108 outlaws
密会
五
張文遠は急ぎ、閻婆さんの代わりに訴状をしたためた。
現場の検証のため検死役人や関係者たちが送られ、再三の検死が行われた。
宋江のものである懐刀が床に落ちており、閻婆惜を殺した凶器だと断定された。また金子も落ちており、証拠品として押収された。
閻婆惜はすみやかに柩に納められ、寺へと運ばれた。
報告書を見て張文遠はうなった。晁蓋との関係を示す手紙が証拠品にないのだ。一体どこへ行ってしまったのか。まさか宋江が隠滅したのだろうか。
世を騒がす梁山泊との繋がりが露見するのを怖れ、口封じのために閻婆惜を殺害した。そうなれば宋江の死罪は間違いないと踏んでいたのだが、仕方あるまい。それでも捕まれば流罪は免れまい。
閻婆惜の死は張文遠にとっても望ましい事ではなかった。手紙と金子を突きつけ宋江を脅すつもりでいたのだが、まさか閻婆惜が奴の見方をするとは。
とっさの事で反応が遅れた。張文遠は体をかばうようにした左手を斬られた。
しかしそれに逆上した張文遠は刀を奪い取り、彼女の腹にそれを突きたてた。
うろたえた張文遠だったが、それを宋江の仕業にする事に決め逃げ出したのだ。
張文遠は左手首をさすりながらほくそ笑むと、閻婆さんを炊きつけるために出かけて行った。
知県は腕を組み、眉間に皺を寄せていた。宋江の人となりは知っている。彼は人殺しをするような男ではない、はずだ。
閻婆さんは直接犯行を見ていた訳ではなく、唐牛児こと唐二哥の証言も気になる。
彼は張文遠こそが犯人だと言っているのだ。
閻婆惜との痴情のもつれで殺害という線も考えられたが、これも確たる証拠はない。唐牛児の目撃証言による推論にすぎないのだ。
知県は宋江を罪人にしたくはないため、唐牛児を一時拘留し、ほとぼりが醒めてから釈放してやるつもりでいた。
だが閻婆さんが役所へ来ては宋江を捕えろとわめき散らし、張文遠も彼女の擁護をする。しかし唐牛児を何度打ち据え、詮議したところで彼の主張は変わらない。
仕方なく知県は唐牛児に罪を着せる事にしたが、張文遠は宋江が犯人だと言ってはばからず、宋家村にいる家族を人質にしておびき出そうと主張する。
宋江の父である宋太公の弁によれば、宋江は家の仕事を嫌い、勝手に役人になったため三年前に親子の縁を切り、籍を抜いているのだという。その証拠の文書があり、その写しを知県に提出してきた。
そのため知県は賞金をかけ、全国に手配書を交付する事でこの件を終わらせようとした。
しかしまた閻婆さんが役所に、髪を振り乱しながら泣いて訴えに来る。さらに張文遠も、そんなものは捏造(ねつぞう)だと言い、婆さんが州に訴え出たら我々の責任が追及されますぞ、と脅すような事を言ってきた。
魂が抜けるような溜息をつき、知県はしぶしぶ宋江捕縛の捕り手を出す事を決めた。
「おい、聞いたか。俺たちが宋江どのの捕縛に派遣されるらしいぜ」
部屋に駆けこんで来た雷横の言葉に、朱仝は微笑んだ。
「誠か」
それは良かった、と腰ほどまであるひげをゆっくりと撫でながら言った。
背がぴんと伸びた老人だった。
白髪ではあるが、杖もつかず足取りもしっかりとしている。いまだ現役で宋家村を治める宋太公であった。
朱仝と雷横は、率いてきた兵を控えさせ、太公に拱手した。
「ご苦労様です朱都頭、雷都頭」
「突然申し訳ございません、太公。ご子息の宋江どのの事で参りました」
「先日も役人が来て説明したはずだが、あれとは家族の縁を切っておる。すでに宋家の者ではない」
「ええ、それは伺っておるのですが、私たちも公務なもので念のため家の中をあらためさせていただきたい」
構いませんよ、と宋太公は二人を屋敷へと導いた。
朱仝が門を見張り、雷横が邸内の捜索に入ってゆく。兵たちはすでに屋敷を取り囲んでいる。
宋太公はというと、顔色ひとつ変えず悠然と構えている。
「中には誰もいなかったぜ」
しばらくして出てきた雷横が言った。
「納得していただけましたかな、お二人とも。わしも法は知っている身、匿いなどいたしませんよ」
「ちょっと待ってください。私にも確かめさせてください」
朱仝はそう言うと、雷横に宋太公を見張らせ、邸内へと赴いた。
門を閉めると、内から閂(かんぬき)をかけ、奥へと進む。
朱仝は家探しをせずに、ある場所を目指していた。
迷う事なく歩き、やがてその場所へと着いた。
そこは仏間だった。
正面に鎮座する金色(こんじき)の仏。そしてその前には供物台が置かれている。線香立てにはすでに灰となった線香がその形を残したまま横たわっている。
朱仝は供物台へ近づくと、それを横へのけた。仏像が柔和で厳格な視線で朱仝を見下ろしているが、朱仝は意に介する様子もない。
供物台があった床に扉のようなものが現われた。その隙間からは紐のようなものがはみ出していた。
朱仝は手を伸ばし、ほんの一瞬だけためらうと唇を固く結び、その紐を引いた。
床下で鈴らしき音が聞こえた。
扉がゆっくり持ち上げられると、中から人が顔を覗かせた。
朱仝と目が合い、驚いた男は誰あろう及時雨の宋江、その人であった。
官(かん)になるは易(やす)く吏(り)になるは難(かた)し、か。
宋江は暗い地下室の中で、一連の事を思い起こし溜息をついていた。
実力が無くとも高官の縁故者でありさえすれば官となり、権力を欲しいままにできる。
しかし自分のような小役人が、ひとたび問題を起こしてしまうと軽くて流刑、ともすれば家財没収の上、死罪もおかしくないのが今の世だ。
ふと梁山泊討伐に失敗した何濤や、その上役であった前任の済州知府を思い出した。
生辰綱を二年連続で強奪された梁世傑は何の咎めもなく、責任を取らされるのは下っ端の者なのだ。
三年ほど前、戸籍を抜き地下室を用意してくれた父に向かって、そんな事は必要ないと笑っていた自分を恥ずかしく思う。
穴の中で、宋江は父の思慮深さに感謝した。
宋江は動かずにじっと考え続ける。
あの時、自分は言い逃れせずに身の潔白を証明しようとして役所へと向かった。しかし唐牛児の言葉を聞き、その場から逃げた。
牛児の言うように、閻婆惜を殺したのは張文遠なのか。
婆さんが騒いでいたとはいえ、有無を言わさず自分を捕えようとしたあの様子からすると本当かもしれない。
すまない、婆惜よ。
唐牛児にも申し訳ない事をした。今ごろ痛めつけられているのだろうか。真相を暴き、必ず牛児に報いなければ。
すると入口から下がっている鈴が鳴った。父からの合図だ。捕り手たちが去ったのだろう。
喜んで扉を開けた宋江だったが、そこにいたのは都頭の朱仝だった。
「やはりここでしたか、宋江どの」
宋江は口を開けたまま固まっていた。
「心配しないでください。あなたを捕えに来たのではありません」
朱仝の優しげな目を見て、ようやく宋江は警戒を解いた。
「しかし、どうしてここが」
「深酒には注意した方が良いですぞ、宋江どの。人助けばかりしているから、いろいろ溜まっているものを吐き出してしまう事もある」
どうやら酒の席でうっかり漏らしてしまったらしい。今後は気をつけなければならないだろう。
うなだれる宋江に、朱仝は続ける。
「知県さまも私たちも宋江どのを捕えたくはないのです。ですが閻婆さんと張文遠が毎日のように騒ぎ立てるものですから、我々も動かざるを得ない状況なのです」
しばしの沈黙の後、朱仝は続けた。
「一度だけ伺います、宋江どの。閻婆惜を殺したのはあなたですか」
宋江は真っ直ぐに朱仝の目を見つめ、きっぱりと言った。
「違う。私ではない」
朱仝の表情が緩み、場の緊張も一瞬で解けた。
「その言葉で確信しました。後の事はうまく処理します。あなたはどこかへ身を隠して下さい、宋江どの」
「この恩は必ず返させてもらう。そうだ朱仝、やはり晁蓋どのもお前が」
みなまで言わせず、朱仝は長い髯を撫でながらにっこりと微笑んだ。人好きのする優しい顔だった。
何事もなかったように仏間から出た朱仝は、雷横と宋太公の元へ戻った。
「うむ、やはりどこにも潜んでいないようだ」
ほら見ろ、という顔で雷横が見てくる。
朱仝は眉間に皺を寄せ、険しい顔で言った。
「こうなれば仕方あるまい。宋江どのの代わりに、父君と弟君に役所へご足労願わねばならんな」
すると朱仝と宋太公との間に割り込むようにした雷横が言う。
「おい、待ってくれよ朱仝」
「何だ、雷横」
「押司どのの人柄を知ってるだろう。あの人が人殺しなどするはずがねぇ、きっと何かの間違いだ。太公どのの書類だって本物だ。ここは引き下がろうじゃねぇか」
む、と渋い顔をする朱仝。
聞けば宋江の弟である宋清(そうせい)も近くの村へ農具を手配に行っており、ここにはいないという。
雷横に疑われないようにわざと厳しい事を言ったのだが、と朱仝は心中でほくそ笑み、
「わかったよ。お前がそこまで言うのなら、私だって憎まれ役にはなりたくないさ」
と、書類の写しをもう一度取り、兵を引き連れて役所へ報告に戻る事にした。
朱仝はつくづく良い相棒を持ったものだ、と雷横の顔を見ていた。
「なんだ、俺の顔に何かついてるのかい」
ははは、と朱仝が大声で笑い、雷横はきょとんとした顔をしていた。
屋敷の前では、一行が立ち去ってもなお、宋太公が礼の姿勢のまま二人を見送り続けていたという。
朱仝と雷横の報告を受け、知県はこの件を全国に手配書をまわすのみで終わらせる事にした。閻婆さんには今後の生活の金を渡し、州役所への上告を思いとどまらせた。
唐牛児は宋江を逃した罪のみを問われ、遠方への流罪に処される事になった。朱仝は護送役人たちに賄賂を渡し、道中間違いがないように手を回した。
張文遠も、これ以上閻婆さんの協力が得られなくなった事もあり、大人しくなったようだ。
やがて人々は忙しい日常に追われ、この事件も記憶から薄れていくようであった。
鄆城県から少し離れた夜の林道を、闇に紛れるように二つの人影が移動していた。
木々の向こうから気の早い梟(ふくろう)の声が聞こえてくる。
「お前にまで迷惑をかけてしまったな、清(せい)」
先を進む宋江が振り返り言った。
「仕方ないさ。兄さん一人では心もとないからね」
弟の宋清がそう答えた。
家の仕事を継ぎ、家族もいる宋清だったが、父の命令ではなく自分から同行を申し出たのだ。妻と幼い息子は村で宋太公が面倒をみる事になっている。
農業に従事する彼は宋江と同じくらいの背丈だが締まった身体をしており、背負う重そうな荷を苦もない様子でしっかりと歩いていた。
荷には旅に必要な銭や着物類、雨具、予備の草鞋など一式が詰め込まれていた。他に父が渡してくれた、かつて親交があったという名医の処方薬も入っていた。
「ところで兄さん、どこへ落ち着くのか決めたのかい」
あまり表情が変わらない宋清だが、これでも自分の事を心配してくれているのはよく分かっている。
宋江が考えていた行き先は三ヶ所。
まずは滄州、横海郡の柴進の館。柴進も世話好きで知られ、宋江はかねてより手紙のやり取りをしていたのだ。
次に青州清風寨(せいふうさい)。宋江が若い時分、青州のある将軍に学び、彼の息子と義兄弟の仲となっていたのだ。しばらく尋ねていなかったが、今はその息子がそこの副知寨を務めているという。
最後に白虎山(びゃっこざん)にある富豪の屋敷。かつて宋江の元へ押しかけ弟子に来たのは、ここの富豪の息子たちであった。
「ああ、決めてある」
二人は黙々と歩き続ける。
夜歩くのは危険だが、今晩の内に少しでも鄆城からは離れておきたかった。
月明かりを頼りに二人は少し小高い丘の上にたどり着いた。
宋江は立ち止まり振り返ると笠を上げ、目を凝らした。遠くに宋家村の明かりが見えた。
「すまぬ、父上」
宋江は唇をかみしめ、目を閉じると生まれ故郷に別れを告げた。
この先は木の生い茂る林を抜けねばならない。
宋清を伴い林へと入った宋江は、この真っ暗で見通しが利かない道を、まるで己の人生のようだと感じた。
横を見ると宋清が何事もないように、黙々と歩いていた。
思わず拍子抜けした宋江は、弟の顔を見て考えた。
己だけではない、誰もが生きてゆく先など分かるはずもないのだ。ならばあれこれ考えても仕方ないではないのか。
「どうしたんだい兄さん」
「ん、いや何でもない」
まったく頼もしい弟を持ったものだ。
気持ちも軽くなり、背中の荷も心なしか軽くなったような気がした。
もう溜息をつくのはやめようと、宋江は思った。