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求道

 可哀想だが、この子は長く生きられまい。

 赤子をとり上げた産婆は、そう言ってため息をついた。

 弱々しい鳴き声を上げる赤子を、母親は愛おしそうに抱いた。

 母親はただ、その子の幸せを願った。産婆の言葉などに負けず生きて欲しい。

 そしてその赤子は、勝(しょう)と名付けられた。

 

 勝は病気がちだったが、大きな病に罹ることはなく育っていった。

 だが、勝が五つになろうとする頃だった。突如、高熱を発し、苦しみだした。額は炭火のように熱いのだが、勝は寒い寒いと言ってがたがた震えていた。

 すぐに医者に見せたが、医者は顔を曇らせて、

「すまない。どの薬も効かず、病の元も分からぬのだ。本当にすまない」

 と、うなだれるばかりだった。

 勝の熱が、益々あがっているようだった。熱にうなされる息子を抱え、母は天を仰ぎ見た。天に向かってそそり立つ二仙山の威容が、母の目に映った。

 この山には古より、神のごとき術を使う老道士二人が住むと言われてきた。しかし誰ひとりとして、その姿を見た者はなかった。

 それでも母親は二仙山に登るしかなかった。医者たちに匙(さじ)を投げられた。もはや頼るものは神しかいないのだ。

 足元の石段は、霞んで見えぬ山頂へと伸びている。かつて誰かがこの石段を敷き、道士を祀(まつ)る建物を築いたという。それがいつなのかも分からぬほど昔からその道士はいるというのか。

 勝のため、何度も足を奮い立たせ、母親は目的の場所に着いた。山頂の開けた場所に庵のような建物があった。

 あそこに道士さまが。

 そう思った時、母親の意識が飛んだ。ここまで休まずに登って来た疲労が一気に襲って来たのだ。それでも母親は勝を守るようにしてくず折れた。しかし石畳に倒れ込む寸前、母親の体がふわりと浮いた。そしてそのまま、真綿の上であるかのようにゆっくりと横たわった。

 勝は、霞む視界の中に何者かの影を見ていた。

 はっきりと見ることができなかったが、その影が優しそうな微笑みを浮かべていた事だけは、公孫勝は覚えていた。

 

 公孫勝が、目を開けた。

 洞の中で瞑想をしていた公孫勝は、息をゆっくりと長く吐き、ゆっくりと立ち上がった。洞の出口まで来ると目を細め、はるか遠くを透かすように見た。

「感じたか、公孫勝」

「はい、お師さま」

 いつの間にか公孫勝の横に人がいた。

「邪(よこしま)な気が、荒れておるな」

「はい。しかし、私には関係のない事です」

「そうか」

 二仙山から見える風景はいつもと変わらない、穏やかなものだった。

 しかし二人の目には、山東の方角に黒々とした巨大な竜巻のようなものが、渦を巻いている姿がはっきりと映っていた。

 

 戴宗と李逵が薊州に向かっていた。

「大官人が捕まったのは、おいらの責任だ。だからおいらも連れてってくれ、戴宗の兄貴」

 戴宗が呉用(ごよう)から命令を受けた時、李逵はそう言って同行を頼みこんできた。

 思ったことはすぐに行動に移し、それも大抵は力で解決しようする。そしてそれは大事(おおごと)に発展してしまう事が多かった。

 だが戴宗は、今回もそうだが、こうしてきちんと自分の非を認め、責任を取ろうとするところが憎めないでいた。そんな李逵であるからこそ、江州から面倒を見てきたのだ。

 戴宗は李逵を見て、嬉しそうに笑った。

 薊州までは神行法(しんこうほう)を使う事にしていた。そのため道中は精進料理しか口にしてはいけない。

 薊州から戻るまで我慢できるか、と戴宗は李逵に何度も念を押した。李逵は自信満々に大丈夫だと胸を叩いた。

 二十里あまり進んだところで、しかしというかやはり李逵が言った。

「兄貴、ちょっと喉が渇きませんかい」

 上目づかいで李逵が聞いてきた。

「そうか。だが精進酒しか飲んではいけないぞ」

「では、肉も少しだけなら食べても構わないですよね」

「はじめに約束したろう。まあ、今日は遅いから宿を探す事にしよう。明日の朝は早くに発(た)つからな」

 さらに三十里ほど行き、二人は宿に入った。戴宗が食堂に腰をおろすと、李逵が料理を運んできた。人参、筍、蓮の根を柔らかく煮て、香油と塩で味付けしたもの。山菜と茸、麩(ふ)を甘辛く炒めたもの。そして炊餅(すいへい)だ。

「どうした、喰わんのか」

「今は、あんまり腹が空(す)いてなくって。どうぞ構わず食べてくれ、兄貴」

 先ほど腹が減った、と言っていたのではなかったか。戴宗はそれを口に出さずに、そうかとだけ言って飯を終えた。

 部屋に戻るふりをして、戴宗がこっそりと裏へ回った。

 李逵があちこちを伺い、懐(ふところ)から何かを出した。酒と牛肉であった。

 李逵はもう一度辺りに人気(ひとけ)がないのを確かめると、急いでそれを口に放り込んだ。

 李逵が背後に気配を感じ振り向いたが、そこには誰もいなかった。

 気のせいかと思いながら、李逵は油のついた指を舐めた。

 

「助けてくれ、兄貴。おいらの足がとまらんのだ」

 李逵の足には甲馬が四枚くくりつけられていた。その後ろから戴宗が、同じく神行法でついて来ていた。

 この日から神行法を使った。李逵は、はじめは飛び去ってゆく景色を見て嬉しそうにしていたが、昼近くまで歩き通しで腹が減ってきた。しかし足は動き続け、止まろうにも止まれないのだ。

 もう日が西にかなり傾いてきた。それでも足は止まらない。

「どうした、李逵。そろそろ腹が腹が空いたろう、飯でも喰おうじゃないか」

 戴宗が笑みを噛み殺しながら言った。

「おいらも腹がぺこぺこなのだが、足が言う事を聞かないんだ」

 すると戴宗が懐から炊餅を取り出して食べ始めた。

「兄貴、おいらにもおくれよう」

「おお、わかった。こっちまで来いよ」

 そう言うが、李逵の足は自分の意志では動かせないのだ。

「ちょっと待ってくれよう、兄貴」

「いや、待てと言うが、俺の足も止まらないのだよ」

「どういう事ですかい」

「もしかしたら、昨日言いつけを守らずに肉を食べた奴がいるのかもしれんな」

 李逵がぎょっとした顔になる。

「神行法を使うには生臭ものを口にしてはいけないのだ。特に牛(ぎゅう)が駄目で、ひと切れ食べてしまったら十万里は歩き続けなければならんのだ」

 李逵の顔が青ざめてゆく。

「それは大変だ。実は昨日、兄貴に黙って牛肉を少し食べてしまったんだ。許してくれ」

「なんと、そういう事か。だから俺の足も止まらんのだな。こいつは天の端っこまで行くしかないな。ざっと四、五年はかかるかな」

 李逵が、あんまりだと悲鳴を上げた。戴宗はそれを見てにやりとしていた。

 少しは痛い目を見て反省したようだ。どれ、そろそろ許してやろうか。

「李逵、これからは俺の言うことをきちんと聞くか。聞くと約束するならば、足を止めてやろう」

「わかりました。これからは戴宗の兄貴の言う事をきちんと聞きますから」

 二度としないな。しません、と何度か繰り返し、戴宗が袖で李逵の足を払った。そして、止まれ、と一喝すると、あれほど言う事を聞かなかった足がぴたりと止まった。

「やった、止まったぞ」

 と喜ぶ李逵だったが、どうも様子がおかしい。

 なんと今度は足を動かそうにも、地面に吸いついたかのごとく、動かないのだ。

「じゃあ、先に行くから。お前はゆっくりついて来いよ」

 そう言って戴宗が行ってしまった。李逵はどんなに踏ん張ろうが、足が地面に根付いてしまって動けない。

 日は沈み、辺りは暗くなり始めてきている。道を急ぐ人々が李逵の姿を奇異な物を見る目で過ぎてゆく。

「兄貴、助けてくれよう」

 李逵は大声で戴宗に助けを求めた。昨日、我慢できずに牛肉を喰ったばかりに、こんな目に会うとは。本当にこりごりだ、と李逵は思った。

 すぐに戴宗が戻ってきた。戴宗が李逵に触れると足が軽くなり、やっとその場から動く事ができた。

 李逵の足から甲馬を外してやり、紙銭(しせん)と共に燃やし神行法を解いた。

「やっと、自分の足が戻ってきたわい」

 ふふ、と戴宗が笑っていた。

 やがて十日ほどで、二人は薊州へと着いた。

 戴宗が主人、李逵はその従者の姿をして城内へと入る。

 戴宗が方々で公孫勝の行方を尋ね回るが、誰ひとりとして知る者はいなかった。そもそも公孫勝という名前すら聞いた事もない、というのだ。

「これは参ったな。手掛かりがまったく掴めないとは」

 もう二日、成果は全くであった。

「ちくしょう、あの道士め。一体どこに隠れてやがるんだ」

「こら、李逵。何て口の聞き方だ。どうやら懲りてないみたいだな」

「分かってますよ、兄貴。ただ、どこにもいないなあ、と思って」

「まったくだな。どうしたものか」

 いまは昼時、とりあえず腹ごしらえをするために近くの店に入った。

 おや、と戴宗は思った。見覚えがある店だった。

 前回、公孫勝を探しに来た時に出会った石秀と入った店ではないか。その時は役人だった楊雄が入ってきたため、戴宗は楊林と裏口から逃げたのだ。

「どうしたんだい、兄貴。早く喰おうぜ」

 きょろきょろとする戴宗に、李逵が急かすように言った。ところが、空いている卓がひとつしかなく、そこには先客がいたのだ。

 大人しくしろよ、と李逵に釘を刺し、二人はその卓に相席する事にした。先客は老人であった。

 戴宗は麺を四人前注文した。

「俺は一人前で良い、お前は三人前食べるだろ」

「ははは、それじゃあ足りませんぜ。六人前くらいもらわなくては」

 ちょうど昼時という事もあり、給仕も厨房も忙しそうだった。次々に飯などが出てくるのだが、どれも違う卓へと運ばれてゆく。空腹も手伝い、李逵の機嫌が段々と悪くなってきた。

 給仕が麺をこちらへ持ってきた。だが、それは目の前の老人の注文であった。

 目の前で麺を食われ、ますます李逵が苛立ってきた。戴宗が止める間もなく、給仕に向かって李逵が吼えた。

「おい、いつまで待たせるのだ」

 そして拳で卓を、どんと大きく叩いた。その衝撃で、麺の熱い汁が老人の顔にかかってしまった。

「熱い、何てことをしやがる」

「なにを」

 老人が怒って向かってきたが、李逵は拳を握っていまにも殴りかからん勢いだった。さすがに老人は怯み、後ずさった。そして足が自分の荷物に当たり、ひっくり返してしまった。

 慌てて戴宗が止め、老人の荷物を拾い集めながら頭を下げる。

「申し訳ありません、ご老人。弁償しますから、どうか怒りをお静めいただきたい」

「ふん、わしは急いでるのだ。飯を食ったら、すぐに行かねばならんというのに」

 戴宗が拾ったものを見た。紙銭や線香などだった。

 どこへ、という戴宗の問いに老人は、まだ少し怒りながらも応えてくれた。

「九宮県の二仙山に、羅真人さまという徳高い道士さまがおってな。そのお方にありがたい長生不老のお説教を聞きに行くところだったのだ」

 道士だと。もしかして、そこに。

 今度は戴宗が、老人の胸ぐらを掴んで噛みつくような勢いで訊ねた。

 驚いた顔をしながら老人は、確かに言った。

 その二仙山に公孫勝という道士もいる、と。

 

 公孫勝は名を変えていた。

 九宮県では姓を省き、一清道人と名乗っているのだという。だから公孫勝という名で探しても、見つからなかった訳だ。そう言えば、晁蓋の元を訪れた時に一清という号を名乗っていたと聞いていた。

 戴宗と李逵は老人に別れを告げ、甲馬を足に貼り付けた。九宮県はここから四十数里。二仙山はさらに東へ五里ほどであった。

 二人の目の前に、天を突き刺すようにそびえ立つ二仙山が見えてきた。

 急峻な岩壁がどこまでも伸びており、頂上付近は霞がかっている。その辺りを飛んでいるのは鶴だろうか。その姿はまさに、山水画に描かれているような深山幽谷そのものであった。もし仙人が住むのならば、こういう所なのだろうと思わせる山であった。

 李逵が口をぽかんと開けて、遥か上を見上げていた。

 戴宗が付近の住人に尋ね、公孫勝の家を見つけた。草葺きの家で、いまは裏で薬を練っていると聞いた。

「すみません、どなたかおいででしょうか」

 戴宗の声に現れたのは白髪の老婆だった。木綿の服に荊の実の簪を挿しており、どこか凛とした雰囲気のある老婆だった。この人が公孫勝の母なのだろう。

「私は戴宗と申します。このたび、ご子息に会うためにはるばるやって参りました。公孫勝どのはいらっしゃいますでしょうか」

「すみませんねえ。倅はよそへ行脚に行ってしまいまして。ここにはいないんですよ」

 老婆は笑ってそう答えた。

 おかしい。確かにさっきの住人は、公孫勝はいると言っていたのだ。

 どこへ行ったかは、老婆も知らないという。

 ううむ、と唸る戴宗。

「おい婆さん。公孫勝はここにいるんだろう。さっさと呼んできてくれ。宋江の兄貴が危ないのだ」

 李逵の勢いに、老婆はたじろいだ。それでも、倅はいないと言い募る老婆に向かって李逵が二丁の斧を突きつけた。

「つべこべ言わずに、連れてくれば良いのだ」

 李逵が斧を水平に振るった。斧は老婆の頭の上を通り、右の壁をぶち壊してしまった。

 老婆が悲鳴を上げる。さらに李逵が詰め寄ろうとした時である。

「母に何をする」

 老婆の前に立ちはだかったのは、探していたその人、公孫勝だった。

 戴宗はやっと見つける事ができて、思わず笑顔になっていた。

 一方の公孫勝は、目の前にいるのが戴宗と李逵だと知って、驚くばかりだった。

 李逵を落ち着かせた戴宗は、公孫勝に事情を話した。

 滄州の柴進が高唐州に捕えられ、梁山泊は出陣した。しかし高廉という知府が妖術を使い、梁山泊を苦しめている。ここに到り、公孫勝の力を借りるため、この薊州に来たのだ、と。

 なんと公孫勝は、首を縦に振らなかった。だが戴宗も、そおめおめと帰る訳にはいかない。梁山泊の命運がかかっているのだ。

「百日ほどで戻る、と晁蓋どのと約束しましたよね。まさか、お忘れになった訳ではありますまい」

 うむ、と公孫勝が眉に皺を寄せ、きつく目を閉じた。

 やがて目を開けた公孫勝は、戴宗に向きなおると言った。

「分かりました。約束は覚えています。しかし、私の師である羅真人さまにお許しをいただかなくてはなりません」

 そしてその目を老いた母に向けた。

 その目はとても優しく、そしてとても悲しそうだった。

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