108 outlaws
密会
三
目まで隠れるほどの笠をかぶった男が、茶店の外に立って中を窺っていた。
大きな包みを苦もなく背負っており、腰には刀を手挟(たばさ)んでいる。着物の上からでもわかる逞しい体から醸し出されるただならぬ雰囲気から、明らかに市井(しせい)の者ではないことが知れた。
指で笠を上げ店内を見回し、宋江と目があった。男はしばし宋江を見つめ、店の前から離れて行った。
誰だ。見覚えがある顔だ。どこだったか、思い出せないが確かに知った顔だった。
勘定を卓に放り、宋江は男の後を追った。
路地を曲がると、男が目の前にいた。
驚く宋江を尻目に、男が恭しく拱手した。
「先日は誠にお世話になりました。本日はそのお礼をしたいとやって参りました、宋江どの」
やはり男の方は自分を知っている。だが宋江が思い出せないでいると、男は笠を外し顔を見せた。
「そうか、まだ直にお会いした事はありませんでしたな」
赤茶けた髪をした鬼のような男は、劉唐と名乗った。
宋江が晁蓋捕縛の発令が出る前に知らせてくれたこと、その礼をするために鄆城県まで遣わされたのだという。
思い出した。その時に庭にいた男の一人だ。
「なんて無茶な事を。誰かに見つかったらえらい事になるぞ」
慌てて笠をかぶせ、路地の奥へ連れてゆく。
「ご心配かたじけない。死も覚悟で来ておりますゆえ」
にやりと笑う劉唐だが、その目に覚悟が見てとれる。言っている事は本気のようだ。
「わかった。立ち話も何だから、どこかへ入ろう」
宋江は劉唐を連れ、町はずれの居酒屋へと向かった。
二階の席をとり、人払いをする。
笠を取り、改めて劉唐は宋江に礼を述べた。
「晁保正はご健勝かね」
劉唐が語り出す。
宋江の連絡で東渓村から脱出し、追っ手の何濤を返り討ちにした事。その後、王倫を討ち、晁蓋が新頭領となった事。さらに黄安の討伐部隊を完膚なきまでに叩きのめした事をつぶさに語った。
「宋江どのには返しても返しきれぬご恩がございます。つきましてはこちらを」
劉唐は晁蓋からの手紙を宋江に渡すと、背負っていた大きな包みを卓の上で広げた。中から出てきたのは、まばゆいばかりの金子(きんす)だった。
宋江は手紙を懐にしまい、卓に手を伸ばすと小さな金子をひとかけらだけ掴んだ。
「劉唐どの、わざわざ来ていただき礼を言う。晁蓋どのと一同のお気持ちは受け取ったよ」
「そんな、そんな事をされては俺が晁天王に叱られてしまいます。どうか全てお納めください」
「いやいや、山寨も今は何かと物入りだろう。私も金には困っておらんが、受け取らぬのはかえって失礼だ。気持ちとして、これだけいだたく事にしましょう。残りは梁山泊のために使いなさい」
しかし、と劉唐は何度も宋江に頼み込んだ。だが宋江も受け取らない、の一点張りだ。
「わかった、では晁蓋の兄貴宛に一筆書くから、それで良いだろう」
「それならば」
これ以上言っても宋江は受け取らぬ、と感じた劉唐はそこで身を引いた。
劉唐はこの後、朱仝と雷横にも礼の品物を届ける命(めい)を帯びていた。だがそれを知った宋江は慌てた。
やはり東渓村で晁蓋が逃亡出来たのは、あの二人のおかげという訳か。宋江は考える。
推測通り、実際に逃がしたのは朱仝の方だろう。雷横は義理堅いとはいえ、それほど器用な男ではない。
「わかった。二人とも私の顔見知りだ。朱仝は物持ちだから金など必要ないだろうし、あの男の性格からおそらく受け取るまい。雷横の方は、博打に目がないから何かあった時に足がつく恐れがある」
彼らには自分が伝えておく、と宋江は言った。
自分が晁蓋に注進した事を朱仝は勘づいているかもしれない。先日会った様子からも何となく感じられたが、雷横はおそらく気付いていまい。
これ以上、事を大きくはしたくなかったのだ。
一旦、話を終わらせ酒と肴を運ばせた。
酒を燗で頼み、大切れの肉や菜、ほかにつまみなどを並べさせる。
「今日は良いものがございまして」
と給仕が言うので、それを頼んだ。
しばらくして出てきたのは魚の餡かけ料理だった。
大きな鯉だった。近頃ではこれほどのものは珍しく、宋江も思わず唸るほどだった。
「梁山泊で獲れたものです。ずっと漁ができなかったんですが、頭領が変わってから、一般の漁師たちにも開放されまして」
給仕が微笑んで教えてくれた。
なるほど、晁蓋のおかげという事か。
その話を聞いている劉唐の表情は、どこか自慢げだった。
ひとしきり飲んだ二人は店を後にした。
八月半ば、もうじき月が昇る頃合いだ。
「近ごろ治安引き締めの令が出ていてな、もうあまりここへは近づかん方が良い」
「お気遣いかたじけない」
「うむ、晁蓋どのによろしく伝えてくれ」
劉唐は拱手をすると、その大きな体躯を翻し、闇の中へと消えた。
宋江は暗い通りを見つめ思う。
白昼堂々と現れるとは大胆な男だ。
今回は誰にも見つからなかったから良かったものの、と眉をひそめる。宋江の手は自然と懐をおさえていた。
「見つけましたよ」
背後からの声に、ぎょっと驚いて振り向く宋江。そこにいたのは閻婆さんだった。
「ど、どうしたのだ、こんな時間に」
「なんですか幽霊でも見た様な顔をして」
劉唐といたところを見られたのか。どうやって切り抜けようか。宋江の胸が早鐘のように高鳴る。
「やっと見つけましたよ、押司さま。何度も使いの者をやっているのに、少しも顔を見せてくれないのですから。今日という今日は逃がしませんよ」
「その、ずっと仕事が忙しくてな。すまないとは思っているよ」
どうやら心配は杞憂だったようだ。ここは勘づかれぬように、閻婆さんにおとなしく従った方がよさそうだ。
閻婆さんは宋江の袖をひっぱり、あの子が待ってますよ、と急かす。
「わかった、わかった。行くから手を放しなさい」
「わかってくれれば良いんですよ。押司さまに見捨てられたら、わしら母子はまた路頭に迷っちまうんですからね」
宋江は閻婆さんに引きずられるようにして家に連れて行かれた。
そう言えば、ここしばらく訪れていなかった。
王婆さんの、半ば強引な口添えがあったにしても自分で妾にしておきながら、と閻婆惜にも申し訳ない気持ちになった。
閻婆さんは宋江を案内すると、とっとと寝てしまったようだ。
「お変わりございませんか」
閻婆惜は宋江の上着を脱がせてやりながら、小さな声で言った。
「しばらく来られずにすまなかった。何か不自由している事はないか」
幾日ぶりだろうか。宋江は婆惜が注いでくれた酒を飲みながら言った。
「いえ、特に」
婆惜が目も合わせずに言うと、長い沈黙が訪れた。
やはり機嫌を損ねてしまっているらしい。本当に仕事が忙しかったのだが、一体どうしたものか。
話しかけても短い答えが返ってくるだけで、それ以上続かない。
閻婆惜も、何か言おうとしている様子なのだが、宋江はそれを上手く促してやる事ができないでいた。
もっと女性の扱いに長(た)けた者ならば、気の利いた話題でもできるのだろうが。
宋江は、自分はまったく野暮な性格だと改めて痛感するのであった。
気まずい沈黙の中、酒の量だけが増えていった。
「婆惜よ、すまぬな。明日も早いので帰る事にするよ。また近いうちに必ず寄るから」
思ったより酔っていたようだ。立ち上がった宋江の足がもつれ、よろめいた。
あ、と閻婆惜がそれを支えた。はからずも目と目が合う宋江と閻婆惜。
「すみません」
「すまない」
二人がほぼ同時に言い、閻婆惜ははにかむ様に口元をほころばせた。
宋江が帰り、婆惜は椅子に腰かけたまま身を固くしていた。
いつの間にか部屋の中に男が立っていた。
「まったく危なかったぜ。いつ勘づかれるかと冷や冷やしたが、野暮な野郎で助かったぜ」
額の汗を拭いながら男は閻婆惜に近づく。
その男は、宋江の部下の張文遠であった。
その夜、張文遠は酒を飲んでいた。杯を重ねるごとに思い浮かべるのは閻婆惜だった。あの晩の閻婆惜の姿を思い出し、居ても立ってもいられなくなり婆惜の家へとやって来たのだ。
二階に明かりが灯っている。閻婆惜は起きているようだ。だが家中には閻婆さんもいるようで、張文遠は陰に隠れて様子を見ていた。
すると半刻もしないうちに、戸締りもせずに婆さんが外へ出て行った。張文遠は、それを幸いとばかりに二階へと上がった。
「やっと会えたな、婆惜」
酒と興奮とで荒くなる呼吸を抑える事もせず、閻婆惜に近づいてゆく。
驚く婆惜は声を上げる事もできず、動く事さえできない。ぎらつく視線が婆惜を愛で回す。
「やめてください。人を呼びますよ」
閻婆惜は声を振り絞り、気丈にも言い放った。
だが張文遠は唇をさらに歪めて笑った。
「呼ぶが良い。俺とお前との関係は周知の事実だ。恥をかくのは、何も知らないお前のご主人さまの方でも良いのならな。もっとも婆さんもどっかへ行っちまったし、叫んでも誰も来やしないぜ」
「この痴れ者、恥を知りなさい」
「ほう、そっくりそのままお前に返してやるわ。あの晩は、ずいぶん乱れたようだったがな。思い出させてやるぜ」
張文遠に手首を掴まれ、ひっと短い悲鳴を上げる。
その時であった、階下で閻婆さんの声が聞こえた。
「ちっ、もう帰って来たのか」
誰か連れてきているようだ。
張文遠が、ばらすんじゃないぞ、と寝台の下に隠れた。そして婆さんと共に現われたのは、宋江だったのだ。
何度か閻婆惜は気付かせようとした。
だが張文遠が部屋にいる事が露見してしまえば、どんな言い訳もできるものではない。たとえ潔白であっても、女の部屋に男がいる、という事実を覆す事は出来そうもなかった。
何も言いだせぬまま時は過ぎ、やがて宋江は去った。
「まったく危なかったぜ」
寝台から這い出た張文遠はまた同じ台詞を言いながら、背伸びをした。
「今度こそゆっくりとできるな」
やめてください、と張文遠の手を払い距離をとる。
後ずさる婆惜の背が衣桁(いこう)にぶつかり、掛けていた物が落ちた。
宋江の上着であった。
床の上に、ごとりと音を立てて落ち、中から袋が顔をのぞかせていた。
やけに重たそうな音にいぶかしんだ張文遠が、さっとそれを拾い上げる。
袋の中には手紙と小さな金子が入っていた。
「おやめください、それは宋江さまのものです」
うるさい、とすがる婆惜を肘で遠のけると手紙を広げた。
張文遠は目を疑った。
なんと、梁山泊の頭領である晁蓋から宋江に宛てた手紙ではないか。
鼻息を荒くしながら、張文遠が手紙を握りしめる。
「とうとう宋江の奴もお終いだ。婆惜、お前も知っていたのか」
「何の事です。宋江さまが何をしたというのですか」
字は読めるだろうと笑い、張文遠は手紙を見せてくれた。
そんなまさか、という思いだった。宋江が晁蓋を逃がすのに一役買っていたなんて。
でもあり得る話だった。晁蓋と宋江は顔馴染みで、兄弟の付き合いだったと聞いた事がある。
「いつまで読んでいる、さっさとよこせ」
手紙をふんだくると、張文遠は金子をしげしげと眺めた。
「手紙と金子、動かぬ証拠を手に入れた。あの野郎、及時雨と言われておきながら、裏では山賊とつながっていたとは」
このままでは宋江は罪人となってしまう。何とかして手紙を奪い返さなくては。
閻婆惜は上着の側に落ちているもう一つの物に気づいた。
素早くそれを拾うと、閻婆惜は張文遠に向き直った。
「そ、その手紙を返しなさい。何かの間違いです、宋江さまがそのような事をするはずがありません」
婆惜の手には懐刀が握られていた。宋江が護身用に上着に入れておいたものだった。
「いい加減に目を覚ませ、婆惜。たった今お前もその目で見ただろう。これで奴は死罪となり、俺は昇進、そして正式にお前を手に入れるという訳だ」
ははは、と笑う張文遠に懐刀を突き出す。だがおよそ武器など持った事のない婆惜は、簡単に避けられてしまう。
「やめておけ。奴の命運は既に尽きたも同然だ。おとなしく俺の物になるんだ」
何とか体勢を立て直し、婆惜は再び刀を構えた。
いつか宋江が武器の扱い方を教えてくれた事を思い出す。もっと真剣に聞いておくのだった、と婆惜は歯がみをした。
「その手紙を返しなさい」
「やめろ、怪我をするだけだ。それよりも」
と、張文遠はにやにやしながら婆惜に近づいてゆく。
呼吸が荒くなる。落ち着くのだ。懸命に自分に言い聞かせ、婆惜は刀を逆手に構えた。
右手で柄を握り、左の掌を柄頭に添える。脇を閉め両手を胸のあたりに置き、祈るような構えになる。
確か、こうだったはず。
閻婆惜は渾身の力を込め、張文遠に向かって足を踏み出した。