top of page

疑心

 慕容彦達は苛立っていた。

 遅い。秦明からの報告はまだないのか。

 奴が負ける事は考えられぬし、まさか奴まで賊の軍門に降(くだ)った訳ではあるまいな。

 秦明は花栄の父を尊敬していたと聞く。その息子である花栄にならば、いやまさか、とぶつぶつと独り言を呟きがら深夜の執務室をぐるぐると歩き回っていた。

 知府さま、と部下が駆けこんできた。

 その報告を聞いた慕容彦達の顔がみるみる青ざめた。

 

 目を覚ますと、目の前にひれ伏している者がいた。それは花栄だった。

 他にも数人の男たちがいた。花栄と酒を飲んでいた小男がいた。中央の堂々たる風格の男、この男が頭領なのだろうか。そして背の低い男と、色白の美丈夫。

 どうやら清風山の寨のようだ。落とし穴に落ち、気を失った。そして捕らえられたのだろう。しかし、かけられたはずの縄はすでに解かれていた。

「殺すならば、とっとと殺せ。生き恥をさらしたくはない」

 秦明は低く言った。

「大変失礼なことをいたしました、秦統制。この花栄、非礼をお詫びいたします」

 花栄が伏したまま言った。他の男たちも、頭を下げた。

 一体、どういう事だ。軍人にとって敗北はすなわち死だ。自分は負けたのだ、早く殺せ。

 しかし、五人は黙ったままだった。

「一体、どういう事だ、花栄どの」

 秦明は口に出して聞いた。顔を上げた花栄が口を開いた。

「この度(たび)のこと、私どもに逆心など微塵もございません。やむにやまれぬ理由がございます」

 花栄は場にいた男たちを紹介した。

 清風山頭領の燕順、王英、鄭天寿。そして役人風の男は鄆城県の宋江だと言った。

 聞いたことがある。及時雨と渾名されるほどの好漢だという噂だった。

 世間が噂するほど大した者ではございません、と宋江は己の境遇を説明した。

 なるほど、劉高の妻の勘違いが元でこれほどの大事(おおごと)になるとは。宋江の足はまだ癒えておらず、引きする姿が痛々しかった。

 しかしすでに劉高は殺され、花栄は謀反の罪に問われている。それに秦明自身も軍を失ってしまった。

「花栄どの、宋江どの、貴殿らの言い分は承知した。わしが何とか説明して、罪を軽減してくれるよう頼んでみましょう」

 秦明はそう提案したが、花栄はそれに対してこう言った。

「失礼ながら、考えが甘いと存じます。劉高はじめ文官の腹黒さは秦明どのも重々知っておられるはず。とくに青州知府の慕容彦達は狭量で、疑り深い性格と聞いております。そんな男が、おいそれと我らの言い分を聞き入れるとは到底思われません」

 うぬ、と秦明は二の句が継げなかった。確かにそうなのだ。文官たちは自分たち武官を軽んじているところがある。特に慕容彦達はその傾向が強く感じられる。

 戦場での判断はその軍の責任者に任せるべきだ、と秦明は常々考えていた。敵を壊滅寸前に追い込んだ時、臆病な文官の撤退命令で何度煮え湯を飲まされた事か。

 そこへ酒食が運ばれてきた。杯が一同に渡される。

 燕順たちも、身を守るために、花栄たちを守るために仕方なかったのだと秦明に詫びを入れた。捕らわれた兵たちも、殺さずに捕えているだけだという。

 いまさら燕順らを責める訳にもいかない。戦い、そして負けたのだ。

 酒を飲み、燕順らが落草した話を聞いた。彼らにもやむにやまれぬ理由があるのだ。

 自分が彼らの立場だったとしたら、と考えると秦明には頷くことしかできなかった。

 何度も、清風山に残るように誘われた。しかし秦明はそれを固辞した。

 生きている以上、敗残の将として軍規に則(のっと)り、罰を受けねばならないのだ。

「充分にお気をつけください、秦明どの」

「どんな罰でも受けるつもりだ」

 秦明は頭を下げ、翌朝ただ一人で山を下りた。

 清風山はまだ朝靄に包まれていた。

 

 雲ひとつない晴天。冬にしては、やや暖かかった。

「青州統制、秦明ここに帰投いたしました。どんな罰でも受ける所存でございます。門を開けていただきたい」

 青州城の門下で秦明が叫んだ。

 門番たちは秦明を見ると顔色を変え、何やらひそひそと話しあっている。

「どうした早く開けてくれぬか」

 すると頭(かしら)立った者が進み出て、秦明に向かって叫んだ。

「この逆賊め。よくもおめおめと顔を見せられたものだ」

「何を言っている。この秦明、軍は失ったが賊に降ったりはしておらぬ。現に処罰を受けるために、こうして戻ってきているではないか」

 秦明の弁明を、門番は鼻で笑った。

「大方、門を開けた途端に山賊どもが湧いて出て、城内になだれ込むという手筈なのだろう。騙されぬぞ」

 何を言っているのだ。わしは一騎で来ているではないか。

 そこへ慕容彦達が姿を現した。

「おお、慕容知府どの。こ奴らがわしの事を逆賊だと言い、中へ入れてくれませぬ。敗戦の責任はわしにあります。罰を受けに戻りました」

 慕容彦達は秦明を見下ろしていた。冷たい視線だった。

「報告は聞いておる。清風山の山賊および逆賊花栄相手にほぼ全滅とは、統制の名が聞いてあきれるわ」

「ごもっともでございます。ですから」

 と続けようとするのを、慕容彦達が遮る。

「ごもっともだと、この私は騙されぬぞ。お前は山賊の夜襲を受けた時、一人で山中に隠れていたそうではないか。日中にさんざん兵たちを疲れさせた揚句、最後にまとめて襲わせたのであろう。山賊と共謀し、己の命だけ助かろうなどと、まったく恐ろしい男だ」

 何を言っているのだ、あの男は。

 違う。確かに夜襲された時に、山中にいたが隠れていたわけでも、山賊と共謀していたわけでもない。

 慕容彦達は特に猜疑心の強い男だ、という花栄の言葉が脳裏をよぎった。

 まさか、戦況を聞いただけで勝手にそう判断したというのか。

「知府さま、違います。話を聞いてください」

 黙れ、と慕容彦達が唾を飛ばしながら叫ぶ。聞く耳すら持っていないようだ。

 疑心暗鬼。一度、疑ってしまえばもう信じる事はできない。

 慕容彦達は妹のおかげで今の地位にある。己(おのれ)に実力はない事から、常に足元をすくわれかねない状況に、誰も信じようとはしなかった。信じられるのは己のみであったのだ。

 疑わしきは罰する。それが慕容彦達の信条となっていた。

 馬鹿な、と秦明はつぶやいた。

 慕容彦達が兵に何かを命じた。

 門の上に長い棒が差し出された。それは槍のようだった。そしてその槍の先に何かがぶら下がっていた。

 丸い形をしたそれは、人の頭だった。

 その頭と目があった。

 秦明は頭を矢で射抜かれたような衝撃を受けた。

 薄く口を開け、虚ろなその瞳の持ち主は、秦明の妻だった。

 秦明の悲痛な叫びが、青州城に霹靂のように響き渡った。

「逆賊、秦明を捕らえよ」

 慕容彦達が叫び、兵たちが弓を構えた。

 秦明の中で何かが切れた音がした。

 秦明の視界が真っ赤に染まった。

 

 何も覚えていなかった。

 気がついたら清風山の寨に再び、いた。

 腕に激痛が走った。刺さった矢を抜いて、山賊たちが治療してくれていた。体にはまだ何本か矢が刺さっていた。

 花栄と宋江が部屋に入ってきた。

「気がつかれましたか、秦明どの。青州知府はやはり外道でしたな」

 花栄が経緯(いきさつ)を話してくれた。

 妻を殺され、秦明の怒りは頂点に達した。

 我を忘れるほど怒った秦明は、手にしていた狼牙棒で城門を破ろうとした。そこへ慕容彦達の命(めい)で矢を浴びせられ、秦明は仕方なくその場から逃げた。

 矢を体中に受け、ふらふらと街道を歩いているところを、心配で駆けつけた清風山の山賊に保護されたというのだ。

 秦明は思い起こし、再び怒りを募らせた。

 残った矢を一気に自分の手で引き抜いた。寝台に鮮血が飛び散った。

「まったくひどい事を」

 宋江が泣いていた。まるで我が事のように心を痛めているようだった。

 何という男だ、このような男がいるのか。

 秦明は上(のぼ)りかけた血が冷めていくのを感じた。

 傷に包帯を巻き、燕順たちがいる広間へと赴いた。

「秦明どの、あらためて聞こう。青州へ戻る気はありますかな」

 燕順の問いに、返事ができなかった。

 酒と杯が用意された。秦明の元にもそれが回ってきた。

 酒を一気に呷る。

 目をつぶり、奥歯を噛みしめる。

 妻の顔が、青白くなった妻の顔が秦明を見ていた。

 もう戻ることはできない。

 慕容彦達め。

 覚悟はできた。

 空(から)になった杯を勢いよく卓に置いた。

 たん、という乾いた音が鳴り響いた。

 

bottom of page