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絶技

 徐寧は不機嫌そうな顔をしていた。

 普段でも険しく見える顔が、さらに険しさを増していた。

 朝が早かったせいではない。帝の行幸に同行しなければならなかったからだ。もちろん、そんな事は口が裂けても言える事ではないが。

 帝の護衛と言えば聞こえは良いが、徐寧にとっては退屈な事だった。

 護衛ならば他にもいるではないか。この時間があれば、金鎗班をもっと鍛える事ができるのに。そう思いながらも徐寧は棒を手に、じっと耐えるしかなかった。

 帝が蹴鞠に興じる声が聞こえてくる。

 冬にしては心地よい陽気だった。徐寧は思わず欠伸をしそうになったが、何とかそれを噛み殺した。

「おい、そこの。なんだその態度は。帝の御前であらせられるぞ」

 帝がいる庭から出てきた小男が怒鳴ってきた。白粉(おしろい)を顔に塗っていた。宦官だろうか。

 楊戩さまお待ちください、と脇にいた文官がなだめた。

 あれが楊戩か。確かによく聞く名だった。あまり良い噂ではなかったが。

 楊戩は文官が止めるのも聞かず、こちらへと歩いてきた。

 なにを騒いでいるのか、と思いながら徐寧は正面を見続けていた。

「知らぬ顔をするでない。お前だ、お前の事だよ」

 楊戩がぴたりと指を突きつけた相手は、徐寧だった。

 徐寧は驚いた。俺の事を言っていたのか。俺が、何をしたというのだ。

「ふん、驚いたか。見ていたのだぞ。さっき、欠伸をしていただろう」

 ぴくりと徐寧が眉を動かした。確かに、してはいないとは言えなかった。己にも隙があったのは認める。しかし楊戩のもの言いが、徐寧の癇に障った。

「おい、こいつの名は何という」

 楊戩が側の文官に聞いた。

「はい、禁軍は金鎗班教頭を務める徐寧という者です。槍を握らせれば並び出る者なしで、金鎗手と讃えられるほどの使い手で」

「そんな事まで聞いていない」

 ぴしゃりと楊戩が言葉を遮った。

「なるほど金鎗手か。大層な渾名だが、職務中に欠伸とはな。なるほど、こんな事は退屈過ぎるという訳か。まったく、王進といい林冲といい、禁軍には碌な連中がおらんな」

 徐寧は口を固く結び、じっと立っている。

 楊戩の顔が近づく。白粉の匂いが鼻についた。

「お前らは、我らの言う事を聞いて棒を振り回していれば良いのだ。分かったら、気合を入れて突っ立っておれ」

 そう言って楊戩が背を向けた。

 徐寧は目を瞑り、持っていた棒を固く握りしめた。

 次の瞬間、徐寧は棒を振り上げ、楊戩の頭を打ち砕いた。

 はっとして徐寧は目を開けた。

 楊戩がぶつぶつ言いながら去っていくところであった。棒は握られたままであった。

 打ち砕いたのは、徐寧の妄想だった。だが、どこかにそうしてしまいたいという思いがあった。

 楊戩の言葉が何度も繰り返し思い出された。

 王進も林冲も禁軍から去った。

 それは、誰のせいだ。

 徐寧は大きく息を吐き、空を見上げた。雲がゆっくりと流れていた。

 耐えねばならぬ。妻のため、息子のため、先祖のため。

 冬の空は、嫌になるほど抜けるような青さだった。

 

 徐寧ががくりと地面に膝をついた。

「馬鹿な。賽唐猊が盗まれた、だと」

 徐寧が家に戻った時、妻が涙ながらに訴えてきた。

 あの鎧は先祖四代に渡って伝えられてきたのだ。

 王都尉に三万貫で買おうと持ちかけられた時でさえ、売りはしなかった。

 見せてくれという者が多いので、無いと断り、梁に括りつけておいたのだ。誰かがその事を知っていたというのか。無いと言っている手前、大っぴらに騒ぎ立てる訳にもいかぬ。

 自分で自分の首を絞めるとは。徐寧は、やり場のない怒りに、歯を食いしばるしかなかった。

 しばしの後、徐寧はやっとの事で立ち上がると、ふらふらと寝室へと向かった。

 あなた、と声をかけてくる妻にも応えず、虚ろな目つきだ。寝室に入り、徐寧は梁を見上げた。

 やはり、無い。そこにあるはずの、賽唐猊の入った箱が無い。

 怒りとも悲しみともつかぬ表情で、徐寧はばったりと寝台に倒れ込んだ。

「あなた、大丈夫ですか」

 妻の声も届かず、徐寧は意識の底へと沈んでいった。

 昨夜はうなされていたようだ。

 覚えてはいないが、何かひどく悪い夢を見たような気がする。しかし賽唐猊が盗まれたという現実こそが悪夢のようだった。

 徐寧は顔を洗ったが、なんだか鬱々としたままだった。朝飯も喉を通らず、目はどこか遠くを見ていた。

 そんな折、客が訪ねてきた。

 いまは誰かに会う気持ちではないと断ろうとしたのだが、その客の名を聞き徐寧は腰を上げた。

「これは、お久しゅうございます。お変わりありませんか、従兄(にい)さん」

「おお、本当に久しぶりだな、湯隆。叔父さんが亡くなられたと聞いてはいたのだが、なにぶん開封府を離れる訳にもいかず、お悔やみにも行けずじまいだった。するうち、お前の消息も分からなくなってしまっていたのだ。会えて良かった。しかし、これまでいったいどこで何をしていたのだ」

 立ち話も何だから、と言い徐寧は湯隆を客間へと通した。先ほどまでの憂い顔も少しは明るくなったようで、徐寧の妻は少しほっとしているようだった。

 湯隆がこれまでの経緯を語り、徐寧が労いの言葉をかける。

 湯隆が昔話に花を咲かせる。徐寧は笑いながら話すものの、時おり顔に暗い翳がよぎる。それを見てとった湯隆は心配そうに尋ねた。

「従兄さん、どうも浮かない顔だが、なにか心配事でもあるんですかい」

 湯隆の言葉に、はっとする徐寧。少し言い淀んだが、意を決したように口を開いた。

 家宝の伝来の鎧、賽唐猊が何者かに盗まれた。徐寧は沈痛な面持ちでそう言った。

「あの甲(よろい)をですと。一度見せてもらった時、二つとは無い鎧だと感動した覚えがあります。しかし一体誰が」

 思い出し、怒りが湧いて来たのか、徐寧の顔が紅潮した。

「賽唐猊は革箱に入れて梁に括りつけ、誰の目にも見せないようにしていたのだ。それをどうやって盗ったというのだ」

「革の箱ですって」

 湯隆が徐寧の言葉を遮るように言った。湯隆は考えるように、あご髯(ひげ)を擦(さす)る仕草をした。

「ひとつ聞きますが、その箱はどんな箱でしたか」

「羊の革を張っており、赤い色の箱だ」

 湯隆が身を乗り出し、徐寧がその勢いに少し体を引いた。

「そいつはもしかして、箱の上の方に白い雲と緑の如意の刺繍がしてあって、真ん中には毬を転がした獅子が描かれているものでは」

「まさしくその通りだ。湯隆、それをどうして」

「実は、昨日の夕べの事です」

 湯隆の話に、徐寧も身を乗り出した。

 湯隆が昨夜寄った居酒屋での事であった。ここから四十里ほどのところの店だ。その店にいた客がその箱を持っていたのを見たと言うのだ。

「痩せていたが、目つきが鋭い男でして。なんだかそいつにそぐわない造りの箱だったから覚えていたんです。去り際も見ていましたが、どうも足が悪いのか引きずっていた様子。いまから追いかければ、間に合うかもしれません」

 そうか、と徐寧はすぐに立ち上がると刀を手にした。

 驚く妻に、徐寧が声をかける。

「賽唐猊の手掛かりが見つかった。すまぬが、行ってくる。すぐに戻れるか、わからん。後の事は頼んだぞ」

 不安げな妻の顔をもう一度見て、徐寧は湯隆の後を追った。

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