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神箭

 花栄の屋敷を二百ほどの軍勢が囲んでいた。

 劉高の命令で来たのだ。

 劉高は、花栄が去ってからしばらくして、やっと奥の間から這うようにして現れた。額には大粒の汗。

 花栄め、副知寨の分際でふざけおって。土足で屋敷に乗り込み、あまつさえ山賊まで奪ってゆくとは。

 しかしこれで、奴も山賊に組みしていることがはっきりした。普段からわしに盾つくのが気にいらなかったのだ。だがこれですっきりするわ。

 奥の間で隠れながら震えていた事はおくびにも出さず、劉高は兵たちに命じたのである。

 花栄および山賊の鄆城虎をひっ捕らえよ、と。

 先頭に立つ二人の軍人はどこか不安げな表情であった。

 この二名、新しく赴任してきた教頭であった。だからこそ花栄の実力のほどを嫌というほど知っていたのだ。他の兵とて同じであった。劉高の命令だから逆らう訳にもいかず、しかし花栄の腕を恐れ、誰一人先陣を切る者はいなかった。

 花栄の屋敷の門は開け放たれており、門番もいない。門神の塑像だけが一同を見下ろしている。しかし兵たちは動く事ができず、そうする内にやがて夜が明けてしまった。

 場が一瞬で緊張した。

 門の向こう、正面に花栄が現れたのだ。

 左手に弓を持ち、右手に矢を持っている。矢は三本だけのようであった。

 ざわつく兵たち。教頭の一人が意を決して、足を踏み出そうとした時だ。

「兵たちよ」

 花栄が大声で呼ばった。

 二百もの兵たちがびくっと体を震わせた。

「劉高の命令で来たのだろうが、あの男に忠義だてする事はやめておけ。これを見て、それでも命が惜しくないのならば、乗り込んで来い」

 花栄が弓に矢をつがえた。兵たちが一斉に一歩後ろへ下がる。

「まずは左の門神の杖の先」

 花栄の気合とともに矢が放たれた。

 ひょう、と空気を切り裂き、矢は狙い違わず門神の持つ金剛杖の先端に命中した。

 おお、と畏怖と敬意が入り混じった声が漏れた。

 二の矢は右の門神の兜の房。赤い房のど真ん中に矢が突き刺さる。

 どよめきはさらに大きくなる。

 狙いの精度もさることながら、射るまでの時間が早いのだ。

 じっくりと狙いを定め、的を射抜く事は弓に長けた者ならばできるだろう。しかし花栄は放つまでの時間が圧倒的に短かった。

 矢をつがえ、弓を引き絞り、放つ。

 書き損じた手紙を屑かごへ放り投げるのと同じような気軽さでその動作をおこない、そして確実に当ててしまうのだ。

 それが神業と呼ばれる所以(ゆえん)でもあるのだ。

 そして花栄は三本目の矢をつがえて言う。

「最後は、白衣をまとった先頭の教頭の鳩尾だ」

 わあ、という悲鳴と共に教頭が背を向け逃げ出した。それを合図に兵たちも一散に逃げ出してしまった。

 花栄は微笑むと、弓と矢を下ろし、屋敷へと戻った。

「私がへまをしたばかりにお前を巻き込んでしまった。本当にすまない、花栄」

 手当をされ、少し回復した宋江が頭を下げて言った。

「俺はどうということはないさ。この地位に未練はない。とことんまでやり合うつもりさ。しかし、劉高の妻とどういう関係があったのだ」

 宋江は花栄にその経緯を語った。

 清風山の山賊たちに捕まり、危うく殺されかけたが解放された事。そして同じく捕らわれてきた女を、説得して解放させた事。

 そして宋江は山賊と関係した事で、花栄に迷惑がかかると思いそれを黙っていたことを詫びた。

 しかし花栄は、劉高の妻め、助けられた恩を仇で返すとは、とさらに憤ってしまった。

 宋江は花栄をなだめつつ、提案をする。

「救い出してくれた事には感謝している。あのまま山賊の首魁とされていたら死罪は免れなかっただろう。しかし、劉高もこのままではすむまい。州に訴えられでもしたらお前もただではすまないだろう。これ以上、迷惑はかけられん」

 ならばどうする、と腕を組む花栄。

「清風山へ、行く」

 と宋江は言った。証拠である自分は姿を隠すから、あとは知寨同士の仲違いが元で、こうなった事にしてしまうのだ、と。

 なるほど、と花栄は唸った。

 そして夕方、宋江は清風寨を出た。満足に歩ける状態ではなかったが、膏薬をあるだけ塗りつけ包帯を巻くと、二人の兵と共に道を急いだ。

 花栄は宋江を見送ると、闇に没してゆく清風山の山影をじっと見つめていた。

 

 翌朝のことである。花栄の屋敷に訪問者があった。

 花栄は門番から、その男は青州の兵馬都監と名乗っていると聞き、慌てて迎えに飛び出した。

「これは黄信(こうしん)どの、このようなむさい所へわざわざお越しいただくとは。一体、何事でございますか」

 花栄が挨拶をし、黄信と呼ばれた兵馬都監も馬を下りて花栄に挨拶を返した。

「うむ、知府さまの命で参いりました。何でも、この清風寨の文武両官の仲が良くなく、有事の際の公務に支障をきたしては困ると、知府さまはお考えであられる」

 花栄は黙っている。

「そこでだ、二人のわだかまりを解くために酒宴を設けよと、知府さまから直々に酒肴を預かっている。本寨にて準備を整えておるから、花栄どの、これからおいでいただきたいのだが」

 花栄は苦笑いをしながら言った。

「誠に恐れ多いことです。私は劉高どのを軽んじている訳ではないのです。向こうが私の粗(あら)を探そうと躍起になっているのでして。知府さまにまでご心配をかけるとは、お恥ずかしい限りです」

 黄信は花栄の側に寄って、そっと口添えした。

「なに、知府さまはあなたの事を気にかけておられるのです。賊の襲撃や、反乱が起きても文官など何の役にも立ちませんからな。ここはひとつ私に従ってほしいのです」

 同じ武官である黄信にそうなだめられ、花栄は馬に乗った。

 この黄信という男、喪門剣の使い手であった。

 黄信は青州の前の任地で、その地を荒らし回っていた山賊たちをことごとく平らげてしまった。その地域の強大な三つの勢力の山賊を平定した事から鎮三山(ちんさんざん)と渾名されるようになったという。そして兵馬都監になってからも、その威をもって青州を鎮めていたのである。

 しかしこの青州では清風山の賊が力をつけてきていた。さらに他州から賊が流入し、それぞれ二竜山、桃花山と名乗って治安を脅かしつつある。

 そこで黄信は、鎮三山の名に恥じぬよう、今度はこの三山を平定してみせると豪語していたのである。

「花栄どの、清風山の賊どもに不穏な動きはありませぬか」

 本寨へと向かう途中、黄信はそう聞いてきた。

 花栄は、ええ近頃はおとなしいものです、と答えたが、内心では冷や汗をかきながら宋江の事を思い浮かべていた。

 すぐに本寨に着き、劉高が二人を出迎えた。

 黄信がいるためか、いつもの偉そうな表情は微塵も見えない。己よりも偉い者に対し、媚びへつらう態度に苛立ちを覚えながらも、花栄は広間へと案内されてゆく。

 酒食を運んだ給仕たちが広間に張られた幕の外へと下がっていき、本寨の扉が閉ざされ三人だけの宴となった。

 黄信が杯を上げ、劉高と花栄を交互に見やる。

「このたびは知府さまからお二人の調停役を仰せつかった。今後とも朝廷への忠義を胸に、お二人で力を合わせていただきたい」

 劉高はその杯を受け、飲み干した。

「この私いささか不才とは申せ、物事の道理はわきまえているつもり。我らは別段、いがみ合っている訳ではございません。どこぞの余人の風説にすぎません」

 それならば結構、と黄信が笑う。次いで、花栄にも杯をすすめる。

「まあ、劉知寨の言うように、暇な者の妄言が元であったのでしょう」

 それを受け、花栄も飲み干した。

「このような席まで設けていただき、誠に恐縮です」

 それを聞き、黄信が卓に杯を置いた時である。幕の向こうから武器を持った兵たちが喚声と共に現れた。その数およそ四、五十であろうか。

 驚く花栄を尻目に劉高は泰然としていた。

 謀られた、と花栄が気づいた時にはもう遅かった。花栄はすでに取り押さえられ、黄信の命令で縄をかけられてしまったのだ。

「一体どういう事です、黄信どの」

 黄信は花栄に向かって怒鳴った。

「しらを切るつもりか。清風山の賊と通じておきながら、どういう事だ、とは。同じ武官の身ゆえ面子を立てて、家族を驚かす事だけは勘弁してやったというのに」

 劉高はにやにやと花栄を見ている。

 花栄はそれでも、知らぬ、の一点張りだ。

 そこで黄信が合図をした。部下の兵が奥から何者かを引っ立ててきた。その護送車に入れられた男は顔と手だけを出し、こちらを見ていた。

 男と目が合い花栄は声を上げた。

 それは昨日、別れたばかりの宋江であったのだ。

 清風山に落ち伸びたとばかり思っていたが、どうして捕らえられてしまったのか。

「これでもしらを切るのか、花栄。清風山の賊魁、鄆城虎の張三はここに、そして証人の劉高どのもここにいるのだ。見苦しい真似はやめるのだ」

 兵に取り押さえられ喘ぐ花栄を、劉高は蛇のような目でじっと見ていた。

 

 花栄の元に送り込んだ兵たちがおめおめと逃げ帰ってくると、花栄を恐れ震えながら隠れていた事を棚に上げ、劉高は怒鳴り声を上げた。

 そして、どうしたものかと腕を組んだ。

 少しの間、目を閉じて、劉高は思い至った。あの男は清風山に戻るに違いない、と。

 早速、兵たちに命じ、清風山への道を先回りさせた。

 数刻後、兵たちが戻り、報告を聞いた劉高は歪んだ笑みを浮かべた。劉高の予感が当たったのだ。

 待ち伏せた兵たちは、足の負傷をおして歩く宋江を見つけると、難なく縄をかけたのだ。

 劉高からの危急の報告を受けた青州知府は何度も上申書を読み返した。

 この知府、名は慕容彦達(ぼようげんたつ)。現皇帝、徽宗の妃である慕容貴妃の兄であった。

 慕容彦達は妹の権勢を笠に、自分の言う事を聞かない者は、たとえ僚友でも追放するなど好き放題をしていた。それゆえ敵も多く、またその事が疑り深い性格に拍車をかけるようになっていったのである。

 花栄の父と言えば忠臣として名高い男だった。自分にも何度も諌言(かんげん)をしてきたので、追い払おうとしたが周りの人間の信望が厚く、ついにそれができなかった。

 息子の花栄も負けず劣らず弓の腕が一流と聞いている。

 まさか、その花栄が謀叛だと。

 事の真相を確かめるべく、慕容彦達は兵馬都監の黄信に命令を下したのだ。

 そして劉高の元にやって来た黄信は、宋江を護送車に押し込め、花栄を捕縛する策を考えたのであった。

「いいだろう。この花栄、腹に二心などあるはずもない。立派に申し開きしてみせよう」

 捕縛したとはいえ、黄信も花栄の武勇には敬意を抱いている。まして同じ武官の身、官服剥奪は見逃し、護送車に乗せる事にした。

「すまない、花栄」

 と宋江は涙を浮かべている。花栄は、大丈夫だ、というような顔をしてみせた。

 百人近い兵たちに取り囲まれ、二人を乗せた護送車は青州府へと動き出した。

 風に巻き上げられた雪が、ちらちらと舞っていた。

 

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