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過信

 柴進は、いま起きている事が理解できないでいた。

 柴皇城の屋敷から李逵を梁山泊へ帰らせ、役所へと赴いた。あの世へと旅立った叔父のため、しっかりと殷天錫の非を認めさせ、筋を通すためである。

 だが高廉は殷天錫と同じ言葉を放った。

「丹書鉄券だと。そんな古臭い紙切れ同然のものが、わしに通じると思っているのか。この者を牢に入れよ」

 柴進は、頭の中が真っ白になっていた。押さえつけられ何十回も棒を喰らった。肉が裂け飛び散る血も、どこか他人事(ひとごと)のように見えていた。

 丹書鉄券が、紙切れ同然だと言い捨てられた。

 その事が、捕縛され棒打ちされる事よりも、柴進の心には衝撃だったのだ。

 寝台のようなものに寝かされ、手足と首まで枷をかけられた柴進は、そうなってもまだぶつぶつとうわ言のように何かつぶやいていた。

 

 戴宗が聚義庁に駆けこんできた。

 晁蓋、宋江に報告しようとした矢先、その前にいる男を見て呆れたような顔をした。

「おい鉄牛、いつのの間に帰ってきてたんだ」

「おお、戴宗の兄貴。兄貴こそ、どこ行ってたんだよう」

 李逵が戴宗を見て、嬉しそうに笑った。戴宗は苦笑いを浮かべ、改めて晁蓋と宋江に拱手をした。

 戴宗は李逵を迎えに柴進の元へと行っていたのだ。朱仝とのわだかまりもそろそろ無くなった頃合いだろう、と迎えに行かせたのだ。

 しかし横海郡の屋敷には李逵はおろか柴進までも不在だった。下男の話によると柴進の叔父である柴皇城が重篤のため、高唐州まで行ってしまったという。そこに李逵もついて行ったらしい。

 急いで戴宗は引き返し、高唐州へ向かった。

「大変です晁蓋どの、宋江どの。柴進どのが知府の高廉に捕えられました。鉄牛が、柴皇城どのをおどしていた殷天錫という男を殴り殺したのがいけなかったのでしょう」

「そいつは大官人の叔父さんを殴り殺しだんだ。おいらは仇を討っただけさ。大官人はやめろと言ったが、あそこで我慢なんてお釈迦さまだって出来やしないぜ」

 晁蓋が立ち上がって拳を握った。

「梁山泊は大官人どのにいろいろと世話になっている。ここは軍を出し、ぜひとも取り戻そうではないか」

「お待ちください、晁蓋の兄貴。兄貴は梁山泊の柱です。私も逃亡中に身を寄せたり、柴進どのには本当に世話になっていたのです。私が代わりに出陣いたします」

 宋江がそう訴え、晁蓋は腕を組み、唸った。またか、というような目をしていた晁蓋に向け、呉用が言った。

「晁蓋どの、お気持ちは分かりますが、ここはひとつ宋江どのと我らにお任せくださるよう」

「おいらもだ。おいらが大官人を助けるぞ」

 李逵が聚義庁で吼えた。

 

 石勇が下唇を噛みしめ、眉間に深い皺を刻んでいた。石勇の営む北山酒店である。

「頼みます、柴大官人の事を、林冲どの」

 言われた林冲は、湯呑みを手にしたままじっと石勇を見つめていた。

「うむ。お主も高唐州に駆けつけたい気持ちだろうが、ここは抑えてくれ」

 石勇は黙って林冲の目を見つめた。

 この世で尊敬する人間は、宋江と柴進だけだ、とかつて石勇は宣言していた。宋江と実際に出会い、梁山泊に入山してからは、その言葉も出さなくなっていたが、心の中では常にその思いはあった。

 江湖に身を置く者ならば、柴進の庇護を受けた者の方が少ないとさえ言われている。柴進救出のため高唐州に出陣する林冲もそうだったし、石勇もそうだった。

 梁山泊に来てから実に多くの豪傑たちを知ることになった。柴進の屋敷で世話になっていた頃の自分は、いかに井の中の蛙だっただろうか。林冲ほどの男ならばともかく、よくも己を厚くもてなしてくれたものだ。今さらながら柴進への尊敬の念が強くなるのを感じた。

 林冲の言う通り救出軍に加わりたかった。しかし石勇は、この北山酒店を任されているのだ。共に担当をしている時遷も、いまは任務で出かけていてここにはいない。

「その想い、私が共に背負って戦おう、石勇」

 店を出る林冲の背中が、とても大きく見えた。

 

 不穏な空気を感じたのか、空を飛ぶ鳥も身を潜め、夏の終わりを告げる風だけが吹いていた。

 見やれば、高唐州軍が整然と並んでいた。林冲は合図を出し、前進を止め、高唐州軍と対峙した。

 高唐州軍は知府の高廉自らが率いていた。これまで見てきたどの知府とも違うようであった。高廉は馬上で、梁山泊軍にも臆することなく、むしろ不敵な笑みさえ浮かべていた。左右に二人の将、背後に兵たちが居並んででいる。

「来たか、水たまりの盗賊どもめ。我が義弟の命を奪った報いを受けてもらうぞ。者ども」

 高廉の後ろに控える兵たちが一斉に、おうと呼応した。その兵たちの姿も普通とは違っていた。

 黄色い鉢巻を巻き、銅の頬当てに青銅の鎧かぶとを着こみ、滾刀を手にしている。その数三百。飛天神兵と呼ばれる、各地から集められた屈強な精鋭たちであった。

 前軍を務める林冲と秦明、花栄が目で語り合う。みな武人である、目の前で待ち構える敵兵が尋常でない事はすぐにわかった。

 軍鼓が高らかに鳴らされ、林冲がひとり、馬を進めた。

「我らが大恩人、柴大官人どのを一刻も早く開放してもらおうか。さもなければ、力ずくで奪う事になる。お前らも命は惜しいだろうて」

 高廉は怯むことなく林冲に指を突きつける。

「この逆賊どもめ。よくものこのこと現れたものだ。柴進とかいう男も見る目がない。お前らなどと関わりを持ったばかりに、命を落とすのだ。あの男は罪を犯した。返すわけがなかろうが、お前らこそ尻尾を巻いて逃げた方が身のためだぞ」

 林冲は微かに微笑んだ。高廉は高俅の従弟にあたるという。己をこの漂泊の身に陥れた高俅の顔を忘れたことなどなかった。この手で高俅に槍を突きたてる、その日のために生きているのだ。

 だから微笑んでいた。血族である高廉と戦う事ができるのだから。

 梅雪、と林冲は呟き、高廉を見据えた。

「逆賊は貴様らの方だろう。苦しむ民のものを盗み、己ばかりを肥え太らせているまさに強盗ではないか。良く聞け。貴様の次は、あの高俅だ。天子を、国を欺く害虫を、この手で引き裂いてくれる」

 さすがに高廉も慄いた。高俅まで狙っているのか。奴が元禁軍師範の林冲という男か。話は耳に届いている。ならば油断は出来ぬという訳だ。

 誰か、という高廉のかけ声に一人の統制が反応した。刀を手に馬を駆る統制の名は于直(うちょく)。

 林冲も馬を走らせた。于直の刀が閃き、林冲を襲う。于直は左右から立て続けに刀を振り下ろすが、林冲はいとも簡単に蛇矛の柄でそれを弾き返した。于直が歯噛みして突きに転じた時、林冲の蛇矛も突きに転じた。

 蛇矛は真っ直ぐ胸を貫き、于直は血を吐きながら落馬した。林冲は蛇矛を振るい血を落とすと、悠々と自軍へと戻る。喝采の中、驕ることのない林冲のその目は高廉をしっかりと見据えていた。

  于直を失った馬だけが戻ってきた。高廉の手が震えている。

「誰か、仇を討ってまいれ」

 唾を飛ばし叫ぶ高廉。それに応えたのはもう一人の統制、温文宝であった。

 温文宝は槍を携え、馬を駆った。梁山泊の陣からは秦明が前に出た。

「次は私に任せてください」

 林冲にそう告げ、馬腹を蹴る。あっという間に仁木の距離が縮まり、槍と狼牙棒が馳せ違う。

 温文宝の顔が歪んだ。槍を持つ手を擦っていた。温文宝が舌打ちをした。秦明の狼牙棒の力で、手が痺れてしまったのだ。

 内心で冷や汗ものの温文宝。かすっただけでこの威力だというのか。まともに受ける事はできぬ。温文宝は次に、ある程度距離をおくように秦明の周りを回った。狼牙棒は振り下ろす攻撃が主体となる。威力は大きいが、その分隙も大きい。温文宝が狙うのはそこだった。

 温文宝が槍を何度も繰り出し、秦明を牽制する。秦明は何とか狼牙棒の柄でそれをかわすと、馬をやや後ろに下げた。

 心中で温文宝が笑った。こちらの手数を増やし防戦一方にさせる。狼牙棒を振り下ろす暇など与えない策は当たった。

 秦明に隙が見えた。何度か狼牙棒を振り上げようとし、温文宝の槍がそれを拒んだ。そして無理に狼牙棒を上げようとした脇腹、そこに温文宝の槍が飛び込んだ。

 あ、と思わず温文宝が口に出してしまった。

 誘いの手だった。秦明はいつでも狼牙棒を繰り出せたのだ。わざと隙を作り、温文宝を誘い込んだのだ。

 だが、そうだと理解した時には、温文宝の首から上が弾け飛んでいた。

「次はどいつだ。命が惜しくない奴は、出てくるが良い」

 秦明が吼えた。びりびりと空気まで振動するようなその声は、まさに霹靂だった。

 しかし今度は、高廉の表情は変わらなかった。控える三百の飛天神兵たちも、まったく動じている気配がなかった。

 むしろ高廉は笑みさえ浮かべていた。

「見たか。これが梁山泊の力らしい」

 高廉の言葉に反応し、神兵たちも肩を揺らしだした。

 くくく。あれが世間を騒がせている梁山泊だと。

 あの程度で勝ち誇っているぞ。くくく。

 花栄の眉が曇った。

 梁山泊の兵の方がざわつき出した。二将を倒されたにもかかわらず、笑みを浮かべている目の前の敵に少なからず恐怖を感じているのだ。

「落ち着け。すでに我らは二勝しているのだ。笑っているのは、奴らの負け惜しみに過ぎん。我々は梁山泊の兵だ。怖気(おじけ)ずくでない」

 花栄が兵たちを鼓舞する。林冲、秦明もそれに合わせ、兵を叱咤する。次第に兵たちは落ち着きを取り戻してゆく。

 高廉がさらに笑っていた。

「ほう。やはりそこらの山賊とは比べるべくもないか。しかし、そうでなくては倒し甲斐がないからな」

 高廉が、ただ一騎で進み出た。

 奴が自ら、戦うというのか。

 いぶかしみながらも、花栄が馬を進め、銀に輝く槍を構えた。

「とくと見よ。我が力を」

 高廉が、背負っていた剣を抜き、高々と天を指した。

 林冲は、その時、辺りにどす黒い気のようなものが満ちてゆくのを感じた。 

 

 微(かす)かに歓声のようなものが聞こえてくる。

 柴進は静かに目を開け、耳を澄ませた。確かにそれは歓声で、さらに怒号と軍鼓の音も聞こえた。

 高唐州が戦っているのか。

「梁山泊です、柴進さま。梁山泊が、あなたを救いだそうと戦いに来たのです」

 牢の外にいた男がそう囁いた。そして牢の錠が外(はず)される音がした。

 男が柴進に近づいてきた。そして柴進にかけられた枷の鍵も外し始めた。

「お主は」

「私は牢詰めの軍官で藺仁(りんじん)と申します」

「梁山泊が、来ていると、言ったのか」

 息を継ぎながら弱々しく訊ねる柴進に、藺仁は首肯で答えた。

 枷から解放された柴進が床に膝をついた。何日ぶりの地面だろうか。しかし打たれた傷で足が上手く動かない。

 差しのべられた藺仁の手を取り、柴進は感謝の意を示した。しかし藺仁はすこしの沈黙の後、冷やかにこう言った。

「柴進さま、私はあなたを尊敬しております。大周皇帝の末裔であり、このような目に会うお方ではありません。梁山泊が高廉の軍と戦っておりますが、勝つことは叶わないでしょう」

「何だと。梁山泊軍が勝てぬと申すのか」

 弱った体に鞭打つように柴進は立ち上がり、藺仁を睨みつけた。

 馬鹿を言うな。宋江どのが、晁蓋どのが、林冲までがいる梁山泊が勝てないというのか。

 柴進の頬が、ひくついていた。しかし藺仁はあくまでも冷静な顔で、同じ事を言った。

「はい。梁山泊が勝つことは難しいでしょう。ですから」

「だから、何だ」

「あなたを救うために、あなたには死んでいただきます、柴進さま」

 何かの冗談なのか、と柴進は思った。

 だが見つめ返してくる藺仁のその目は、真剣そのものだった。

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