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絶技

 時遷が、ある家をさりげなく眺めていた。

 高い塀に囲まれた家で、小奇麗な二階建てであった。あたりは開けており、身を隠せそうな場所は見当たらなかった。

 ふん、と鼻を鳴らし、時遷はさりげなくその場を後にした。

 出発前の聚義庁での出来事である。

 呉用が呼んでいる、と使いの者がやって来た。

「何の用だい、軍師どの」

 時遷は、呉用の前でも普段と変わらぬ態度で、退屈そうに腕を組んでいた。

「お前も知っての通り、あと半月で呼延灼軍が攻めてくる。先の高唐州戦では手痛い目にあった。それを反省し、あらゆる対策を立てなければならないのだ。相手が妖術を使おうと何だろうと、だ」

「だからって俺に何の用だよ。俺は武芸の達人でも、妖術使いでもないんだぜ」

「まずは私から話そう」

 呉用の隣にいた湯隆が訥々と話し始めた。

「呼延灼が使うと思われる戦術に対抗できる技を持つ男が、開封府にいる。徐寧というが、そいつの家には鈎鎌鎗の他に伝わっている物があるのだ」

 聞きながら、訝しそうに時遷が腕を組み続けている。

「そのある物とは鎧だ。賽唐猊という、軽くて着心地が良いのに刀も矢も通さぬという、金の鎖甲だったと思う」

「と思う、とはどういう事だい」

 時遷が少し興味を持ったようだ。

「徐寧はその賽唐猊を命と同じように大事にしていてな。噂を聞いた連中がこぞって見せてくれと頼むのだが、決して人には見せんのだ。わしも昔に一度だけ、少しだけ見た事があるきりなのだ」

 呉用が湯隆の後を引き継ぐ。

「そこでだ、時遷。その、賽唐猊を盗みだして欲しいのだ。徐寧は、盗難に対する備えは異常なほどだというが、それでもできるか」

 時遷の顔が一転、口の端を歪め、嬉しそうな顔になり身を乗り出した。

「ここしばらく、店の番ばっかりで正直暇してたんだ。おっと、失礼」

 咳ばらいをひとつして、時遷が続ける。

「そいつは確かに、そこにあるんだな、湯隆の旦那」

「ああ、そいつは徐寧の家にあるはずだ」

「だったら問題はねえ。そいつが無いならともかく、そこに在りさえすれば、俺はどんな物でも盗み出してきてみせるぜ」

 時遷を見た呉用は、目を見張った。

 誇張でも虚言でもない。

 鼓上皂と呼ばれるほどの、自身の腕への誇りなのだろう。

 胸を張り、堂々とした態度で、時遷が言い放った。

 その時のことを思い出し、時遷は苦笑した。まるで自分の腕を自慢するような事を言ってしまった。

 時遷は、呉用のどこか上からの物言いが好きではなかった。本人はそのつもりはないのだろうが、どこか鼻につく時があるのだ。今回もそうだった。だから思わず時遷は言い放ってしまったのだ。自分の腕を疑うような呉用の言い方に、むっとしてしまったのだ。

 らしくない。時遷はそう思った。

 物心がついた時から盗みをしていた。それが当たり前の生き方だった。生きるために盗んだ。

 しかし、今回は違う。自分以外の為に盗むなど、初めてではないだろうか。

 俺も甘くなったのかな。時遷は、ふと楊雄と石秀を思い出した。

 夜、時遷がふらりと城内へと戻った。軽く腹ごしらえをし、再び徐寧の家を目指す。

 ちょうど月も出ておらず暗くなったとはいえ、人目につく場所である。

 どうしたものか。

 ぴくり、と時遷の耳が動いた。誰かが来る。

 時遷は近くの土地廟に滑り込んだ。その庭にある柏の木に登り、身をひそめた。

 土を踏みしめる音が近づいてきた。闇に目を凝らし、時遷が探る。

 しゃんと背筋を伸ばした姿勢。規則正しい足の運び。そしてその男から放たれる気。あれが徐寧だろう。間違いない。

 徐寧が門に入る直前、時遷のいる方向を見た。じっと闇を凝らすように目を細めていたが、やがて気を緩め、家に入った。

 危ねえ。

 林冲と同じ禁軍の師範だったか。やはり一筋縄ではいかない男か。

 だが時遷は笑みを浮かべていた。今までならば、ここで止(や)めていただろう。命まで失う危険を冒して、盗みをすることはなかったからだ。

 俺もあんな所で、あんな連中の相手をしていたからおかしくなっちまったかな。時遷はひとりごちながらも嬉しそうな顔をしていた。そして時遷は息を殺し、柏となった。

 物見櫓の太鼓が時を告げた。人々が寝静まるまで、あと四刻といったところか。

 ゆっくりと時遷が目を開けた。するりと木から下りると、音も立てずに徐寧の家へと近づいた。裏門へ回り、難なく塀を乗り越えると、音もなく降り立った。

 そこは中庭のようだった。時遷は猫のような身のこなしで家に駆け入(い)ると、台所へと身を寄せた。女中の声が聞こえる。まだ後片付けをしているようだ。

 時遷は台所を離れ、壁際へと身を寄せた。昼間、偵察の時に目をつけていた副(そ)え柱の元へと近づく。器用に柱を伝い、二階へと上がると破風の陰に体を縮めた。

 人の気配と暖炉の火が爆(は)ぜる音。徐寧と妻、そして息子のようだ。

 時遷は耳に意識を集中させ、様子をうかがった。七、八歳くらいだろうか。徐寧は息子を膝に乗せ、談笑していた。

 気配を消し、部屋の様子を確かめてみる。部屋の入口にひと揃いの弓矢とひと振りの刀が掛けてあった。さらに奥の寝室を見る。

 む、と時遷が唸った。寝室の上の梁になにやら大きな箱のようなものが見える。暗くてはっきりとは分からぬが、やはり箱のようだ。その箱は梁に、縄などでしっかりと括りつけられているようだった。

 時遷は苦笑いを浮かべた。あんなところに箱だと。

 あれに例の鎧が入っているに違いあるまい。盗難に用心しているとは聞いていたが。これでは却って、ここにあるぞと教えているようなものではないか。ともあれ、探しだす手間は省けたわけだが。

 時遷は再び、身をひそめた。

 やがて女中が着物などを片付けに来て息子を寝室へと連れて行った。それから二刻ほどで徐寧と妻も身支度を整え、床(とこ)についた。

「陛下が竜符宮に行幸になられるので、明日は早い。日の昇らぬうちに起きねばならんが、すまぬな」

「いいえ、女中たちにも言ってありますので、お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 ふむ、と時遷が聞こえてきたその言葉を心に留(とど)めた。

 本来ならば夜中が一番仕事がやりやすい。鼓上皂とまで呼ばれる己の技を自慢するわけではないが、大抵の者には見つからぬと自負はしている。

 だが、先ほどの徐寧を、時遷は思い出していた。

 気をつけるべきなのは二つ。犬と、武芸の達人だ。

 犬は言わずもがなだが、徐寧のような武芸者は微かな気配すらも捉えてしまう事がある。やはり仕事は徐寧が出仕してからだ。

 時遷は狭い破風の裏で、器用に体を丸めた。

 

 徐寧の気配が消えた。

 時遷は焦らずに、そのままじっとしていた。

 徐寧が完全に家から出て行ったことを確認し、やっと時遷は薄目を開けた。目に入ってくる光はまだ弱かった。

 徐寧の朝飯の片付けなどをしていたのか、女中たちが階下でしばらくばたばたとしていたが、やがて静かになった。まだ夜が明け切っていないのだ。女中たちも、もう一度床へ入ったのだろう。

 時遷は待ちかねたように首を伸ばし、寝室を窺った。

 徐寧の妻も寝息を立てている。見ると卓の上に明かりが灯っていた。時遷は懐を探り、細い草のようなものを取り出した。それは蘆でできた管だった。

 破風からこっそり這い出ると、時遷は管を咥え、明かりめがけて息を吹きかけた。見事に明かりは消え、寝室を闇が覆った。

 にやりと笑った時遷は梁を伝い、賽唐猊の箱へとたどり着いた。

 音を立てぬよう細心の注意を払い、縄をゆっくりとゆっくりと緩めてゆく。ひとつがほどけると支えを失い、箱が梁から落ちそうになる。

 時遷はさっと右足を伸ばし、箱を支えた。なるほど、馬鹿にしていたが梁の上に置いていたのはこういう事か。

 並みの盗人ならば、いや結構な手練であってたも盗み出すのには骨が折れるだろう。それも、人がいない時ならばである。

 しかし今は、寝ているとはいえ、真下に人がいるのだ。

 だが時遷は、汗ひとつ浮かべることなく、笑みを浮かべていた。時遷は左足を梁に絡め、絶妙な体勢でゆっくりと、しかし素早く縄を解いてゆく。

 最後の結び目を解き、縄をそっと懐へ仕舞った。そして、自由になった片手を箱に添え、一度体勢を変えた。

 ぎしり、と梁が鳴った。

 まずい。時遷は息を殺した。

 徐寧の妻が上体を起こし、部屋を見回しているようだった。明かりが消えているのを訝(いぶか)しんでいるのだろうか。

「ちょっと、誰か来ておくれ。何か物音がしたのだけれど」

 女中たちが目を擦(こす)りながらやってきた。

「どうしましたか奥さま。あら明かりが消えているわ」

 女中のひとりが明かりを取りに戻り、もう一人が徐寧の妻の側へ行く。

 時遷は息をつめたまま箱を元の位置に戻し、腕や足を梁の陰になるように隠れた。そして、囁くように口を尖らせると、鼠の鳴き真似をした。

「あら、いやだ。鼠がいるみたいですわね」

 眉間に皺を寄せた女中がそう言った。徐寧の妻は、女中に明かりを灯させると、梁の上を見た。

 箱は、そこにあった。

 徐寧の妻が目を細め、箱をじっと見つめる。何か言おうとした女中を手で制し、じっと見つめ続ける。

 時遷は力を抜き、梁と一体となった。

 さすがは武人の妻というところか。

 徐寧の妻は納得したのか、肩の力を抜き、女中たちを下がらせた。

 そしてもう一度だけちらりと箱を確かめると、床に再びもぐりこみ寝息をたてはじめた。

 ゆっくりと時遷が動いた。危ないところだったが、もう大丈夫だろう。

 時遷は箱を担ぎ、二階の出口を開けた。

 梯子段を下り、外へと出る。懐に入れていた縄を括りつけ、箱を背負うと往来に出た。

 人波に紛れこんだ時遷の姿を疑う者は誰もいなかった。

 やがて時遷の姿は、城外へ消えた。 

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