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疑心

 慕容彦達(ぼようげんたつ)は苛立っていた。

「遅い。黄信はまだ戻らぬのか。まさか奴まで山賊に寝返ったという事はあるまい」

 いや、まさか、とぶつぶつと独り言を言いながら執務室をぐるぐると歩き回っていた。

 知府さま、と差し出された手紙を奪うように受け取ると、それに目を通す。

 慕容彦達の顔がみるみる青ざめた。

「山賊どもが花栄を救い出しただと。ええい、統制を呼べ、秦(しん)統制を呼べ」

 慕容彦達は配下にそう告げると倒れるようにして椅子に腰をおろし、大きく溜息をついた。

 黄信の奴め、鎮三山などと豪語しておきながら、役に立たぬではないか。大方、前に鎮圧した山賊というのも大したことはなかったのだろう。

 やはり花栄も山賊の仲間だったとは。だから軍人は嫌いなのだ。黙って我らの言う事を聞いておればよいものを。慕容彦達はもうひとつ、大きなため息をついた。

 やがて、配下の者が告げた。秦統制が到着したという。

 慕容彦達は急ぎ足で広間へと向かった。

「青州統制秦明(しんめい)、ただ今到着いたしました」

 広間にいた秦明が慕容彦達を見て片膝立ちで告げた。広間の隅々にまで響き渡るような大声だった。

「呼び出してすまなかった、秦統制。事は急を要するのでな」

 声に圧倒されながらも、慕容彦達は秦明に言葉をかけ、二人は軍議の間へと向かった。

 この秦明という統制、太行山脈の西にある京兆府からさらに南にあたる開州の出身である。家は代々武官を務める生粋の武人であった。

 武芸に関しては一流の秦明だったが、少々気が短く怒りっぽいところがあった。また生来、声が大きく雷鳴のような事から、部下たちから霹靂火(へきれきか)と渾名されるようになっていた。

 それを聞いた秦明は怒ったのだが、秦明が活躍すればするほどその渾名も広まることになり、今では自分から名乗るようになってもいるという。

 慕容彦達は秦明に事の次第を説明した。秦明は口を真一文字に結び、それを聞いていた。聞き終えると、秦明は拳を卓に叩きつけて立ち上がった。

「何という無礼千万。山賊どもなど私がすべて捕えて見せましょう」

 驚かすな、という顔で慕容彦達が秦明を睨む。しかし何とかそれを抑え込み、秦明に優しい声をかける。

「おお、さすがは秦明どの、誠に頼もしい。して、いつ出陣をいたす。奴らは待ってはくれませんぞ」

 清風寨の劉高などどうでもよいが、この青州府にまで攻め込まれては困る。ここは秦明を急いで討伐に向かわせるのが得策だ。

 慕容彦達は覗き込むように秦明の目を見る。

「もちろんです慕容知府さま。今晩中に準備をし、明日の朝一番に向かいましょう」

 慕容彦達は笑みを浮かべる。

「任せたぞ、秦統制。必要なものがあれば、何でも言うが良い」

 ははっ、と頭を下げる秦明に背を向け、慕容彦達は執務室へと戻った。

 顔を上げた秦明は奥歯を固く噛みしめていた。

 黄信の奴め、不甲斐ない。

 この青州に赴任して黄信に会った。

 黄信は前の赴任先で山賊の勢力を三つほど平定させており、鎮三山ともてはやされていた。そして黄信も少し天狗になっているようなところがあったのだ。

 上には上がいると気付いて欲しかった。秦明は調練の時に、黄信を徹底的に打ちのめした。

 もともと実力はある武人なのだ。しかしこれで折れるようならば、それまでの男だ、と秦明は思っていた。

 その日の仕事を終え、秦明は帰宅した。月明かりの下、黄信が門の前にいた。調練でできた傷の治療もしていなかった。拱手したまま黄信はそこで待っていたのだろう。

「秦明どの、昼間はありがとうございました」

 黄信は開口一番、そう言った。

「礼を言われる覚えはない」

 秦明は素っ気なく門をくぐろうとした。

「思い知りました。自分は井の中の蛙(かわず)だったのだと」

 そうか、と秦明は微笑んだ。

 それから黄信とは師弟のような関係になった。黄信はめきめきと腕を上げ、兵馬都監にまでなった。

 顔を合わせる事もなくなったが、黄信はよく青州の治安を守っていると耳にする事が多かった。鎮三山の名に恥じない成長を果たした黄信に、秦明も誇らしい気持ちであった。

 清風山か。

 秦明は、怒りを抑えようと静かに息を吐いた。黄信をも手こずらせるとは、大した奴らだ。

「出陣の準備をせよ」

 配下に告げた秦明の顔は、少し笑っているようであった。

 

 青州城外に兵たちが隊伍を組んで整列していた。

 冬の早朝、人も馬も口からは白い息を吐いている。

 騎兵百、歩兵四百、総勢五百の精鋭である。

 武装した秦明が馬に乗り、門から出てきた。

 おお、と思わず感嘆の声を慕容彦達が漏らした。

 まさに威風堂々。赤い房のついた兜をかぶり、着込んだ鎧は朝日を照り返している。そしてその手には異形の武器が握られていた。

 狼牙棒(ろうがぼう)。長柄の武器で、棒の先に瓜のような鉄塊が据え付けられ、それに鋭い棘(とげ)がびっしりと生えている。

 扱うには相当の腕力と技術が必要となるが、攻撃力は一目瞭然。喰らいついたら離さない、まさに狼の牙のような武器である。

 秦明は馬を止め、ゆっくりと一同を見まわす。

「ものども、出陣だ」

 秦明の号令が、冬の晴天に霹靂のように轟いた。

 それに応えるように兵たちが、おお、と武器を上げ雄叫びをあげる。

 秦明を先頭に隊伍はまっすぐ南を目指した。清風寨は東南にあたるが、そちらには向かわない。黄信が防備を固めているだろうし、目的はあくまでも清風山なのだ。

 途中さしたる事もなく、秦明軍は清風山から約十里の位置に陣を敷いた。斥候を放ち、兵たちに食事を取らせ、十分な準備をさせた。明日の朝、いよいよ攻撃だ。

 負ける訳にはいかない。

 闇に消えつつある清風山を遠目に見やり、秦明は胸の高鳴りを覚えていた。

 

 号砲を合図に軍が動き出した。清風山の山影が近づいてくる。

 やがて開(ひら)けた地形に入り、秦明は陣形を広げた。軍鼓を打ち鳴らさせると、清風山の方向からも何か聞こえてきた。

 来るぞ、と秦明は兵に向けて叫んだ。

 一隊の人馬が銅鑼や鐘を鳴らし、飛び出してきた。それを見て秦明は驚いた。

 なんと先頭で馬を駆っている男は清風寨の副知寨、花栄ではないか。

 やはり謀反を起こしたというのは本当だったのか。

「花栄、貴様は武門の家に生まれながら、何が不満で賊と手を結び、あまつさえ朝廷に背くのだ。今日、わしは貴様を捕らえに来た。道理が分かるのならば、おとなしく縄にかかるのだ」

 秦明の怒声が一帯に響き渡る。

 花栄は涼しい顔で、手にした槍を上げ秦明に礼をした。

「秦統制、どうして私がすすんで朝廷に背きましょうか。このたびの件は、正知寨である劉高があらぬ事をでっちあげ、公(おおやけ)ごとにかこつけて私怨を晴らそうとした事が原因なのです。どうかご明察のほどを」

「考えるまでもない、覚悟せよ花栄」

 秦明はひと声吠えると頭上で狼牙棒を旋回させ、馬を走らせた。花栄も話し合いの余地はないと見て、馬を進めた。手には銀の槍が光っている。

 互いの距離が迫り、間合いに入った。狼牙棒が唸りを上げ花栄に襲いかかる。幾十もの餓えた狼の牙が迫ってくるようだ。花栄は狼牙棒に槍を合わせ、力を受け流すようにそれを避けた。

 勢いあまって馬上で体勢を崩した隙を見逃さず、秦明に刺突を放った。

 しかし秦明は力任せに狼牙棒を引きもどすと、それらをすべて弾き返した。何十斤はあろうかという得物を軽々と操るその膂力に、花栄は素直に感嘆した。

 だがやはり速さでは花栄の槍が数瞬だけ勝(まさ)っているようだ。気合とともに花栄は槍を放つ。そのたびに槍の穂先が日の光を反射し、きらきらと雪が待っているようだった。その様子に官兵たちも目を奪われていた。

 秦明は防戦一方になっていたが形勢を立て直すため、おお、と雷のような気合を発した。

 一瞬だけ、一瞬だけ花栄の騎馬がそ秦明の雄叫びに首をすくませ、花栄の手が乱れた。

 秦明はそれを見逃さなかった。振り回す攻撃から手を変え、狼牙棒を突いた。花栄は槍でいなすことができず、かろうじて身をかわすと馬を反転させ、間を開けた。

 花栄と秦明、双方の兵たちもこの戦いを息をのんで見守っていた。共に一流の武芸者同士。どちらが強いのか、と兵たちの話題になることも多かった。それがはからずもここで見られるとは。

 四、五十合は打ちあっただろうか。互いに傷を負わせることもなく、今は馬上で呼吸を整えている。

 あまりに力が拮抗しているのだろう。しかしどれも当たれば致命傷になってしまうほどの一撃なのだ。

 弓の腕は一流とは知っていたが、槍もこれほどとは。

 秦明は知らず笑っていた。

「花栄よ、それほどの腕を持ちながら賊に堕するとは。殺すには惜しい、おとなしく縛(ばく)につくのだ」

 秦明が叫び、突進してゆく。

 それに花栄がにっこりと笑って答えた。

「断る」

 言うや手綱を引き、馬を反転させると花栄は逃げ出した。

「決着をつけずに逃げるのか」

 秦明は顔を赤くしてそれを追った。花栄の馬は細い小路へと入ってゆく。秦明は懸命に馬を飛ばすが追いつけない。逃げられてしまうのか。

 そう思った時だ、花栄が槍を鞍の了事環(りょうじかん)に置いた。そして弓と矢を手にすると、半身をひねって秦明に向けて矢をつがえた。

 秦明が構える間もなく矢が放たれた。

 矢は秦明の頭めがけて真っすぐに飛んできた。

 秦明は頭が後ろに飛ばされたような衝撃を感じた。

 死んだ。

 秦明はそう思った。

 しかし違った。射抜かれたのは兜の赤い房だった。

 揺れる馬上で後ろ向きになりながら、しかも動いている敵の兜の房を正確に狙うとは。

 秦明は落ちている兜を見て、花栄の恐ろしさを思い知った。

 その間に、花栄はどこかへ消えてしまっていた。

 狙おうと思えば、額を射抜けたのだ。冷や汗をかく秦明だったが、それと同時に怒りが首をもたげてきた。

 手加減をされたという事なのか。なぜ、ひと思いに殺さなかった。

 その恥辱に秦明は怒った。

 花栄に対する怒りなのか、自分に対する怒りなのか、秦明自身も分らなかった。

 冬の静寂を破るように、秦明の雄叫びだけが清風山に木霊(こだま)していた。

 

 清風山の山賊たちが刃を交えることなく、逃げてゆく。

 花栄を取り逃がした秦明は兵たちの元へ戻ると、賊を追うように命じた。

 歩兵を先頭にいくつか峰を越えた。

 突如、喚声が起こり山の上方から大きな石や丸太、さらに目つぶしの灰などが落とされてきた。

「この雷野郎。とっととやられちまえ」

 などと山賊たちから侮辱の言葉を浴びせられ、秦明の頭に血が上るがいかんせん手を出すことができない。退却を命じたがすでに先頭の四、五十人がやられてしまった。

 一旦山を下り、ほかの道を探す。そこへ西の山に敵が現れたとの物見の報告。急いで駆けつけるが、すでに敵の姿は消えていた。

 秦明の苛立ちは募るばかりだ。

 今度は東の山に現れた。しかし駆けつけた時には、またしても影も形もなくなっていた。

 落ち着け、これは敵の陽動作戦だ、と言い聞かせる秦明。

 すでに太陽は中天を越えている。さらに同じ事が何度かあり、秦明は冷静な判断ができなくなっていた。

「おりて来い山賊ども。正々堂々と勝負しろ」

 清風山中に響き渡るその声は霹靂そのものだった。

 しかし鼠一匹出てくることはない。山賊に正々堂々勝負しろなどと笑い話でしかないのだ。

 苛立ちの募る秦明はぎりぎりと奥歯を噛みしめていた。奥歯が砕けてしまうのではないかというくらい強く噛みしめていた。

 日が暮れてゆく。時間がない。

 そこへ配下の兵が注進に来た。東南の方に抜け道を見つけたというのだ。

 最後の望みをかけ、秦明はそこへ急いだ。しかし奮起する秦明に対し、兵たちも馬もすっかり疲れはてていた。

 秦明は兵たちにしばし休息を与えようとした。しかし突然、山中に無数の明かりが灯った。

 夜襲か。

 秦明は五十ほどの兵を連れ、山を駆けのぼる。そこへ矢の雨が降ってきた。秦明はまたも退却せざるを得なかった。

 しかし、また兵たちに食事をさせようとすると、また山賊が現れる。追っては消える。それの繰り返しだった。

 山賊どもなど簡単に陥とせると踏んでいた。

 秦明は自分自身にも怒っていた。怒りのやり場もなく秦明は単騎で山へ近づいた。

 ふと山中から鼓笛の音(ね)が聞こえた。静かに近づき見上げると、そこで二人の男が酒を飲んでいた。一人は役人風の小男、もう一人は花栄であった。

「この逆賊め、おりてきて勝負しろ」

 鼓笛を聞きながら優雅に酒を飲んでいる花栄を見て秦明はかっとなった。ここは戦場なのだ、宴の場なのではないのだ。

 おや、という顔で花栄が秦明を見た。杯を上げ、にっこりと微笑む。

「秦明どの、あなたはお疲れだ。ここで私が勝っても自慢にはならないでしょう。明日にでもまたおいでください」

「貴様、わしを愚弄するのか」

 吼え猛る秦明。花栄は悠々と酒を飲んで動こうとしない。

 しかし秦明も動けなかった。先刻の花栄の弓の腕を思い出すと不用意に近づく事はできない。

 おりてこい、と秦明が叫んでいると麓が騒がしくなった。

「今度は逃げるなよ、花栄」

 と秦明は馬首を転じた。

 松明が入り乱れている。悲鳴と剣戟の音が聞こえる。

 山賊が兵たちを襲っていた。

 何度も夜襲の構えがあった。しかし構えだけで、もう無いと思っていた。

 兵たちが窪地に追い込まれてゆく。

 地面が振動した。兵たちに向けて、鉄砲水が襲いかかった。その窪地は川だったのだろう。上流で堰き止めていたものを解き放ったのだ。

 兵たちの悲鳴が濁流に飲み込まれてゆく。残った兵たちも山賊に捕縛されてしまった。

 おお、と空気を震わす大声をあげ、秦明は花栄の元へ駆けた。

 ふいに馬の足もとが消えた。

 落とし穴、か。

 花栄の顔が遠くに見えた。なんだか申し訳なさそうな顔をしていたような気がした。

 暗闇に落ちながら秦明は思った。

 すべては奴の、花栄の掌(てのひら)の上だったという訳か。

 そして秦明の意識も闇の底へと落ちた。

 

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