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疑心

 黄信は耳を疑った。

 秦明率いる軍勢が清風山の軍勢に敗れたというのだ。しかもほぼ全滅、完膚なきまでに叩きのめされたのだという。

 さらに黄信は目を疑った。

 その秦明が目の前にいるのだ。

 黄信は花栄と宋江を奪われ、この清風寨に戻ると防備を固め戦況を見守っていた。そこへ秦明が一人でやってきたのだ。

「お久しぶりです、秦明さま。このたびは惜しくも敗れたとお聞きしましたが」

 よせ、と秦明は手で制した。

「完敗だったよ。うまく花栄の作戦に乗ってしまったわ」

 師である秦明がそう言う以上、まさに完敗だったのだろう。話す秦明は、どことなく清々しい顔をしているような気がした。

「そうですか。では兵を倍以上連れ、討伐にまいりましょう。この清風寨からも徴兵をかけます」

 意気込む黄信だったが、秦明は笑って首を振るばかりだ。

「どうしたのです、秦明どの」

 秦明がふいに目を閉じ、口を閉じた。

 しばしの沈黙の後の秦明の言葉に、黄信は再び耳を疑った。

「清風山の仲間になった、ですと」

 立ち上がる黄信を抑える秦明。

「声が大きい、黄信」

 秦明は沈痛な面持ちで、絞り出すように語り出した。

 青州城での一件である。

 黄信は聞くにおよび、胸がむかむかとしてくるようだった。

「なんという事を。怪しいと考えただけで、秦明どのを叛徒と決めつけるとは。まさか知府は私の事も」

 うむ、と秦明が頷いた。

 秦明と共謀したと思(おぼ)しき黄信も捕らえよ。慕容彦達がそう布告を出したと、青州に忍び込んでいた燕順の部下が報告してきていたのだ。

 黄信は姿勢を正し、秦明に頭を下げた。

「私の命は秦明どのにお預けいたします。秦明どのと共に戦えるのならば、ほかに何を望みましょうか。我らを敵に回したことを後悔させてやりましょう」

 秦明は微笑み、黄信を助け起こした。

 

 その後、清風寨にやってきた花栄、燕順、王英らの部隊と合流した。花栄は、燕順の部下が守っていた妻と妹と再会し、抱き合って喜んだ。

 正知寨と副知寨を同時に失う事になった清風寨の住民は、花栄を必死で引きとめようとした。一体、ここを誰が守れるのか、と。

 清風山はここを襲う事はない、と燕順が約束した。

 現に清風寨に乗り込んできているが、誰ひとり傷つける事はしていない。もちろん、これは宋江に言い聞かされていたためでもあるのだが。

 燕順が先頭となり、清風山へ帰還した。

 殿(しんがり)で黄信は思う。鎮三山と息巻いていた自分が、まさか討伐すべき清風山の一味に加わってしまうとは。

 そして、馬に揺られる秦明の背中を見た。秦明どのも、だ。己の職務に忠実であっただけなのに、その場に居(い)もしなかった男の小さな疑念だけですべてを失ってしまうとは。

 同じく花栄を見る黄信。

 実に我ら武官の生きにくい世の中だ。しかし自分は戦うことしかできないのだ。

 黄信は清風寨を振り返った。

 そして何かを振り払うかのように首を振ると、一行を追った。

 

 女の泣き声が広間に響いていた。

 両手を胸の前で組み、膝立ちになりながら、命乞いをしている。

 それは劉高の妻であった。

 燕順らが清風寨へ向かった際に、王英が連れて来ていたのだ。

「今度こそはおいらの物だぜ、兄貴」

 という王英に燕順は、話があるから連れて来い、と広間へ引き出したのだ。

 王英は嫌な予感しかしなかった。

 泣きわめく女を燕順が黙って睨んでいる。

 宋江が諭すように言った。

「そう泣かないでください。言いたくはないが、あなたの思い違いが元でこれほどの事件になってしまったのですから」

 何度も首を縦に振る劉高の妻。その間も、命だけは命だけは、と念仏のように唱えている。

 燕順が床几から腰を上げ、女に近づく。王英が割って入ろうとするが、鄭天寿がそれを止める。

「あんたの旦那が待ってるぜ」

 ひ、と悲鳴を上げきることなく女の首が落ちた。

 燕順が刀についた血を拭う。

 宋江は驚き、王英が文句を言ってきたが、一喝した。

「こいつは生かしておくわけにはいかねぇ。また同じ事を繰り返して、ここを危険にさらすわけにはいかねぇんだ、わかるだろう」

 そう言われては王英も黙るしかなかった。

 なにも殺さなくても、と秦明は思った。

 だが口に出すことができなかったのは、心のどこかでそれを望んでいたからかもしれない。

 妻を殺された、せめてもの復讐。

 秦明はただ、落ちた劉高の妻の首を見つめていた。

 

 半月ほどたった頃である。一同が広間に集まっていた。

 清風山に向けて掃討軍が出される決議がされた、と報告があったのだ。

 その兵数およそ一千を超えるという。

 燕順は腕を組み、考える。清風山はおよそ四、五百といったところか。花栄、秦明、黄信といった武官が加入し、戦力では引けを取らないと思えたが不安要素は大きかった。

 花栄の意見はやはり徹底抗戦のようだ。秦明、黄信も逆賊と言われて怒りのやり場を求めているのだろう。

 しかしいかんせん、多勢に無勢。兵糧も心もとない。包囲され持久戦に持ち込まれては、どれだけ持つのだろうか。

 抗戦だ。

 いや厳しい。

 ではどうするのか。

 清風山を捨てるのか。

 最悪の場合、そうせざるを得まい。

 しかし、どこへ行くというというのか。

 侃々諤々(かんかんがくがく)の議論の中、宋江がおずおずと口を開いた。

「もしよろしければ、私にひとつ当てがあるのですが」

 一同は無言で先を促す。そして宋江の言葉に誰もが驚きの色を隠せなかった。

 梁山泊。

 宋江はそう言った。

「たしかに梁山泊の名はこの青州にいても嫌でも聞こえてくる。晁蓋という男を頭領に迎えてからますます勢力を増し、官軍など歯牙にもかけないのだとか」

 秦明が身を乗り出して言った。それに黄信が続く。

「しかし、簡単に梁山泊が迎えてくれるとは思えんのだが」

 花栄も心配そうな顔を宋江に向ける。

 清風山の三人だけはなるほどというような顔をしていた。

 実は、と宋江が説明を始めた。

 生辰綱強奪の一件で晁蓋を逃がした事。さらに閻婆惜(えんばしゃく)が命を落とし、その犯人とされてここまで至った経緯を聞かせた。

「さすがは及時雨だな」

 と花栄が言い、黄信が驚いた。

 この男が及時雨の宋江だったのか。鄆城虎の張三などではなかったのだ。宋江もまた、劉高とその妻の勘違いの犠牲者であったのだ。

 当の宋江は困ったような顔をしていた。

 清風寨でほとぼりが冷めるまで落ち着くつもりだったが、本当に何が起こるかわからないものだ。宋家村からの脱出行でも思ったが、一寸先は闇だ。

 だがまだ生きている。

 花栄や燕順たち清風山の山賊のおかげだ。このまま指をくわえて彼らが死ぬのを見ている訳にはいかないのだ。

 はじめ、武松が向かったという新生二竜山のことを思い浮かべた。一番近くだが、実際その二竜山の様子はわからなかったし、規模も同じくらいならばかえって巻き添えにする可能性もあるだろう。

 そこで梁山泊を思い出したのだ。

 宋江の手紙を持たせ、先に手下を走らると、すぐに別の手下が報告に来た。

 官兵の先発部隊がすでに近くに来ている、と。

 これほど早いとは。燕順は配下たちに急いで戦の準備をさせる一方で、宋江や花栄の家族をはじめとする者たちの避難の準備をさせた。

 まずは正面で官軍を引きつけておき、その隙に順次裏から山を下りるのである。

 燕順と共に花栄がその指揮にあたった。官軍を迎え撃つのは二人に加え王英、黄信である。秦明と鄭天寿は避難組の護衛にあたる。

 花栄が何よりも心配したのは秦明だった。今は落ち着いたように見えるが、慕容彦達に妻を殺された復讐の炎は消えてはいまい。頭に血が上り、先走りされては計画が無駄になってしまうからだ。

「お前ら、清風山の底力を見せてやれ」

 王英が鬨(とき)の声を上げ、馬を駆る。配下の山賊たちがそれに続き、官軍とぶつかった。しかし王英は奥まで突っ込まずに槍を振り回すとすぐに離れてしまう。

 追おうとした官軍に今度は黄信の一隊が押し寄せた。兵馬都監の黄信だ、と官軍たちが騒ぎ出し、乱れた。

 さらに燕順がそれを援護する。しかしそれも押し込まずに、すぐに離れてしまう。

 やや離れて花栄は弓を構えていた。先発隊ごときには負けはしないだろう。だが今は時間を稼がねばならないのだ。ここに兵力を集中させておき、宋江らをまずは逃がさねばならない。

 時折、花栄が矢を放つ。しかしどれも敵をかすめるばかりで、当たることはなかった。

 官軍の指揮官が吠えた。

「進め、小李公などと渾名されているものの、口ほどにもないではないか」

 どれくらい、戦っていただろうか。

 すでに両軍は疲弊していた。

 もう良いだろう。

 花栄が放った矢が、指揮官の眉間を正確に射抜いた。

 落馬した指揮官を見て、官軍は足を止めた。

 山上から銅鑼の音、撤退の合図だ。王英、黄信、燕順の隊が山へ戻ってゆく。

 官軍は動けない。花栄が官軍に向かって言った。

「今日のところはこれくらいにしておいてやる。どれほど軍勢を引き連れてきても、我らに勝てると思うなよ」

 はっ、と馬に鞭をくれ、花栄が山中へ消えた。

 指揮官を失った官軍は、やはり動く事ができなかった。

 

 山の間道を一団が歩いていた。先頭は騎馬の鄭天寿。獣道にも似たそれを、迷うことなく先導してゆく。

 宋江と花栄の妻の崔氏そして花小妹をはじめとする者たちを先に逃がしているのだ。

 まだこのような道があったとは。殿(しんがり)の秦明は胸中でつぶやいていた。花栄と戦った際の山賊たちの神出鬼没ぶりを思い返し、改めて納得するのだった。

 秦明が山から出た時、ふいに前方で剣戟の音が聞こえた。

「こっちにもいやがった。丁度良い、手柄にしちまおうぜ」

 横合いから声が聞こえ、官軍が現れた。

 見つかった。

 本体は正面で引きつけていたはずだが、どうやらこいつらはそこから逃亡した兵たちのようだ。

 こちらが非戦闘員と判断して狙いをつけたのだろう。

「それでも官軍か」

 思わず秦明が叫んでいた。官軍のくせに、女や年寄りを殺そうとするとは、許されぬ行いだ。

 秦明の狼牙棒が振られると、官軍の兵たちは布切れのように宙を舞った。

「ええい、逆賊め」

 一人が弩(ど)を構えている。しかしそれは秦明を狙ったものではなかった。矢の先にいるのは崔氏と花小妹だった。

 貴様、と秦明が馬を駆る。

 矢が放たれた。

 花小妹が、崔氏をかばうように前に出た。

 矢が飛んでくる。

 花小妹が目をきつく閉じた。

 届け。

 秦明が前のめりに馬を急がせる。

 あっ、と弩を持った兵が叫んだ。

 花小妹はおそるおそる目を開けた。

 目の前には、秦明の太い腕があった。そしてその腕には矢が深々と刺さっていた。

「秦明さま」

 馬から下り、秦明はにやりと笑ってみせる。

 四人ほどの官兵が加勢に来た。

「やっちまえ」

 兵の合図で矢が次々と放たれた。

 秦明は崔氏と花小妹を抱きかかえ、背を向けた。

 鈍い音と共に矢が秦明の背に突き刺さってゆく。

「秦明さま」

 守られている二人が悲痛な声で叫んだ。

 矢が止(や)んだ。秦明の背には十数本の矢があった。

 ゆっくりと秦明が立ち上がり、官軍に向きなおった。

 狼牙棒を拾うと、官軍に向かって歩き出した。

「花栄どのと比べると、お前らの矢など蚊ほどの痛みも感じぬわ」

 狼牙棒が、餓えた狼のように唸りをあげた。

 悲鳴を上げる間もなく、官兵たちは肉泥と化した。

「大事(だいじ)ないか」

 崔氏たちに声をかけた秦明だったが、ふいに意識を失った。両膝をつき地面に倒れかかる。

 だがそれを止めた者がいた。花小妹であった。

 自分の倍ほどもあろう秦明の体躯を、その細腕と体で支えていた。

「早く手当てを」

 先頭で敵を片付け駆けつけてきた鄭天寿に、花小妹はそう叫んでいた。

 

 火が放たれた。清風山の寨が火に包まれてゆく。

 官軍の本体が到着し、山中へと進攻してきた。花栄の作戦で、清風山軍は徹底抗戦の構えだと見せかけておいた。

 花栄、燕順、王英、黄信の四騎で誘いをかけ、全軍を山中へ導いた。その後、火を放ったのだ。

 四人はすでに裏道から山を下り、鄭天寿らを追っていた。

 立ち上る黒い煙を見て、王英が涙を浮かべている。

「ああ、俺たちの清風山が」

 燕順は一度だけ振り向くと王英に声をかけた。

「奴らが追ってこないうちに行くんだ、王英。また新天地でひと暴れすりゃいいじゃないか」

 そうだな、と鼻をすすり王英は馬の手綱を引いた。

 清風山、陥落。

 この報はすぐに慕容彦達の元に届けられた。

「花栄や秦明、他の者の首はどこにある。まさかお前が共謀して、奴らを逃したのではあるまいな」

 労(ねぎら)いの言葉をかけられると思っていた討伐軍の隊長は面食らっていた。

 なんという男だ。猜疑心の塊ではないか。統制を務めていた秦明の心情が分かったような気がした。

 しかし隊長はその思いを胸にしまいこむと、肩を落とし場を辞した。

 すぐに異動願いを出そうと決めた。

 

 包帯を幾重にも巻いた秦明が馬に揺られていた。

 彼を支えるように花小妹が寄り添っていた。

 花栄は鄭天寿から事情を聞いた。

 秦明を巻き込んだのは、己の責任でもある。

 妻を失わせ、官職も地位までも失わせた。

 その心中はいかばかりか、花栄には測りかねるものだった。

 その秦明が、妻と妹を身を挺して救ってくれた。

 どれほど言葉を重ねても、感謝の意を表すことができようか。

 花栄は秦明の背に向かって拱手の礼をとった。

 目をつぶり頭を下げ、ありがとう、とつぶやいた。

 

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