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過信

 柴進の顔が、少し憂いを帯びていた。

 手にした手紙に、何度も何度も目を落とし、その度にため息をついていた。

 奥の部屋から騒々しい声が聞こえてきた。

「じゃんじゃん、酒と肉を持ってきてくれ。まだまだだ足りないぞ」

 李逵が嬉しそうに騒いでいた。朱仝の一件から屋敷にいるのだが、毎日このあり様だった。使用人が柴進の顔をのぞきこんできた。柴進は呆れたように頷くと、またため息をついた。

 梁山泊の頭領だから、と初めは丁重にもてなしていたものの、さすがに柴進も辟易してきた。これではかつて林冲に成敗された洪太尉と似たようなものではないか。

「どうしたのです、柴大官人。ため息なんかついちゃ、飯がまずくなりますぜ」

 そう言って李逵が笑い、飯粒をまき散らした。

 柴進は再び大きなため息をつくと、手紙に目を戻した。

 叔父の柴皇城が臥せっているという手紙だった。

 柴皇城は高唐州にいる。ここ滄州と梁山泊の間あたり、馬で数日という距離か。

 叔父はある男に庭園を奪われた。その際に抵抗したのだが反対に殴る蹴るの暴行を受け、そのために床に就き、いまや命も危ういというのである。

 その男とは、知府である高廉(こうれん)の義弟、殷天錫(いんてんしゃく)といった。殷天錫は高廉の権勢を笠に着て、やりたい放題だというのだ。柴進は、林冲から聞いた高衙内の事を思い出したが、それも無理はなかった。高唐州の知府、高廉はなんと高俅の従弟(いとこ)にあたるのだという。

 一族そろって、変わらぬとは。柴進はまた溜息をもらした。

「そう言えば、大官人は小旋風と呼ばれているって聞きましたが」

「いかにも」

「おいらは黒旋風だ。ふたり揃って思う存分暴れてやりましょうや」

「暴れに行くのではないのだよ、李逵」 

 柴進がそう言ったものの、李逵は嬉しそうに腕を振り回していた。高唐州へは叔父の見舞いに行くだけなのだ。もちろん殷天錫は憎いが、暴力で解決するつもりはなかった。もし力を使うならば最後の手段だし、なによりこちらには丹書鉄券があるのだ。

「おいらがいるからには、大船に乗った気持ちでいてくださいよ、大官人」

 わはは、と笑う李逵に柴進は、不安を隠しきれないでいた。

 

 柴皇城の顔面は蒼白で、紫色になった唇がやけに目立って見えた。

 眼窩は落ちくぼみ、どちらかというとふくよかだった以前の面影は微塵もなかった。

「叔父上」

 柴進は、寝台に横たわる柴皇城を見つめ、そう呟くだけであった。いまは柴皇城は静かに寝息を立てている。

「この李逵さまが来たからにはもう安心して良いですぜ、大官人の叔父さん」

「こら、静かにしてくれ。叔父上はやっと寝ついたところなのだ」

「これは、すみません」

 李逵は体をすぼめ、誤った。

 柴皇城の妻が二人を促し、別の部屋へと通した。そこで柴進に事の顛末を話しだした。

 高廉の甥である殷天錫は、柴皇城が持つこの屋敷の裏にある庭園と水亭の話を聞きつけたらしい。おそらく取り巻きの連中に焚きつけられたのだろう。

 そして二、三十人ものごろつき連中を引き連れて、殷天錫が乗り込んできたという。力づくで庭園を奪おうとしたのだ。

 温厚な柴皇城は、丹書鉄券の話も含め説得して帰そうとした。しかし無理が通れば道理は引っ込むもの。殷天錫は容赦なく柴皇城に手を上げたのだ。およそ腕力などに無縁の柴皇城である。ごろつきどもに囲まれ、止めようとした使用人たちも散々な目にあった。

「十日だ。これ以上、痛い目を見るのが嫌ならば十日以内にここを立ち退くのだ。代わりに俺たちが住んでやるのだ。むしろ喜ぶべきことだろう」

 また来るぞ、と言い残し殷天錫らは去ったという。

「まったくひどい連中だ。おいらが行って叩き斬ってやりますぜ」

 鼻息も荒く立ち上がった李逵を、柴進がなだめた。

「まあ待ちなさい、李逵。ここは梁山泊ではないのだ。今は滄州の屋敷にあるが、丹書鉄券さえあれば殷天錫など訳もない。太祖の代から下賜された、法に基づく由緒正しいものなのだ」

「法が何だというのだ。もし法が頼りになるならば、世の中がこんなに乱れたりはせんでしょう宋江の兄貴だって、危険な目に合わずにすんだんだ。裴宣だって、そう言ってたぞ」

 柴進は李逵の言葉に唸った。確かに、その通りだとも思えた。この宋という国の現状を見ると、法よりも金の方が力を持っていると言わざるを得ない所がある。

「分かった。お前の言う事も分かる。裴宣が誰だか知らぬが、まずは私に任せてくれ。お前に頼りたい時は、ちゃんと声をかけるから。良いな」

 李逵が鼻を鳴らして胸を反らせた。そこへ使用人が血相を変えて駆けこんできた。

「奥さま、旦那さまが」

 柴皇城が弱々しく目を開けていた。微かな吐息と共に微かに言葉を紡いでゆく。

「叔父上」

「わたしは、ここまでの、ようだ。最期の、たのみだ。この件を、都の天子に直訴して、くれないか。私には子も無く、近くにいるあの穀つぶしは、あてにならない。頼りになるのは、お前だけなのだ、進(しん)よ。くれぐれも、祖先の名を、辱めないようにな」

 柴皇城は喘ぐように告げると、最後の息を吐いた。

「叔父上」

 柴進は柴皇城の手を握り、大粒の涙をはばかることなく流していた。

 柴進の唇は、血の滲むほど噛みしめられていた。

 喪の準備が整えられた。一族、使用人に到るまで喪服を着、祭壇を設え、僧を呼び柴皇城の仏事が執り行われた。

 それから三日経った昼どき、使用人が慌てて飛んできた。

 殷天錫がやって来た、と告げた。この日は、殷天錫が一方的に決めた、約束の十日めであったのだ。

 ごろつきどもに囲まれ、馬上でふんぞり返る殷天錫が口元を歪めた。

「おい、今日が約束の日のはずだぞ。貴様ら、何をしているのだ」

「あなたが殷天錫ですか。ご覧の通り、喪に服しているところです。お引き取り願いましょう」

「なんだ貴様は」

 ねめつけるような殷天錫の視線にも、柴進はあくまでも態度を崩さず威厳のある振る舞いをした。ごろつきどもが、わらわらと柴進を取り囲むように近づいてくる。

「私はこの屋敷の主の甥で、柴進と申すもの。叔父は、どこぞの野良犬に襲われてしまい、残念ながら命を落としてしまいました」

 殷天錫は一瞬、きょとんとした顔になる。柴皇城は、自分が痛めつけたはずだが。と、そこまで考えた所で、顔を真っ赤に染めた。

「貴様、この俺を野良犬だと」

「私は、そんな事を言ってはいませんが」

「うるさい。野郎ども」

 殷天錫のかけ声で、手下たちが一斉に武器を構える。それでも柴進は怯む様子もなく、殷天錫を見据えている。

「俺は優しいのだ。今すぐ出て行けば、命だけは取らないでいてやるぜ」

「我が柴家には、宋の太祖より丹書鉄券を賜っている。私に手を出すことはできぬぞ」

「そんな話、聞いた事もないね。今ここでその丹書鉄券とやらを見せてくれれば、考えないでもないがな」

「ここには無い。今、使いの者が取りに行っているところだ。だが、ここにあってもなくても丹書鉄券の力に変わりはない」

「ここには無い、というのだな」

 柴進は言葉に詰まった。何か嫌な予感がした。殷天錫は目を細め、じっと柴進を見ている。そして、ふんと鼻を鳴らすと邪悪そうに口の端を歪めた。

「お前ら、そいつを叩き出してしまえ。丹書鉄券など、あってもこの俺には効かぬ。なにせ俺は、あの今をときめく高太尉どのの一族なのだからな」

「何だと」

 へへへ、と下卑た笑みを浮かべながら、殷天錫の手下が柴進に刃を向ける。手下の一人が柴進に斬りかかった。しかし、その手下の動きが途中で止まった。

 李逵だった。李逵の色黒で大きい手が、手下の頭を掴んでいた。手下が動こうにも、びくともしないほどの力だった。

「どけい」

 李逵が手を離した。そして蠅を払うかのように、手下の頬を軽く張った。

 ぐきり、という音と共に手下の首が勢いよく回り、ほとんど真後ろを向いた。その手下の目が、まっすぐ殷天錫を見た。そして手下は白目を剥くと、そのまま地面に倒れた。

 誰も、声ひとつ発する事もできなかった。手下たちはもちろん、柴進さえも声を失った。

 李逵はむっつりと下唇を突き出し、眉を吊り上げていた。そして胸を反らせ、のしのしと殷天錫に近づいてゆく。

 殷天錫も馬上で動けずにいた。目の前で起きた事が飲み込めずにいた。

 動物が本能で危険を察するように、彼らも目の前の男、李逵が危険な存在だと直感していたのだろう。近づけば、いや動いただけで先ほどの男のようになってしまうと。

「おい」

 気付くと李逵が、殷天錫の前にいた。馬が微(かす)かに震えているように感じた。

「お前か、大官人の叔父さんを殺したのは」

 殷天錫の顔は恐怖と困惑、どちらも入り混じったようなものを張り付けたまま、まだ動けないでいた。かろうじて目だけを動かすと、手下たちが自分を見ているのが分かった。

「お、お、お前こそ、何者だ」

 殷天錫が声を振り絞り叫び、李逵を見下ろしてみせた。恐怖よりも、手下の前で情けない姿を見せる事などできない、という虚勢の方が勝ったのだ。

 だが李逵が、殷天錫の胸ぐらをむんずと掴んだ。熊のような力で引っ張られ、殷天錫が馬から落ちそうになる。

「おいらが質問してるんだ。お前が大官人の叔父さんを殺したのか、と聞いているんだ」

「だ、だったら何だというのだ。あいつがこの庭を俺に寄越さないから、痛い目にあわせただけの事だ。それが何だというのだ」

 その言葉を聞くと、李逵が笑った。

「お前なんだな。じゃあ、おいらがお前をぶちのめすのになんの問題もないな」

 ぐいっと殷天錫を馬から引きずり下ろすと、地面に放りだした。

 貴様、と起き上がろうとする殷天錫の腹に衝撃が走った。まるで巨大な岩でも落ちてきたかのようだ。それは李逵の足だった。

「おい、動くんじゃねぇぞ」

 そして李逵は狙いを定め、殷天錫に拳を振り下ろした。

 鈍い音が聞こえた。李逵は一度ならず何度も殷天錫を殴った。そしてその度に鈍い音と、殷天錫のくぐもった嗚咽が聞こえた。

 手下たちは、やはり動けなかった。殷天錫が殴られる度に体をびくりとさせ、その度に目を閉じた。

「やめろ、李逵。もういい、やめるんだ」

「む、大官人。もっとこいつを懲らしめなくっちゃ、駄目ですぜ」

「もういいのだ、李逵」

 やっと柴進が李逵を止めに入った時、殷天錫は何発殴られていただろうか。顔中を腫らし、目から鼻から口から血を流し、すでに息絶えていた。

 殷天錫が死んだ事を知った手下たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。主を失った馬だけが、そこに残された。

 まずい事になる。

 自慢げな顔をしている李逵を屋敷の中に戻らせながら、柴進は思った。

 殷天錫は、本人も言っていたように、高俅の一族に連なる者だ。殷天錫の死を知ったならば、その義兄の知府である高廉、ひいては高俅も黙ってはいないだろう。

 柴進は深く嘆息した。しかし自分には丹書鉄券がある。天子からのお墨付きなのだ。元はと言えば、殷天錫の方に非があるのだ。

 実のところ、李逵が殷天錫を殴った時、柴進は気持ちが晴れたのだ。

 柴進はどこかで憧れているのだろう、と思う。江湖を腕ひとつで渡り歩き、その力だけで生き抜いている豪傑たちに。だからこそ己の屋敷で、腕に覚えのある者たちを招き、彼らと交流をしているのだ。

 大周皇帝の末裔で地位も金も、何不自由なく柴進は持っている。

 丹書鉄券もある。だが、それがなければ、とも思う。己を貫く、何ものにも頼らない、力というものが欲しいと柴進は思う。

 たとえば、李逵のような。

 李逵と目が合った。

 李逵は、褒めてくれないのか、とでも言いたそうな顔だった。

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