒をうまくかい潜り、力を込めた一撃を放つようになった。
今度は秦明の方がやや疲れを見せ始めた。宣贊は攻撃を減らし、体力も温存させていたようだ。
宣贊は思う。負けるわけにはいかない。是が非でも梁山泊を討ち、関勝を勝軍の将にしなければならないのだ。
あの日、関勝が言ってくれた。醜郡馬の醜は、強く逞しいという意味だと。
宣贊は心から感謝した。だから関勝に、何としても恩返しをしたいと思ったのだ。
おおお、秦明も力を振り絞り、吼えた。宣贊は静かに呼吸を整え、剛刀を構えた。
そして渾身の一撃を放とうとした時、宣贊は目の端にあるものを捕えてしまった。
連れていた兵たちが、すべて地に倒れていた。それも、相手はたったの一騎だった。
一瞬感じた絶望感、それが宣賛から力を奪ってしまった。勝つのだ、という想いだけで馬を駆り、刀を振るって戦ったのだ。だが。
宣贊の一撃は外れた。伸びきった腕から力なく剛刀が落ち、雪に突き立った。
「勝負ありだ、秦明」
その言葉に、狼牙棒が止まった。
宣賛の部隊を倒したその騎兵、孫立が駆けてきた。
「勝負ありだ」
孫立がもう一度、言った。狼牙棒は、宣贊に当たる手前で止まっていた。
勝負ありも何も。秦明が苦笑いを浮かべる。
「わしももう、これ以上腕が動かんのだ。頼む、助けてくれんか、孫立よ」
秦明の腕がふるふると震えていた。
宣贊の体も、もう指一本すら動かせない。
馬上でぐったりとする宣贊に、孫立が縄をかけた。
「わしはこ奴を連れてゆく。あとは自分で何とかしてくれ」
「そんな、つれない事を」
「その様子なら、大丈夫そうだな」
と、孫立が微笑み、宣賛の馬の手綱をとった。
戦場が冬の静かさを取り戻した。
戦いが終わり、風の冷たさが強く感じられた。
馬に揺られながら宣贊は、茫然としていた。
負けた。これですべてが終わる。己の命は捨てている。だが関勝のことを思うと、悔やんでも悔やみきれない。自分が声をかけたばかりに。
おい、と大きな声が聞こえた。
自分を連れる騎兵、孫立と言ったか、が顎をしゃくって見せた。
自分を呼んでいたのか。宣贊が振り向いた。
先ほどまで死闘を演じていた相手、秦明だった。秦明はすでに遠く、闇の中で微かに姿が分かる程度だった。
そこでやっと宣贊は驚いた。ここまでその声を響かせた胆力にである。
「良い勝負だった」
まるで友にかけるような言葉だった。
宣贊が、その言葉に呆然としていると、孫立が囁いた。
宣贊の兵たちは殺していない。気を失っているだけだと。そう教えてくれた。
おかしい。梁山泊とは、こんな連中ではなかったはずだ。悪逆の限りを尽くし、非道の行いを好む賊徒だと聞いている。
だがその思いは、声に出てしまっていたようだ。
孫立は表情を変えずにそれに答えた。
「なにが本当か、などということは言えない。ただ、お主がその目で見、肌で感じたことが、真実なのではないのか」
中軍へ向かう途中で、大きな湖が見えてきた。これが梁山を取り囲む湖か。
宣贊は、その真ん中に浮かぶ天然の要塞、梁山泊を仰ぎ見た。
馬に揺られながら、宣贊は陶然と梁山泊を見つめ続けていた。