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才覚

 西の空が赤く染まりだした。

 宋江は鉦鳴らし、大名府を攻める林冲の隊を退却させた。

 林冲や呼延灼をもってしても、攻城というものは一筋縄ではいかない。圧倒的に相手が有利なのだ。こちらは常に野に陣を敷き、食料なども補給しなければならない。

「どうした。いつにも増して、神妙な顔つきで」

 幕屋へ戻ると、呉用が眉間に深い皺を刻んでいた。宋江が聞いても、唸るばかりだ。

「妙ですね」

「何が、妙だというのだ」

「数日前、大名府から三騎ほどが南へ駆けて行きました。おそらく開封府へ救援を求めるためだったのでしょう」

「しかし来ないではないか。杞憂だったのでは」

「いえ、来ないことが、心配なのです。留守司の梁世傑は蔡京の婿です。助けに来ないとは思えないのです。嫌な予感がするのです」

「その嫌な予感とは、一体」

 そこへ偵察に行っていた戴宗が戻ってきた。飛びこむようにして幕屋に入り、急きこみながら報告をした。

「大変です。開封府から、新たな隊が出陣しました」

「軍師どのの言う通り、救援が来るようだな。急いで迎え討つ用意を」

 いえ、それが、と戴宗が遮った。

「梁山泊へ向かっています」

 何だと、と宋江が立ちあがった。

「やはり、そうきましたか。少し時間をかけすぎたようですね」

 呉用は低く、呟くように言った。

「どうするのだ、呉用」

 宋江も戴宗も、焦りを禁じえない表情だ。

「仕方がありません。一旦、梁山泊へ戻りましょう」

 盧俊義と石秀は、と宋江が言いかけて口を閉ざした。

 いま梁山泊に残っている戦力は水軍が主だった。梁山泊が陥とされることなど考えられないが、それでも苦戦は免れまい。

 盧俊義については、蔡福と蔡慶という牢役人の兄弟が上手くやるという約束を取り付けてある。いまはそれを信じるしかない。

「大名府の連中に気付かれぬように、夜半まで待ちます」

 呉用が各隊に指示を出す。退却を妨げられぬよう、飛虎峪の左右に伏兵を置くことになった。

 宋江は沈む陽に目を細め、見つめていた。

 信じるのだ。

 自分にそう言い聞かせ、じっと時が経つのを待った。

 

 秦が統一を果たす前後の時代である。七つの国が割拠し、覇を争っていた。

 その中の魏が、北にある趙の都を攻めた。だが趙の東の斉が、それを救うために出撃した。しかし斉は趙に向かうのではなく、主力部隊がいない魏を攻めたのだ。

 そして慌てて戻り、疲弊しきっていた魏軍を打ち破ったのである。

 これを囲魏救趙の計と呼ぶ。

 開封府で関勝に兵が与えられた。山東、河北の精鋭一万五千である。

 かつての斉のように、関勝は北京大名府へ向かわず、手薄となった梁山泊を攻めるため進軍したのだ。

 宣贊は、すぐに大名府に救援に向かわねばと考えていた。だが関勝は、その一歩先の手を打ったのだ。宣贊は関勝の背を見つめながら、味方ながらつくづく恐ろしいと感じていた。

 梁山泊の山容が見えてきた。

 戦への気負いなど感じさせぬ態度で、関勝と郝思文が目を細め、それを眺めていた。

「おい、順」

「どうしたんだい、兄貴」

 梁山湖のほとり、張横と張順である。

 開封府から軍が差し向けられたとの報告があった。すぐに朱武は、残っている頭目たちに厳戒態勢をとらせた。

「敵が攻めてきているってのに、ここで手を拱いているのか」

「まだどんな相手かも分からないんだぜ」

「ふん、どんな相手だろうと、勝っちまえばいいだけだろうが。俺たちの強さを見せてやろう、順」

 宋江たちが戻るという報せもない。林冲などの主力も河北にいるのだ。張順は困り、腕を組んだ。

「何か手柄を立てたいんだよ。俺たち水軍が編成されてから、これといった活躍はしてないんだぜ」

「分かったよ、兄貴」

 張横の顔が明るくなった。手柄を立てたい、という気持ちは分かる。だが兄をひとりで行かせる訳にはいかない。危なくなったら退かせる役も必要だ。

 張横と張順は五十艘ほどの船を集め、それぞれに五人ほど手下を乗り込ませた。

 葦の草に夜露がおりる頃、張横たちは静かに水面を進んだ。船火児という渾名の通り、操舵の腕は梁山泊一だろう。兄のその技に、張順も見蕩れていた。

 岸から数里のところに敵が陣を張っているという。

「順、お前はここで待っていろ」

「そんな。俺も行くよ」

「駄目だ。いざとなったら報せに戻れ」

 ごくりと張順は唾を飲み込んだ。張横もそこまでの覚悟をしているのだ。

 もう止められない。闇に消えてゆく張横の背を見守ることしかできなかった。

 じりじりと陣に近づいてゆく。闇でも、ここらの地理は頭に入っている。

 敵が設えた逆茂木を抜き、中軍へと迫ってゆく。

 張横は自分の鼓動がうるさいと感じた。水の上、船の上ではどんな時でも平静でいられた。

 なるほど張順が止めたわけだ。張横は苦い笑みを浮かべた。

 明かりが見えた。敵兵の気配はない。幕屋の中に人影が見える。

 人影はあごの辺りを摘むようにしながら、じっと座っている様子だ。胸の前に何か持っている。書物だろうか。戦場で優雅なことだ。

 張横が刀を抜き放つ。兵たちに突入の合図を出す。

 悪いな。何が起きたのか理解する前に仕留めてやる。

 あと十数歩で標的だという時、銅鑼の音と喚声が沸き起こった。

「しまった」

 罠か。梁山泊兵が散る。敵兵が周囲から湧いて出た。

 張横は刀を閃かせ、活路を開こうと駆けた。手下たちが次々と捕縛されてゆく。

 張横の目の前に男が立っていた。槍を構えた、いかにもな武将だった。

「残念だったな。梁山泊よ」

「ふざけるな」

 張横は刀を武将に投げつけた。まさか刀を飛ばすとは思っていなかったのだろう。驚いた顔をしたが武将は刀を避けると、すぐに槍を繰り出してきた。槍の柄で張横の足を掬い、地面に転がした。張横は、駆けつけてきた敵兵に縄で縛られてしまった。

「でかした、郝思文」

 郝思文と呼ばれた武将は、にこりと笑みを浮かべた。

 幕屋の中の人影は、この騒ぎの中でも微動だにせず、書物の頁を一枚めくった。

 それほどこの郝思文という者に信頼を置いているというのか。

 張横は陥車に押し込められながら愕然とした。

 郝思文は井木犴と呼ばれている。

 郝思文の母が不思議な夢を見た。二十八宿の内の井宿が胎内に入ったというのだ。そしてその後、身籠っていることが分かり、やがて生まれたのが郝思文であった。井木犴とは井宿の星座の名前である。渾名はその逸話が元となっていた。

 郝思文は長じてもその名に恥じぬ成長ぶりを示した。やがて武芸十八般も修め、巡検となった。

 関勝が蒲東へ赴任して来た時、郝思文は巡検を束ねる地位にあった。普段から真面目で、人が良く、強さを鼻にかけない郝思文を、関勝は気に入った。

 だが知県の意見は違った。

「ああ、あやつか。確かに武芸も抜群で職務も真面目にこなす。だがな」

 知県はそう言葉を濁らせた。聞くところによると、以前、賊との戦いにおいて、配下の民兵たちを危うく全滅させるところだったというのだ。

 それで本人も、少し自信をなくしているのだという。

「人は良いのだがな」

 と知県はつくづく惜しそうな声を出した。

 ううむ、と関勝はあご髯を捻った。とてもそうは思えないのだ。

 ある時、関勝は訓練と称して、民兵たちを招集した。兵を二つに分けての模擬戦を行う。 ひとつの隊を関勝が、もう一つの隊を郝思文が率いる。

 まずは関勝隊が山賊の役である。山頂の寨に立てた旗を奪えば、郝思文隊の勝利である。

 始め、の鉦が鳴らされた。旗の位置で関勝が見下ろしている。

 郝思文隊は散開し、斜面を登り始めた。

 関勝が指示を出し、矢を射かけさせた。鏃は取ってある。

 郝思文隊の三分の一が討たれた。それでも登り続けてくる。

 関勝の眉が曇った。再び合図を出す。中腹まで登った兵のやや後方から、伏兵が現れた。虚をつかれた郝思文隊のほとんどが討たれた。

 息を切らし、郝思文が最後の坂を登りきった。

 関勝の刀がその首筋にひたりと当たった。

「死んだぞ、郝思文」

 郝思文は何も言わずうなだれた。そして少しだけ顔を上げ、たなびく旗を恨めしそうに見た。

「弁解は」

「ありません」

「そうか。では、もう一度だ」

 関勝は、一番動きの良かった兵を大将に選んだ。郝思文をその副将にした。

 再び鉦が鳴らされた。喚声が起こる。

 関勝は、おやと思った。兵の動きが先ほどと違う。自軍の兵に警戒を強めさせ、敵の動きを見守った。

 数刻後、関勝隊の勝利に終わった。だが、危うかった。

 旗を守備するのが関勝でなければ、負けていただろう。それほど動きが格段に良くなったのだ。まるで別の部隊のようであった。

「また、負けました」

 そう悲観する郝思文に、関勝は満面の笑みで応えた。

「なにが、可笑しいのですか」

「いや、嬉しいのだよ。お主の力が、本当の力が分かったのだから」

 郝思文はその言葉にきょとんとするばかりだった。

 郝思文の力、それは副将としての力だ。

 郝思文自身の能力は決して低いものではない。だが自分が頭(かしら)となり、隊を率いるのは不得手のようだ。真面目な分、気負ってしまうのだろう。

 だが大将を置く事で、それがなくなる。

 そして大将を支え、足りない部分を補佐する事で、大将自身の力をいかんなく発揮させる。

 それが郝思文の持つ力であった。

 それからである。

 郝思文は関勝を大将と定め、自らの使命を知ったかのような働きぶりをするようになった。

  

 その日、梁山泊の攻撃はいつもよりも少なかった。

 梁世傑は、奴らも疲れたに違いないと言っていたが、李成と聞達は違った。

 おかしい。あれほど連日のように攻め立ててきていたのに、である。

 そこへ報告が届いた。梁山泊軍が夜陰に紛れて退却を始めていると。

 やはり、そういうことか。李成と聞達は急ぎ甲冑を着込み、兵たちに追撃の準備をさせた。

 飛虎峪まで追った。暗がりの中を移動する梁山泊軍の後尾が見えた。

「逃すな」

 李成が吼える。大名府軍が飛虎峪へと至った時、両側の山が明るくなった。

 李成と聞達が仰ぎ見る。明々と松明が連なっていた。

 聞達が歯嚙みをした。逸った。梁山泊を攻められる好機とばかり、気が急いてしまった。

 山の左から花栄が、山の右からは林冲が見下ろしていた。

「退け、退くのだ」

 聞達が叫んだ。李成は兵たちの中を駆け回る。

「慌てるな。敵の思う壺だぞ」

 だが兵たち混乱を来たし、暗闇の中を、味方を押しのけて逃げようと必死だった。

 渾沌と化した飛虎峪に轟音が響き渡った。

 呼延灼が率いる隊がそこにいた。その前面には凌振が部下を従え、砲を並べていた。

 それを合図に花栄と林冲が、両側から大名府軍に襲いかかった。大名府軍は対応できず、逃げる事しかできなかった。

 李成と聞達が大名府に命からがら辿りついたころ、東の空が明るくなりはじめた。聞達も李成も、その陽を憎々しげに見つめていた。

 かろうじて全滅は免れた。林冲、花栄、呼延灼という猛将を相手にである。

 しかし敗北ではある。

 梁世傑は蒼白な顔になった。

 北京大名府は、再びその門を固く閉ざした。

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