108 outlaws
過信
五
宋江は信じられぬ面持ちだった。
前方から来たのは、敗走してきた林冲たちだったのだ。
「何があったのです、林冲」
呉用があくまでも冷静に問うた。その様子に林冲もいささか落ち着きを取り戻したのか、敗走という事実を噛みしめるかのように語りだした。
宋江の頬に冷や汗が流れた。呉用が目を瞑り、何かを考えだした。
「その高廉が、高唐州の知府である高廉が、やったというのか、それを」
宋江が確かめるように聞いた。にわかには信じ難い話だったのだ。だが花栄も秦明も、一様に青ざめた顔で頷くのであった。
そんな馬鹿な。宋江は何度もつぶやいていた。
妖術だ、と林冲は語った。
高廉が剣を天に向け、何かを呟いた。そして、一喝。
高廉が気合を発すると共に、敵の軍中から黒い気が立ち上り始めた。その黒気はぐんぐん天に向かって昇ったかと思うと、やにはに四散した。
幻か。秦明は目を細め、狼牙棒の柄をしっかと握る。花栄もいつでも矢を放てる態勢になっていた。
突如、地面が大きく揺れ出し、怪風が吹いた。馬が竿立ちになり落されそうになったが、林冲はなんとかそれを堪えた。
地面は揺れ続け、風が強くなってゆく。やがて砂や石を巻きこみ、突風となって梁山泊(りょうざんぱく)軍に襲いかかった。
陣が乱れた。馬たちも黒気に怖れをなしたのか、乗り手の言う事を聞かずあちこちに走り出してしまう。兵たちも怪風に負けぬよう必死だったが、皮膚に突き刺さるように当たる砂や石に耐えきれなくなっていた。
「落ち着け、気をしっかり保つのだ。まやかしなど怖れるな」
花栄は兵たちを鼓舞しながら、手にしていた矢を放った。矢は風に逆らってまっすぐ高廉の額めがけて飛んでゆく。
林冲と秦明が奥歯に力を込めた。届け。
花栄の狙いは正確だった。しかし、高廉の前に飛天神兵が飛び出し、その矢を自らの体で受けた。神兵の肩越しに見える高廉が、再び気合いを発した。
風はさらに勢いを増し、梁山泊軍を容赦なく襲う。さらに神兵たちが襲いかかって来た。
「くっ」
正面から吹き付けてくる突風にどうしても顔を反らせてしまう。それでも林冲は、神兵の刀を防ぎ、蛇矛(だぼう)を振るった。神兵のひとりを片付けた秦明が叫ぶ。
「林冲、花栄、これでは駄目だ。ここは退こう」
林冲が頷き、神兵をひとり突き倒した。
「退却、退却だ」
梁山泊軍が敗走した。神兵たちはある程度まで追ってきたが、やがて高唐州へと帰還して行った。
梁山泊は五千のうち約一千を失っていた。
「くそっ」
秦明が拳で地面を打ちつけた。やり場のない怒りは花栄も同じだった。林冲は目を閉じ、ゆっくりと呼吸をした。
よもや妖術などと戦う事になろうとは。禁軍でもそして梁山泊でも、いやどこの軍が妖術との戦いを想定しているというのか。戦場でまさかは言い訳にならない。想定していなかった、は負けの理由にはならないと林冲は考えていた。
妖術などあり得ないもの、と初めから考えにさえ入れてはいなかったのだ。だが梁山泊にも実際にいるのだ。道術を使う人間がいるのだ。
しかし何故、道士でもない高廉が術を使うのか。
一体、どういう理屈で風が吹いたのか。
その事よりも林冲の心には、敗走という二文字の方が深く刻み込まれているようだった。
呉用が神妙な顔をしていた。
林冲らが高廉の妖術に敗れた、という報告を受けたからである。しかし、さらに宋江の言葉のためでもあった。
「この書を見てほしい。私はこれを九天玄女から授かったのだ」
いま陣中には、宋江と呉用の二人のみ。人払いをし、かなりの沈黙の後に宋江が語り出した。
宋太公と宋清を迎えるために鄆城県へと密かに帰った時、宋江は捕えられる寸前であった。だが環道村に隠れた際、不思議な場所へ迷い込み、そこで九天玄女と出会ったというのだ。
そして宋江が気付けば、その手に三巻の書物を持っていた。そのひとつが、この書なのだという。
「玄女は、天機の星にだけ見せても良いと言っていた。私は、お主こそが玄女の言う天機の星だと思うのだ、呉用よ。だから、こうしてお主だけに話しているのだ」
にわかには信じられない話だった。その表情を感じ取ったのか、宋江はさらに続けた。
その晩に浮かび上がった、謎の句の事。そして祝家荘戦の前に浮かび上がった予言めいた句の事。さらに宋江は、ある項を開き、指さした。
そこには何かの呪文のような文言が綴(つづ)られていた。この言葉が、高唐州との戦いの前に浮かび上がったというのだ。
九天玄女は戦術と兵法を司る女神だ。伝説の黄帝は玄女から兵法を伝えられ、彼と対立した魑魅魍魎を操る蚩尤を倒したという。
それならば、この玄女の呪文を使えば、妖術に対抗できるのではないか。そう宋江は考えたのである。
「おそらく、難しいでしょう」
期待を込めた目で見ていた宋江に、呉用はにべもなく言い放った。
「もし本当に、その玄女とやらが本物だったとしましょう。それでも、おそらく難しいと思います」
「どうしてだ」
「我々の中に、術を使える者がいないからです」
「それは」
ふと宋江は戴宗の顔を思い浮かべた。戴宗は神行法という術を使い、一日に五百里を踏破する事ができる。
「戴宗の術は、あの甲馬自体が効力を持っていると思われます。それを発現させるための呪文を、戴宗は教わったのでしょう」
「呉用、お前はそう言うが、試してみなければわからないだろう。早くしなければ、柴進どのの命が危ないのだ。私はやるぞ」
呉用は少しだけ目を閉じた。
「分かりました。確かに玄女の術とやらに、私も興味がない訳ではありません。戦時でなければ、ゆっくり試してみたいところではありますが。ただし効かないとわかったら、すぐに撤退するのです。良いですね」
よし、と鼻息も荒く宋江が呂方と郭盛を呼びに行った。
呉用はまた目を閉じると、しばらく座したままでいた。そして呉用は従卒に声をかけた。
「すまんが、戴宗を呼んできてくれないか」
再び、梁山泊が軍を進めた。
宋江が率いてきた中軍三千を含め、総勢七千の軍である。
それを見て高廉が姿を現した。怪風を巻き起こした剣と、今度は楯も持っていた。左右には飛天神兵を従えている。圧倒的な兵力差を前にしても、やはり怯んだ様子はなかった。
「懲りずに来よったか、梁山泊の山賊どもめ。二度と我らに歯向えぬように、今度こそ息の根を止めてくれるわ」
すらりと高廉が剣を抜いた。
林冲が叫ぶ。
「あれです。気をつけてください、宋江どの」
またも黒気が高唐州軍から湧き出ると、それが空へと立ち上ってゆく。
林冲の頬に汗が伝う。風が吹いてきた。砂も舞い始める。前回と同じだった。兵たちの顔も曇ってゆく。
宋江は少し下がって構えていた。左右には呂方、郭盛を万が一のために従えている。
宋江が、他の者には見えないように、手にした書物を開いた。開かれた頁に指を置き、なぞるようにした。その間にも黒い風が強くなってきており、神兵が徐々に迫ってきた。
「宋江、何をしている」
花栄が叫んだ。宋江は花栄をちらりと見ると、人差指と中指をそろえて伸ばし、さっと前に突き出した。なにか口の中で呟いて、叫んだ。
「風よ」
何も、起こらない。と思われた直後、吹き付けていた風が止まった。
そして一瞬の後、風が高唐州軍へとその向きを変えた。
「な、何だと。何が起きたのだ」
高廉が動揺の色を露わにした。
「風向きが変わった。いまだ」
その隙を逃す梁山泊軍ではなかった。
林冲、花栄、秦明が馬を駆けさせ、算を乱した高唐州軍に迫る。その後に鄧飛、雷横、楊林らも続いた。
だが高廉はすぐに冷静さを取り戻すと、左手の楯を構えた。その楯は銅でできており、周囲に古代の文字が刻まれ、猛獣の姿が描かれていた。
「小癪な賊どもめ。ひるむな神兵よ。はああっ」
雄叫びと共に高廉が剣で楯を打ち鳴らした。がんがんがん、という音が軍鼓のように響く。すると神兵たちの間に一陣の黄砂が巻き起こった。その中で、神兵とは別の何かが蠢いて見えた。
それははじめは黒い影のようなものだった。影は次第に形を取り始め、大きくなっていった。やがてその影たちが唸り声を上げ始めた。
「何だい、あれは」
楊林が叫んだ。
神兵たちの中から飛び出してきたそれは、獣だった。鬣(たてがみ)をふり乱した狻猊が大きく吼えた。さらに巨大な虎が牙を剥いて飛び出し、さらに目を爛々と光らせた豹がそれに続いた。 獣たちは一斉に梁山泊軍に襲いかかった。
馬鹿な、と思いつつ林冲は蛇矛で狻猊の爪を防いだ。
秦明が吼えた。
「怖気づくな、これは幻だ。気をしっかりと保つのだ」
そう、幻にすぎない。林冲そう思っていたが、その手に感じた衝撃はたしかに本物だった。目の前に迫る狻猊の唸り声も、匂いも、息遣いも本物にしか思えないのだ。
鄧飛が鉄鏈を振り回し、獣たちを寄せ付けぬようにしている。赤い目をさらに血走らせ、高廉まで駆ける隙を狙うが、四方から獣と神兵が襲いくる。
鄧飛の背に豹が飛びかかった。体を捻り、鉄鏈を撃ち込もうとするが間に合わない。だが豹の額に矢が突き立ち、豹は悲鳴を上げて絶命した。
「すまねえ、花栄」
鄧飛の礼に、微笑みで返す花栄。そして宋江を見た。
宋江も獣に囲まれていた。虎が跳び上がった。その体躯は宋江を完全に隠してしまうほど大きかった。
その虎に画戟が二本、立ち向かった。呂方と郭盛だった。宋江はすんでのところで虎の爪を避けると、歯嚙みした。
呉用の言っていた通りなのか。玄女の力があれば術を破れると踏んだ自分の誤算だった。
その間にも兵たちが獣と神兵たちに倒されてゆく。こちらも応戦するのだが、この世のものと思えない戦の様子に、本来の力を出すことができないのだ。
軍鼓が鳴り響いた。撤退の合図であった。
「退け。総員、撤退」
撤退する梁山泊軍に獣が迫る。殿(しんがり)で秦明が、それらを寄せ付けぬように狼牙棒を振るっていた。
高唐州軍は二十里あまりも追いすがって来た。李俊(りしゅん)は兵たちを逃がすために、そこで戦っていた。
李俊の刀が神兵を斬り伏せた。しかしその横から虎が襲いかかって来た。思わず後ろへ下がりそうになったが、それを堪え足を踏ん張った。
李俊は体ごとぶつかるように、虎に突っ込んだ。強い衝撃の後、李俊と虎が地面に転がった。手から刀が離れていた。
虎の呻きが聞こえた。李俊の刀が虎の腹に刺さっていた。虎が恨めしそうな目で李俊を見ていたが、やがて動かなくなった。
息を整え、李俊が立ち上がった。
軍鼓の音が聞こえた。高唐州軍が戻ってゆく。
日が、遠くの山並みに隠れようとしていた。
横たわる虎を見ていた李俊の眉が、ぴくりと動いた。
静かな夜だった。
高唐州軍との戦が嘘だったかのように静かだった。
再び、負けた。そのせいもあるのだろう。陣営では、ただ焚火の音だけが聞こえていた。
誰もが悔しさで、やりきれない憤りで、口を閉ざしているようであった。
宋江が不思議な呪(まじな)いで風を返したが、高廉はさらなる術を使った。狻猊が、虎が豹が飛び出してきたのだ。
勝てないのではないか。柴進を救い出す事ができないのではないのか。心に浮かぶその言葉を、誰もが必死に隠そうとしているようだった。
闇の中を、兵が移動していた。高唐州軍である。
飛天神兵は口に枚(ばい)を食(は)み、声を立てぬようにしていた。
夜襲である。
今日、二度の敗走で梁山泊軍は兵数を減らし、さらに精神的にも疲弊している。ここで梁山泊軍を壊滅に追い込もうというのだ。
静かに、闇と同化した神兵たちが迫る。高廉も陣頭に立ち、まるで闇を見通すかのように目を光らせていた。
神兵たちを扇状に展開させた。高廉が剣を振った。突撃の合図である。
飛天神兵、三百が喚声とともに梁山泊の陣になだれ込んだ。神兵の刀が、次々と火の周りに腰を下ろしていた兵たちを斬ってゆく。
だが喜悦の表情だった神兵の顔色が、驚愕の色を帯びた。
「高廉さま、謀られました」
それは人ではなく、木でできた人形だった。神兵は続いて幕舎を破壊するが、そこにも人の姿はなかった。
高廉が歯嚙みした時、突入した陣の周囲から喚声が巻き起こった。
「おのれ、梁山泊め」
高廉はすぐに撤退の合図を出す。四方に数百もの松明が灯った。喚声はさらに大きくなっていた。
「へへ、呉用先生の言う通り、調子に乗って襲って来やがった。昼間のお返しだぜ」
白勝が嬉しそうに、松明を灯してゆく。松明に火をつけるとそこから伸びる紐を伝い、次の松明が燃え上がる。それが幾つもつながっていた。
梁山泊の伏兵は、敵よりもはるかに少ない百ほどであった。余力のある声の大きなものを集め、体のあちこちに金属を縛りつけてそれを打ち鳴らし、大勢であるかのように見せかけていたのだ。
完全に囲まれたと思いこんだ高唐州軍は慌てて逃げ出した。
「矢だ、矢を放て」
楊林が指示を飛ばす。待ち構えていたように、伏兵たちが一斉に矢を放ち、高廉たちに雨のように降り注いだ。
闇の中、方々で悲鳴が聞こえてくる。高廉も必死に楯を掲げて逃げてゆく。
ひゅんひゅんという風を切る音が聞こえ、その後に矢が襲いくる。何かに突き刺さる音と嗚咽が同時に聞こえる。
近くを駆けていた神兵が倒れた。背に何本もの矢が刺さっていた。
「ぐぬっ」
高廉の楯をすり抜けた矢が左肩に当たった。脂汗を流しながら矢をへし折ると、高廉は駆け続け、何とか矢の雨から抜け出した。
梁山泊の伏兵も多くはない。楊林は高廉を追う事をしなかった。
白勝はにやりとする。
「おい、あの野郎、肩をおさえていたぜ。矢が当たったみたいだな」
「ああ、上手くいったようだ。よし、神兵どもを引き立てるんだ」
まだ息のある神兵たちを二十人ほど、陣へと連れ帰った。
その中の数名が、宋江の前に引き出された。
「高廉の術は何なのだ。あれを破る方法を教えるのならば、命までは取らぬ」
しかし神兵たちは、にやにやとするばかりで何も喋ろうとはしない。辛抱強く、宋江は神兵に聞いた。しかし神兵の答えは沈黙だった。
そして、
「お前らに高廉さまが倒せるはずがない。今夜はたまたま策に嵌(は)められたが、次はない。お前らの勝機は二度とないという事だ」
一人がそう叫ぶと、自らの舌を噛み切った。それに続き、他の神兵たちも舌を噛み切ってしまった。
止める暇もなかった。目の前の光景に唖然とする宋江。横にいる呉用は表情を変えていなかった。宋江が首を振り、肩を落とした。
「ともかく、高廉に傷を負わせた楊林と白勝には、賞を取らせるように裴宣に伝えよ。奴もしばらくは動くまい。しかし一体、高廉とは何者なのだ。一介の知府だとは考えられん」
「そうですね。戴宗はたまたま江州で知り合った流浪の道士に気に入られ、術を授かったといいます。もしかしたら、あの高廉もそういう者から術を教えられたのかもしれません。しかし肝心なのは、どうやって術を破り、奴に勝つかです」
その通りだ、と宋江が天を仰いだ。
「ちょっといいですかい、宋江どの」
李俊が幕屋に入ってきた。林冲、秦明、花栄を伴ってきた。さすがと言うべきか、彼らは口から血を流し、横たわる神兵を見ても眉ひとつ動かさなかった。
「どうしましたか、李俊」
それに応える呉用もまた肝が太い、と宋江は思った。
「奴の、高廉の術の正体を破る手助けにでもなれば、と思ってね」
幕屋の中が片付けられ、李俊らが腰をおろした。宋江が李俊の言葉を待った。
焦りなさんな、という顔で李俊が話し始めた。
二度目の敗走の時、李俊は殿(しんがり)で戦っていた。
そこに高廉の術で顕現した虎が追いすがった。李俊は危ういところで、その虎を倒した。
日が暮れ始め、そこで高廉たちは引き揚げて行った。
李俊は息を整え、帰投しようとした。ふと目が虎を見ていた。
李俊の眉がぴくりと動いた。
そこに虎はいなかった。
そこには虎の形を模した紙が落ちていたという。その虎の腹の辺りが破れていた。李俊が斬った所と同じ位置だという。
「虎や豹の正体は紙だったという訳ですか」
呉用が目を細め、李俊を見ていた。
「分からねぇよ。俺はただありのまま、見たまんまを報告しに来ただけさ。考えるのは軍師どの、あんたの役目だろ」
「しかし実際に戦ってみて、あの獣が幻だったとは思えんのだがな」
林冲がそう述べ、秦明も同意した。
「だが李俊は実際に見たのだ。もはや何が起きても不思議ではあるまい」
腕組みをした花栄が言う。
「花栄の言う通りです。しかし、そうだと分かっていても、目の前に虎や狻猊が現れれば体は竦(すく)んでしまうものです」
「ならば、どうするというのです」
秦明が少し憤慨しているようだ。呉用の遠回しな言い方は、秦明などにはもどかしいのだろう。それでも慣れてはきたようだが。
確かに呉用の言う通り、術の謎の一端が解けたからといって、術そのものを止める方法は見つかっていないのだ。
「ならばどうするのだ、呉用」
宋江も秦明と同じ事を言っていた。今は宋江ももどかしい思いなのだ。一刻も早く高唐州から柴進を救い出さねばならないのだ。
「宋江どの、私の言った事を覚えていますか」
「私に言ったこと、だと」
宋江は眉をしかめ首を傾げ、腕組みをした。
呉用が言っていた事。何を言っていただろうか、つぶさに思い出してみる。そして、はたと目を見開いた。
それを見た呉用が言った。
「そうです。術を使える者がいればよいのです。公孫勝を呼び戻します」
おお、と林冲が声を上げた。
玄女の書の術では勝てないと、呉用は見越していたのだろう。すでに戴宗を再び薊州へと走らせていたというのだ。
そう言えば、もう一人見当たらない。
「妖術がどれほどのもんだってんです。任せてください、宋江の兄貴。高廉なんて、おいらが叩っ斬ってやりますよ」
いつもならばそういう台詞が聞こえてくるはずだった。その李逵がいなかった。宋江の軍と共に出陣したはずだったが。
宋江は不安げに呉用を見た。
呉用は目を合わせずに、こくりと頷いた。