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求道

 老道士がうなされる子の額に手を当て、何かを探るような目をした。

 やがて得心したように手を離し、母親に言った。

「この子の命を、わしに預けてはみぬか」

 母親は頷くしかなかった。目の前の老人こそ、二仙山にいるという道士に違いないのだ。 

 その道士が言ったのだ。息子の、勝(しょう)の命が永らえるのならば、離れていようとも構わないと思った。

 老道士はにっこりと微笑むと、公孫勝を抱き抱えどこかへと歩いて行った。その後ろには、息子と同じくらいの子供が付き従っていたようだったが、すぐにそれも見えなくなってしまった。

 七日ほど経(た)ち、人が訪ねてきた。

 あの日、老道士に預けたはずの公孫勝であった。

 公孫勝は元気そうに微笑み、健康な姿で目の前に立っていた。しかし一瞬だけ母親は、その目を疑った。あの日と何ら変わりない公孫勝だったのだが、たったひとつ、その髪が絹糸のように真っ白になっていた。

 

 老道士は羅真人と呼ばれていた。

 羅真人が公孫勝に、気を送りこんだ。羅真人の横には、自分と同じくらいの年の少年がいて、こちらを見ていた。

「あとは、お主の生きる力次第だ。生きたいか、小僧」

 思うように動かない体で、公孫勝は確かに頷いた。

 公孫勝は、母の事を強く思った。母がいたからこそ、生きてこられたのだ。死んでたまるものか。

 幾日、経ったのだろうか。

 公孫勝は薄目を開け、天井を見つめていた。気だるい感じはするが、病が体の中から居なくなっているのが、何故かわかった。

「お師さま、目を覚ましました」

 少年の声がした。あの時、横にいた少年だろう。

 ゆっくりと上体を起こしたが、節々に痛みが走った。

「ほう、大したものだ」

 少年に呼ばれて来た羅真人が、言葉の割には当たり前のような顔で言った。

「だが、まだ幼い故か体に無理が出たようじゃのう」

 何を言っているのか分からない表情の公孫勝に、少年が鏡を差し出した。

 映る己の姿を見た公孫勝は、言葉を失った。

 髪が、真っ白に染まっていた。慌てて髪を触り、確かめてみた。いや染まったのではない、老人のそれのように白くなっていたのだ。

 しばらく動転していた公孫勝だったが、深く呼吸をして何とか心を落ち着かせようとした。髪が白くなっただけだ。今こうしていても、体調は悪くないし、むしろ以前よりも良いと感じさえする。何か、内側から湧きあがる熱のようなものを感じるのだ。

 とにもかくにも羅真人に命を救われた公孫勝は頭を下げた。

「頭を下げずとも良い。お主の母と約定を交わした。今日からお主はわしの弟子となり、道士となるべく励むのだ。今からお主は一清となる。そしてこ奴は道清だ、お主の兄弟子にあたる」

 そう紹介された少年が、少し自慢げな顔をした。

 公孫勝は軽く頭を下げたが、心では別の事を思っていた。

 自分が、道士になるだと。驚いたが、母の顔を思い浮かべた。断る事などできないのが公孫勝にも理解できた。

「しばらく母には会えぬ。最期に少しだけ時間をやろう」

 そう言われて、いま公孫勝は母の前にいるのだ。

 母の元にいたい。何度もその言葉が口をつきかけた。母も同じだったろう。特別な事は話さなかった。

「母上、お元気で。いつか必ず、戻ります」

 体が弱く長くは生きられないと言われた自分が、お元気でなどと言うとは。思わず口の端が緩んだが、すぐに鼻がつんとして目が潤みはじめた。

 まだ少年である。だが公孫勝は気丈にも、それを見せまいと背を向け、別れを告げた。

 母のすすり泣く声が、どこまでも聞こえていた。

 

 朱塗りの牌額に金文字で紫虚観と書かれていた。

 二仙山に建てられた羅真人のための道観である。日はすでに西に沈み、辺りは暗くなっていた。

 公孫勝は、羅真人に会うのは明日と言っていたが、事は切迫しているのだ、戴宗が急かし、ここにやって来たのだ。

「すげえなあ」

 李逵でさえ、二仙山の様子に感心していた。

 鬱蒼と茂る青松の間には鶴が見えた。立派な角の鹿が悠々と闊歩し、戴宗らを一瞥すると何事もなかったようにどこかへ行ってしまった。はるか頭上から猿の吠え声が聞こえた。振り仰ぐが二仙山の頂(いただき)は雲を遥かに越え、見る事ができない。

 二人は公孫勝の後について紫虚観へと向かった。

 着衣亭で衣服をあらため、社殿を越えて松鶴軒を訪れた。

 正面に公孫勝の師、羅真人が座していた。

 道士というよりも、仙人と呼んでも差支えない姿であった。まるで来るのが分かっていたかのように、ゆったりとした微笑みを湛えていた。

「お初にお目にかかります。梁山泊から来ました、戴宗と申します」

 と戴宗が挨拶をしたが、李逵はじろじろと羅真人を見ていた。羅真人はそれを気にするでもなく、深く柔らかい声で言った。

「ほう、お主らが梁山泊の者か。話は一清から聞いておった。それで、わざわざここへ何をしに来たのじゃな」

 戴宗が事情を説明した。高唐州の知府、高廉の妖術に梁山泊軍が苦しめられているため、是が非でも公孫勝の力を借りたいのだと。

 ふむ、と羅真人があご髯(ひげ)をさすった。公孫勝は黙ってその返事を待つ。

「一清よ、お主はすでに俗世から逃れ、長生の術を学んでいるというのに、どうしてまた世俗に思いをはせるのだ」

「お言葉ですが、お師さま。俗世の事を見て来いと下山させたではないですか。それに数日前にお師さまも感じた、あの邪悪な気の正体が高廉のものでしょう。放っておくわけにはいかないではないのですか」

「俗世を見せたのも修行のうちだ。その高廉という男にも、関わる必要はない」

「羅真人さま、お願いです。公孫勝どのを、一清どのの力を何とぞ」

 何度も戴宗が頼むが、羅真人は首を縦に振ることはなかった。

「いずれにせよ、出家の身が預かり知るところではない」

 これ以上話していても進展はないようだった。公孫勝と戴宗は、再度挨拶をして紫虚観を去った。李逵が追いかけて来て、不思議そうな顔をした。

「なんて言ってたんだい、あいつ」

「こら、あいつとは何だ。しかし、お前も聞いていたろう。公孫勝はやれぬとさ」

 それを聞き、李逵が怒り満面になる。

「なんだと、あの野郎。険しい山を登らせておいて、結局は帰れって言うのかよ。おいらが八つ裂きにしてやる。そうすれば公孫勝も心おきなく来れるんだろ」

「おい、道中の事を忘れたのか。またおかしな事をすると、術をかけるぞ」

 呆れたような顔で戴宗がたしなめる。李逵は慌ててそれを取り消し、頭を掻いた。

「へへ、やめてくれよう。ちょっとした例えだってば。本当にやる訳がないさ」

 だといいがな、と戴宗がため息をついた。

 三人は公孫勝の家で腹ごしらえをした。明日また頼みに行くことにし、戴宗と李逵は客室へと通された。

「せっかく会えたというのに。明日こそは連れて戻らねばな」

 戴宗は誰に言うでもなく呟くと、床(とこ)についた。

 日が昇るにはまだ早い刻限。

 戴宗が鼾(いびき)をかいて寝ていた。

 だが、その横の寝床から、李逵の姿が消えていた。

 星明かりを頼りに、李逵が紫虚観への道のりを駆けていた。

 腰には二丁の板斧を手挟んでいる。

「戴宗の兄貴にはああ言ったが、黙ってる訳にはいかねぇ。公孫勝も公孫勝だ。わざわざあんな奴にお伺いを立てる事もあるまい。面倒くせぇから、おいらが叩っ斬ってやる」

 李逵は大きな体を器用に丸め、慎重に紫虚観へと忍び込んだ。廊下にいくつか明かりが灯っているだけで、物音ひとつしない。

 抜き足差し足、李逵が奥へと進んでゆく。すると松鶴軒の方から何やら聞こえてきた。耳を澄ますと、それは読経(どきょう)のようだった。

 探す手間が省けたわい、とばかりに舌なめずりをした李逵が素早く近づいてゆく。羅真人は李逵に気付いていない様子だ。

 李逵は扉を勢いよく開け、中に飛びこむと背を見せる羅真人の頭めがけて、斧を力の限り振り下ろした。

 瓜でも切るように、李逵の斧は羅真人を綺麗に真っ二つにしてしまった。してやったりと笑顔の李逵。だが羅真人の体から流れ出す血は赤ではなく白かった。

 うおっ、と驚きながらも、李逵はそそくさと鶴松軒を抜け出した。

 見つかることなく紫虚観を脱し、李逵は麓までたどり着いた。もう夜も明けようという頃だったが、まだ寝ている戴宗を起こさぬように布団にもぐりこんだ。

「起きろ、李逵。いつまで寝ているんだ」

「もうちょっと寝かせてくれよう。昨日は遅かったんだから」

「何を言っている。お前は俺と同じくらいに床についたではないか。今日も羅真人さまにお願いに行くのだから、早く起きてくれ」

 戴宗に布団をはぎ取られた李逵が目を擦(こす)りながら、むっくりと起き出す。

 朝飯も取らずに三人は再び紫虚観を目指した。

 李逵は、戴宗と公孫勝の後ろからついてゆく。驚くだろうなあ、などとにやにやしていた。

 だが驚いたのは李逵だった。紫虚観の中から読経が聞こえてくる。それは確かに羅真人の声であった。

「そんな、馬鹿な」

「何の事だ、李逵」

「い、いや、何でもねぇよ」

 おかしな奴だな、と戴宗が松鶴軒へと向かう。中からは、やはり読経が途切れることなく聞こえてくる。そして戸を開けると、そこに羅真人が座していた。

 公孫勝、戴宗が挨拶をしたが、李逵は目を剥いて怒鳴った。

「なんだよ。なんでここにいるんだよ、この小僧は」

「何を言っているのだ、李逵。羅真人さまに向かって小僧などと」

 李逵に謝らせようとする戴宗だったが、それに反して羅真人は嬉しそうな顔をした。

「ほう、お主にはそう見えるか。お主、名は何という」

「何だよ。おいらは李逵だ。黒旋風の李逵さまだ。文句でもあるのかよ、小僧」

「ほっほっほ、文句などない。よし、本当ならばまた断るつもりじゃったが、お主に免じて一清を貸してやることにしよう」

「お師さま、良いのですか」

「行ってこい、一清。ただし目的を果たしたならば、必ず戻ってくるのじゃぞ」

「分かっております。この命、お師さまにいただいたも同然のもの。お師さまのため、母のため、必ず戻って参ります」

 うむ、と羅真人が頷いた。

 李逵の肩を叩いて喜ぶ戴宗。李逵の一体何に免じてなのかは分からなかったが、とにかく任務はこれで果たせそうだ。

「ふむ、そうだ。これから戻るのも大変じゃろうて。お主らを一気に高唐州まで送ってやることにしようかの」

 そう言って、羅真人が外へ先立って歩く。

 広い敷地に来ると、羅真人が懐から手巾を取り出した。それを岩の上に広げ、乗ってみなさい、と言う。

 公孫勝が乗り、羅真人が何かつぶやくと、手巾はあっという間に雲となり、たちまちのうちに中空へと飛翔した。戴宗も同じく雲に乗り、驚嘆の声を上げた。

 だが李逵だけは、いろいろと理由をつけて乗ろうとしなかった。だが置いて行かれる訳にもいかず、しぶしぶ手巾に足を乗せた。

 羅真人の目が悪戯っぽく光った。羅真人の手には、いつの間にか割れた瓢箪がぶら下げられていた。

「種明かしをしてやろう。お主が昨夜、わしだと思って切ったのはこれじゃ。ちぃとばかりお仕置きをしなければならんのぉ」

 李逵はこの時、やはり乗らなければ良かったと後悔した。しかしそれは後の祭りだ。

 李逵の乗った雲がとんでもない速度で上昇した。そして戴宗たちのいる高さまで来ると直角に曲がり、あらぬ方向へと飛び去ってしまった。

 助けてくれぇ、という李逵の声だけが後から聞こえてきた。

「お師さま、李逵をどこへ」

「ほっほっほ、まああ奴にはちょっと罰を受けさせる事にした。命を取ったりはせぬから心配するな。それよりも、一清」

 羅真人と李逵との間になにかあったのだろうか。しかし心配ではあるが、確かに李逵ならば何とかなるだろうと戴宗も思うしかなかった。

 公孫勝が緊張した面持ちで、羅真人の言葉を待つ。

「お主の力は、その高廉という者とおそらくは互角。今のままでは、勝つことは難しいだろうて。そこで」

 五雷天罡の正法を授ける。

 公孫勝は自分の胸が、とくんと大きく鳴るのを聞いた。

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