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疑心

 

兵も馬も白い息を吐いていた。

 無言の行軍は四十里ほど続いた。目の前に欝蒼とした森が現れる。

 風が木々を揺らし、葉のざわめきがまるで人間の囁き声のように聞こえた。

「誰かあそこにいるんじゃないか」

 誰かが言った言葉に、兵たちは一斉に足を止めた。

 む、と黄信は馬首を返し兵たちに命じる。

「何をしておる。止まるな、進め」

 ですが、と言う兵たちを黄信は叱咤した。

「何を恐れている。怖いと思うから、いもしない物を見るのだ。大丈夫だ、お前らは青州の精鋭ではないか」

 進め、という黄信の号令にやっとの事で足を動かす兵たち。

 森に差し掛かり、風が一度強く吹いた。樹上の雪があたりに舞い、一瞬吹雪のようになった。

 それが収まり視界が晴れた時、劉高は悲鳴を上げた。いつの間にか数百の人影に取り囲まれていたのだ。

「慌てるな、陣を組め」

 黄信は一人、馬を進めた。

 山賊か。四、五百はいるか。喪門剣を持つ手に力が入る。

「ここは俺たちの土地だ。通り賃を置いていってもらおう」

 一団の中から三騎が前に出てきた。中央の男が低く、腹に響く声で告げた。

 黄信が剣を握りなおした。

「ふざけるな。ここは天下の往来だ。お前らに金を置いていく道理など無いわ」

 向かって右にいる小男が笑っている。

「知らねぇのかい。無理が通れば、道理は引っ込むんだぜ」

 続いて、左の色白の男が言う。

「俺たちが欲しいのは金ではない。お前が護送している、その御仁だ」

 やれ、という号令と共に山賊たちが官兵たちに襲いかかった。

「怯むな、応戦しろ」

 と黄信は檄を飛ばすが、いかんせん兵数に差があり過ぎた。しかも兵たちはすっかり怯えきっており、半数は武器を捨てて逃げ出す始末であった。

「あんたは俺たちが相手だ」

 先ほどの三騎が黄信を取り囲む。

「貴様らは清風山の山賊か」

 黄信がいななく馬を制しながら体制を整える。

 小男が、体格の良い男と色白の男をそれぞれ指して叫んだ。

「そうだ、これが清風山の頭領、燕順の兄貴だ。そしてこっちが鄭天寿だ」

 そしてこの俺が、と小男は馬を駆る。短い足で器用なものだ、と黄信は思った。

「王英さまよ」

 王英の槍が黄信を襲う。黄信の喪門剣がそれをいなし、王英に斬りかかる。だがそれは鄭天寿の刀に遮られた。さらに横から燕順が襲いかかる。

「小癪な、山賊どもめ。劉高どの、護送車を」

 そう叫び、黄信は喪門剣を大きく薙ぎ払い、手綱を操り三人と距離を置いた。

「鎮三山の名は伊達ではないようだな」

 燕順が黄信に刀の先を向ける。

 一対一ならば負ける気はしないが、三対一では厳しいか。一月の寒空の中、額から頬に流れる汗が鬱陶しい。

「黄信さま、護送車が」

 兵の叫びに振り返ると、自由の身になった花栄が刀を手に官兵たちを斬り伏せていた。

 燕順らの手下が、今度は宋江の護送車に取り付いて壊そうとしている。

「劉高どの」

 黄信が叫ぶが、当の劉高は歯をがちがちと鳴らしながら馬上で震えるばかりだ。

 寒さではない、恐怖で、だ。

「劉高どの」

 黄信の叫びに、やっと我に返った劉高。なんとか手綱を握るが、手が震え上手く操ることができない。

 劉高の馬前に山賊たちが飛び出してゆく。驚いた馬は竿立ちになり、劉高は悲鳴とともに背中から落馬してしまった。

 その隙を逃さず、山賊たちは劉高に縄をかけ森の中へと連れ去ってしまった。

 ぐ、と黄信が歯噛みをし見回すが、すでに負けは濃厚である。己一人でどうこうできる状況ではなかった。

 護送車が壊され、宋江が山賊に支えられながら地に降り立った。

 花栄が駆けより、裸の上半身に着物をかけてやる。ありがとう、と震える声で宋江は礼を言った。

「山賊ども、首を洗って待っておれ」

 黄信は馬を返し、清風寨への道を駆け戻った。清風山の手下が追おうとするが、燕順はそれを制した。官兵たちも逃げた黄信を見て、散り散りになってしまった。

「放っておけ。宋江どのを清風山へ」

 燕順はそう言って、宋江の元へ駆け寄った。王英、鄭天寿も後ろにいる。

「大事(だいじ)ありませんか、宋江どの」

 寒さと疲労のせいか青白い顔の宋江が三人に礼を述べる。

「こちらは花栄と申します。私とは昔馴染みで、清風寨の副知寨をしています」

 知寨と聞き、どよめきが起こる。花栄は燕順の目を見据えて言った。

「それはすでに過去の話だ、官職などいらぬ。お主らと同じ、流浪の身だ」

 そして燕順らに拱手をする。

「宋江の兄弟を救ってくれた事、この花栄、心から感謝いたす」

 気持ちの良い男だ、と燕順は笑みを浮かべた。

 とり急ぎ、一行は清風山へと戻った。降伏した兵は捕虜とし、劉高には猿轡(さるぐつわ)をかませている。

 寨に着くと宋江は安心したのか、気を失うように眠りについてしまった。

 火にあたり、酒を飲みながら燕順が説明してくれた。

 宋江を清風寨へ送り出したものの、心配だった燕順らは終始、その動向を報告させていたのだという。以前から清風寨には密偵を潜り込ませており、その中には花栄が知る顔もあった。

 これでは清風山を落せるはずもなかったのだ。情報は何もかも筒抜けだったという訳だ。 

 花栄は改めて自分の不甲斐なさを笑い、酒を呷った。しかしそのおかげで宋江の命も、自分の命も救われたのだ。皮肉なものだ。

 燕順は、清風寨にいる花栄の家族も密偵に命じて保護させると約束してくれた。

 豪快でありながら義に厚く、この気遣いの早さ。花栄はどうしても劉高と比べてしまう。清風山だけに留まるには惜しい男だと思ってしまった。

 そこへ劉高が引き立てられてきた。冷や汗をだらだらと流し、猿轡で言葉にならない言葉を呻いている。

「劉高、貴様のせいで」

 花栄は山賊の刀を奪うと劉高に突きつけた。積年の恨みがこみ上げてくる。柄を握る手に力が入る。

 劉高に向けて一歩踏み出した時だ。

 別の刀が劉高の胸に深々と突き刺さった。

 くぐもった叫びを上げる劉高。猿轡がみるみる紅く染まってゆく。

 燕順だった。

 燕順は刀を引き下げると劉高の腹部を切り開いた。

 劉高がびくびくと痙攣している。

「あんたが手を汚すことはない、花栄どの。宋江どのが起きていなくて良かった。あの人は、きっと止めるだろうからな」

 刀を振るって血を落とす燕順。

「今日こそ、肝吸いにありつけそうだ」

 燕順はそう笑うと、手下に劉高の処理を任せ、床几へと戻った。

「兄貴、こないだの女は俺に任せてくれよな。今度は駄目とは言わせねぇぜ」

 一同が、どっと笑う。

 好きにしろ、と燕順が笑う。

 困った奴だ、という表情の鄭天寿。

 ほどなくして肝吸いが運ばれてきた。

 花栄の前にも、それが置かれた。

 やはりここは山賊の寨なのだ、と花栄は改めて思うのだった。

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