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密会

 まだ日が昇るには早い刻限、通りを宋江がひとり歩いていた。

「押司さま、今日はお一人ですかい」

 唐牛児こと唐二哥だった。

 商売道具を一式担いでいる。仕事に向かう所だったのだろう。朝早くから健勝な男だ。

 しかし、よく声をかけられる日だ。

「なんだ牛児か。近頃はどうだ」

「なんだはないでしょう、押司さま」

 と笑う唐牛児。

「これからどこへ」

「うむ、少し飲みすぎてな。王爺さんの所で酔い醒ましの薬をもらおうと思ってな」

 宋江が来たのは婆惜の家がある方向だ。どうやら今日はそこで飲んでいたようだ。張文遠の件を本当に知らないのだろうか。

 唐牛児は思い切って聞いてみる事にした。

「そうですか。ところで押司さま、その」

「なんだこんな時にまた普請(ぶしん)か。博打もほどほどにせんといかんぞ」

「あ、いえ、その」

「どうした歯切れが悪いな。そうとう負けたと見える」

 ふふ、と笑う宋江を見て、牛児はどうしてもしどろもどろになってしまう。

 そんな牛児をよそに、宋江は懐を探ると、目を大きく見開いた。

「しまった、上着を忘れてしまった」

 ちょっと待っていろ、と反転し駆けだす宋江。

「ちょ、宋江さま」

 叫ぶ牛児の声など聞こえるはずもない。梁山泊からの手紙と金子を入れた上着を忘れてきてしまったのだ。

 婆惜にそれが見つかったらと思うと、八月の半ばだというのに身震いがした。先ほどの酔いもどこへやら。

 宋江は一散に閻婆惜の家へ走った。

「宋江さま、待ってくだせぇ」

 取り残された牛児はしばし呆然としていたが、商売道具を放りだすと後を追いかけはじめた。

 

 ほどなく宋江は婆惜の家へと戻った。

 肩で息をしながら、二階に目をやる。明かりが消えている。すでに寝てしまったか。

 戸に手をかけると、すんなりと開いた。戸締りもしてなかったようだ。

 不用心だな、と思いながら階段を上がる。婆惜を起こさぬよう、猫のように慎重になる宋江。

 部屋の戸を開け、暗がりを探った。衣桁を探り当てたが、そこに駆けたはずの上着がない。

 冷や汗が滲んだ。

 部屋の奥へゆっくりと進むと、つま先に柔らかいものが触れた。

 手を伸ばすと、それは宋江の上着だった。宋江は冷や汗を流した。

 軽い。入っているはずの手紙と金子が抜かれている。

 宋江は、はたと手を止めた。上着が濡れているのだ。水ではないようだ。

 手についたそれを嗅いでみる。少し鉄錆びた匂いがした。

 まさか。

 宋江は燭台を探りあてると、それを灯した。

 闇が一瞬で追いやられた。だが宋江の目に飛び込んで来たのは、目を覆いたくなるような光景だった。

 寝台と衣桁の間、そこに閻婆惜がくずおれていた。

 彼女の腹のあたりから血が溢れており、着物と床を濡らしていた。

「婆惜」

 宋江はそう叫び、駆け寄ると彼女の首元に触れた。弱々しいが辛うじて脈があった。

「婆惜、私だ、宋江だ。なぜこのような事に」

 それに応えるかのように婆惜がほんの少しだけ瞼を開けた。

「すみ、ません」

 婆惜は、闇の中に消え入りそうなか細い声で囁いた。

 そして安心したかのように蕾(つぼみ)のような唇をほころばせると、そのまま動かなくなった。

 婆惜、と誰に言うともなくつぶやく宋江は彼女の腹部に刺さっている刀を見た。

 それは宋江が護身用に持ち歩いていた懐刀だった。

 ゆっくりとそれを引き抜き、確かめるように顔に近づける。

 がたり、と背後で物音がした。

「お、押司さま、娘は、娘を」

 震える閻婆さんが、怯える目でこちらを見ていた。

 手には血に濡れた刀。着物も閻婆惜の血が染みて、返り血を浴びたようだ。

 まるで自分が閻婆惜を殺したみたいではないか。

「私が殺したようなものか」

 ぼそりと呟き、宋江は青白い顔でふらふらと立ち上がった。

 閻婆さんが、ひぃっと短い悲鳴を上げた。

 

 角(かど)を折れ、閻婆惜の家がある通りへ出た時である。路地の陰に隠れるようにしている人影を、唐牛児は見た。

 牛児は、その人影を確かめようと自分も物陰に潜んだ。その人影は、閻婆惜の家の方向をちらちらと伺っているようだった。

 見た事がある風貌だ。まだ暗くて顔ははっきりと見えないが、牛児はそう直感した。

 しばらく見ていると、その人影は何かを確信したように頷くと、路地から出てその場を立ち去って行った。

 牛児の直感は正しかった。

 走り去る人影、それは張文遠だったのだ。

「あの野郎、こんな所で何を」

 牛児は、彼がいた所に行ってみた。

 そこの地面に小さな染みができていた。顔を近づけると、どうやらそれは血のようだった。張文遠のものなのだろうか。

 するうちに空がほんのりと明るくなり始めた。

 婆惜の家の戸が開き、宋江と閻婆さんが出てきた。閻婆惜は出てこない。

 駆け寄った牛児は言葉に詰まった。

 宋江の着物は血に濡れ、両手も血で染まり、顔面は蒼白になり歩くのもやっとといった様子だった。

「押司さま、一体何があったんで」

 閻婆さんが睨みつけてきた。

「なんだ牛児、お前には関係ない話さ。あっちへ行きな」

「なんだ婆さん。俺は宋江さまと話してるんだ」

「うるさい男だね。いいさ、教えてやるよ。こいつはね、あたしの娘を殺しちまったのさ。だからこうして今から役所へ突き出してやるのさ」

 馬鹿な、と牛児が怒鳴り返す。

「おい婆さん、出鱈目ぬかしてるんじゃねぇぞ。押司さまとはさっきまで一緒にいたんだ」

「出鱈目はそっちだろう。あたしゃこの目でしっかりと見たんだよ」

 言いあう二人を宋江が制する。

「牛児よ。婆惜の死は私の責任だ。申し開きはきちんと役所でするよ」

「そんな押司さま。さっきまで一緒だったんだ、あんたじゃねぇのはお月さまだって知ってらぁ」

 牛児が説得するも、宋江の意志は固かった。

 三人はやっと開いたばかりの役所へと着いた。

「人殺しがここにおるぞ。わしの娘を殺した悪鬼が、ここにおるぞ」

 突然、閻婆さんが目を剥き、叫び出した。

 役人や行き交う人々も、何事かと三人に注目し出した。

「やめなさい、閻婆さん。私は大人しく出頭すると言っておるだろう」

「お役人さま、この男を早く捕まえてください。この人殺しを」

 宋江の弁など聞く耳も持たず、閻婆さんは唾を飛ばす。

「やめろって言ってんだろ、婆あ」

 唐牛児が閻婆さんを引き離そうとするが、枯れ枝のような腕はしっかりと宋江の服を掴んで離さない。恐ろしいほどの力だった。

 取り巻きの人々は、渦中の人物が宋江だと知って、閻婆さんに冷笑を送っていた。

 常日頃から及時雨と慕われる宋江が殺人などするはずもない。大方、あの婆さんの狂言か何かなのだろう、と騒ぐ訳でもなく遠くから見るだけであった。

 閻婆さんを抑えている牛児が突然叫び出した。

「奴だ。押司さま、奴です。奴が婆惜を殺したんです」

 牛児は通りを歩いていた男に掴みかかった。

「見てください。婆惜をやった時に怪我したんですぜ」

 その男は張文遠だった。

 牛児は彼の左手首を掴んで、袖を捲り上げた。手には包帯が巻かれており、かすかに血がにじんでいた。

「押司さまが婆惜の家へ行った時、路地の陰からこいつが伺っていたのを、おいらは見てたんです。こいつが去った後に行ってみると、そこに血が落ちてました。きっと閻婆惜に斬られたんでしょう」

「なんだお前は、離せ」

 唐牛児を振りほどこうとするが、その手はしっかりと張文遠を捕えて離さない。

 そこで張文遠は役所の捕り手を呼んだ。

 彼らに取り押さえられる牛児。さらに張文遠は捕り手に命じる。

「おい、ぐずぐずしないで、そこの人殺しとやらを捕まえるんだ」

 だが捕り手たちも宋江の人柄は知っている。互いに顔を見合わせ、どうしようという表情だ。

「押司さま、今だ。とりあえずここから離れてくだせぇ。後の事はおいらが」

 宋江も困惑していた。

 牛児は張文遠が閻婆惜を殺したと言っている。本当にそうなのか。

 閻婆さんは、牛児と張文遠のやり取りに注意が向いていた。それに気づいた宋江は、閻婆さんの手をひきはがし、駆けだした。

「すまない、牛児」

 そう叫ぶと人混みに紛れ、姿を消してしまった。

 はっ、と我に返った閻婆さんは唐牛児を指さし罵りだした。

「お前が余計な事をするから、あいつが逃げちまったじゃないか。お前も人殺しの仲間だよ」

「よし、その男を引っ立てよ。婆さん、あんたは証人だ。一緒にこっちへ来てくれないか」

 張文遠が叫び、捕り手は唐牛児を引き離すと連行した。閻婆さんもそれについて行く。

 宋江は逃げたが、すぐに捕まるだろう。

 唐牛児に怪我を暴露された時は冷や冷やしたが、少し痛めつけて宋江が犯人だと言わせれば一件落着だ。

 張文遠は掴まれていた手首をさすった。

 包帯がさらに赤く染まっていた。

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