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夜雨

「しかし蔡京の奴め、勝手な真似を」

 童貫は馬に揺られながらひとりごちた。

 生辰綱強奪に関し、晁蓋らと共謀したとされる楊志という男が、二竜山にいるという事が判明した。

 晁蓋および梁山泊討伐に失敗した蔡京は、今度は楊志の首を取ろうとしたのだ。

 失敗する事は許されない。そこで蔡京は国で最強の軍である禁軍の出動を要請した。

 もちろん禁軍を束ねる童貫はそれに難色を示した。

 いくら宰相の地位にあるとはいえ、己の恨みを晴らすために出動させるなど。禁軍は帝ひいては東京開封府を守るためにあるのだ。

 そして童貫は強く思う。なによりも禁軍はわしのものなのだ、と。

 頑として拒み続ける童貫に蔡京は囁いた。

「次の朝議で帝に申し上げるつもりだ。近ごろ太行山系の山賊どもが連合を組み、この東京開封府を狙っている、と。そやつらが大きくなる前に叩きつぶすには、禁軍の力が必要であります、とな」

 童貫は二の句が継げなかった。

 無言の童貫を尻目に、蔡京が続ける。

「今の帝は臆病な男だ。この奏上を退けるはずがあるまい」

 案の定、その奏上は通った。

 だがさすがに禁軍の出動が許可される事はなかった。

 禁軍の実権を握る高俅がそれを拒んだし、徽宗も実のところ禁軍を都から離れさせる訳にはいかなかったのだ。

 だが蔡京の思惑通り、討伐隊の司令官には童貫が指名された。百戦錬磨の童貫であれば、失敗などございません、などと思ってもいない事を皇帝に耳打ちしたのだろう。

 兵は二竜山の近くの孟州(もうしゅう)から、地方軍である廂軍(しょうぐん)を招集する事になった。

だが童貫も使いなれない兵たちに己一人で指揮する事は心もとなかった。童貫がそれを奏上し、禁軍から二人の配下を連れる事を許された。

 御前大将軍の豊美(ほうび)と畢勝(ひっしょう)である。

 王進や林冲という名前に隠れてはいたが、この二将の実力は相当のものであった。

 林冲などに比べ、個人での武芸は劣るかもしれない。だが、こと戦の場においては彼らの力が勝るだろう。もちろん個人の武芸の腕も大切だが戦とは集団での力をより発揮した側が勝利を得られるのだ。しかしてこの豊美と畢勝は戦場でその才能をいかんなく発揮できる軍人なのだ。

 童貫はそう思いながら先頭を進んでいた。少し後方に件(くだん)の二将。

竜を模した兜をかぶっているのが飛竜将の豊美。隣の虎の兜が飛虎将の畢勝である。二人は無言で馬に揺られている。

 童貫は軽く鼻から息を吐くと、手綱を握り直した。

 

 すでに夜は更け、あたりは闇に包まれていた。だが部下たちに松明などは持たせていない。

 夜襲である。

 ほどなく二竜山の山影が見えてきた。

 道はさらに暗くなっていたが、それでも歩を緩める様子はなかった。

 言葉ひとつ聞こえない。ただ土を踏む足音と、擦れ合う鎧の音だけが規則的に聞こえてくるだけだった。

 月がいつの間にか黒雲に覆われていた。

 畢勝が目を細め、闇の夜空を確かめている。

「童貫将軍、来ます」

「うむ」

 と、童貫が低く答えた。

 雲の中で何かが光った。

 その一瞬のち、天を引き裂かんばかりの轟音が鳴り響いた。

 びりびりと空気も、そして体も震えるくらいの大音声(だいおんじょう)だった。

 豊美の鼻に雨粒が一滴、落ちてきた。

 そして兜にもう一滴。肩に、馬の背に、手の甲に。

 やがて無数の雨粒が童貫軍に襲いかかった。

 今度は雲の中に稲妻が走るのが見えた。一瞬、あたりが昼間のように明るくなった。二竜山の山影がくっきりと浮かび上がった。

 道は徐々にぬかるみだし、息の荒れる馬もいた。

 だが行軍は止まらない。

「童貫将軍、あれを」

 豊美の示す先に明かりが見えた。

 民家か。いや、ここは二竜山の麓だ。茶屋か酒屋だろうか。

「豊美、畢勝、まずはあそこからだ」

「はっ」

 号令を発し、部下たちをその家へと走らせた。

 また空が光り、童貫の顔を照らし出した。

 宦官とは思えない、ひげを蓄えた軍神の姿がそこにはあった。

 

 宝珠寺の扉が無残に破壊されていた。

 境内からは剣戟がぶつかり合う音、そして怒号や悲鳴が入り混じって聞こえてくる。

 また一人、水溜りの中に倒れ伏した。動かなくなった体に、折からの豪雨が容赦なく降り注いでいる。

 襲い来る官兵たちを次々に切り伏せてゆく。足もとがぬかるみ、不安定であるがそれを感じさせない太刀筋であった。

 雨で濡れた髪をかきあげ、顔を歪ませる。雨の音に混じって喚声があちこちで聞こえている。

 きりが無い、楊志はそう思ったが、その場を離れられないでいた。

「よせ、お前らの敵う相手ではない」

 馬に乗った将兵らしき男がそう言って近づいてくる。虎を模した兜をかぶったその男から途方もない威圧感を感じる。

 楊志は呼吸を整え、刀を握りなおし、将兵と対峙した。

「我が名は飛虎将、畢勝。青面獣よ、覚悟せい」

 言葉と同時に馬が駆け出し、楊志も畢勝に向かって駆けた。

 畢勝が刀を抜き、楊志と切り結ぶ。

 きいん、という音が境内に響き、楊志は泥の中を転がって勢いを殺しつつ態勢を立て直した。そして、すぐに立ち上がり刀を構えた。

 だが楊志の手にあった刀は、その刀身の半分を失っていた。

 折れたのではない、斬られたのだ。

「さすが宝刀と呼ばれるだけはある。楊志よ、こいつの真価はお前も良く知っているだろう」

 もちろん楊志は良く知っていた。

 畢勝が手にしている刀こそ、東京で牛二を刺し殺してしまった刀、楊家伝来の鉄をも両断する宝刀であったのだ。

 あの時、証拠品として押収されていたはずだったが、こんな形で再び出会うとは。

「何がおかしい、楊志」

 刀を斬られ、得物を失ったはずの楊志は、我知らず笑みを浮かべていた。

 

 建物の中も、あちこちが破壊されていた。壁、柱、卓や椅子も竜巻にやられたかのような有様だった。

 床には官兵たちが転がっている。その多くが頭を打ち砕かれていた。

 ごう、という唸るような音の後に破壊音が続く。官兵たちが四人ほどまとめて吹っ飛び、地面に転がった。

 魯智深は禅杖を地面に突き立てた。地響きのような振動が響いた。壊れかけた壁や梁がびりびりと震えていた。

「まったく、きりが無いわい」

 ため息をついた魯智深は一人の男を視界に捉えた。

 竜を模した兜をかぶっており、偃月刀(えんげつとう)を手にしている。ひと目で他の官兵とは格が違うと知れた。

「ほう、骨のありそうな相手がやっと出てきたか」

 にんまりとする魯智深に対し、その男は無表情であった。

「我は飛竜将、豊美。いざ参る」

 がきり、と偃月刀と禅杖がぶつかりあう。

 魯智深は力で偃月刀を抑え込む。しかし豊美はその勢いを利用し、円を描くように反転すると上から刃をたたき込んだ。

 紙一重で魯智深はそれをかわした。僧衣の袖が少し切れていた。禅杖を横薙ぎに払い、距離を取る。

「おいおい、こいつは一張羅(いっちょうら)なんだがな」

 魯智深は笑みを浮かべたまま袖をつまんでみせた。豊美の表情は変わることがない。 

 気合と共に魯智深が豊美に向かって駆ける。豊美は動かずにそれを迎える。十合、二十合と打ち合うがどちらも決定打にはならない。

 魯智深が剛だとすれば、豊美は柔だった。圧倒的な力を頼りに打ち込む魯智深の攻撃をうまくいなし、豊美が隙を見ては刃を煌かせる。

「なかなかやるのう」

 そう笑う魯智深の耳に、遠くの方での戦闘の声が聞こえてくる。

 自分と楊志がいるとはいえ、二竜山のほとんどは訓練された者たちではない。このままでは全滅の憂き目にあってしまう。

 魯智深は禅杖を頭上で大きく振り回した。

「お主とは別のところで会いたかったぞ」

 ふん、という気合と共に周りの壁や柱を無差別に叩き壊しはじめた。予想外の行動に豊美は困惑の表情を浮かべた。

 みるみる壁や天井が崩れ落ちてくる。巻きあがる埃に魯智深の姿が薄れてゆく。

 豊美が魯智深を追おうとするが、そこに天井が崩れ落ちてきた。豊美は反射的に飛びのいた。目を細め、手をかざすがあたり一面に埃が舞い上がっており、何も見えない。

 しばらくして視界が晴れた時、そこには瓦礫の山があるだけで、魯智深の姿はやはりあるはずもなかった。

 

 雨が弱まる気配はなかった。

 暗雲の中を稲妻が駆け抜ける。一瞬だけ、昼よりも明るく一帯が照らし出される。

 蒼い顔の獣がそのただ中に立っていた。

 閃光の数瞬後に響き渡った雷鳴にも怯むことなく、飛虎将に向かって駆ける。目は畢勝が手にした、元は楊志のものである宝刀に向けられていた。

 脇から現れた官兵たちが楊志に斬りかかって来た。楊志は刃が半分しかない刀でそれらを蹴散らした。

 武器のあるなしではない、単純な技量の差のみで官兵たちを斬り伏せた。

 駆けながら身をかがめ、官兵が落とした刀を拾う。そして折れた刀を畢勝に投げつけた。

 馬上で首だけを傾(かし)げ、畢勝はそれを避けた。

「無駄なあがきを、何度来ても同じ事だ」

 再び宝刀を構える畢勝の目の前に影が飛び込んできた。

 影は大きな槌(つち)のようなものを持っていた。

 それを大きく振りかぶると、畢勝が乗る馬めがけて打ちつけた。

 馬上の畢勝にまで響く衝撃と共に、馬が膝から崩れ落ちた。馬はすでに白目をむいており、額には穴が開いていた。

 影の持つ槌は平面ではなく尖っていて、そこに血がついていた。

「すまんな、馬よ。お前に恨みはないのだが」

 そう言って男は畢勝に向けて槌を構えた。

 稲妻が再び天を駆け抜ける。

 男の顔が雷光に照らされる。

 楊志が叫んだ。

「曹正、無事だったのか」

 曹正は体に包帯を何重にも巻いていた。包帯が雨に濡れ血が滲み、まるで全身が血に濡れているかのようであった。

 家畜を屠る際、その牛や羊の額を打ち抜く。操刀鬼と呼ばれる曹正は屠殺にも精通しており、その体格に似合わぬ器用な男だった。先ほど畢勝の馬を一撃で倒したのはその技だったのだ。

「遅くなりました、楊志どの」

 槌を畢勝に振り下ろす曹正。

 しかし力を入れた刹那、泥に足を滑らせてしまった。体勢を崩しながらも懸命に打ちつけるが、畢勝の鼻先をかすめ、槌は地面の泥を跳ね上げただけだった。

 しまった、と焦る曹正。しかし、それで充分だった。

 楊志は、その一瞬で距離を詰めると畢勝に斬りかかった。畢勝は刀で防ぐので精いっぱいだった。

 楊志は刃ではなく斜めから刀の腹に叩きつけた。畢勝の手が衝撃で痺れた。

 さらに雨と泥で滑りやすくなっていたのか、宝刀は畢勝の手を離れ地面へと落ちた。

 楊志がそれを見逃すはずがなかった。しかし、楊志が刀に手を伸ばそうとした、その時だ。曹正が地面に膝をついた。顔色は青白くなっているようで、すでに腕は力を失い槌は泥の中で雨に打たれていた。

 楊志は伸ばした手の向きを変え、曹正の体を支えた。巨体の重みがずしりと腕にのしかかる。

「しっかりするんだ、曹正」

 楊志は曹正の腕を取り、自分の肩に回す。下から曹正を持ち上げるようにして、宝珠寺の本堂へと駆け出した。

 畢勝は刀を拾おうとしたが、手がまだ痺れておりうまく握ることができなかった。

 泥の中で立ち上がり、部下たちを集めた時には、すでに楊志と曹正の姿はそこになかった。

 

 本堂の奥に隠し通路があった。

 鄧竜からこの二竜山を奪った後、曹正が見つけたものだ。

 鄧竜の部下だった者も通路の存在は知らなかったようで、どうやら宝珠寺が建立された時には、すでに作られていたと思われた。

 気を失っている曹正を魯智深が担ぎ、生き延びた配下の者たちが続いてゆく。殿(しんがり)を楊志が務め、先頭は松明を持った曹正の義弟が進む。

 寺側からの通路の入り口はすでに壊してきており、追ってこられる心配はなかった。こういう場合のために、と曹正が工夫していたものだった。

 曹正の義弟が魯智深と楊志に向けて詫びた。

 童貫の軍勢は夜陰と豪雨に乗じて攻めてきた。見張り役でもあり、官軍が攻めてきたならばすぐに二竜山に連絡をしなければならない曹正だったが、その間も無く突然襲われたのだ。

 曹正の店は普通の居酒屋である。二竜山の頭領である魯智深、楊志と親交があるが、それは知る人ぞ知る話だ。

 しかし童貫は何の確証もなく躊躇(ためら)いもなく、曹正の店を襲った。

 虎が獲物を狙うのに、邪魔な枝を払うかのように、当然のことだと言わんばかりであった。

 曹正も店の者も必死に抵抗した。だが曹正は負傷し、店は破壊され燃やし尽くされた。

 何とか隠れた曹正の妻と義弟とが曹正を介抱し、この通路を逆にたどり宝珠寺へと向かったのだ。

 その頃には、童貫軍は二竜山を登り、宝珠寺を攻撃していた。そこに曹正が到着し、義弟を待機させ、楊志と魯智深の救出に飛び出したのだった。

「これからどうするんだ、青面獣よ」

 よっと、と曹正を背負いなおし魯智深が尋ねた。もうすぐ二竜山の裏手に出る。曹正の店があった場所の近くだ。

「うむ、すこし遠いのだが行く当てはない事もない。まずは雨がやむのを待ち、体を休めようではないか」

 そう言って前を歩く魯智深や配下たちを見ていると、ふと目の前に数か月前の自分が見えてきた。

 黄泥岡(こうでいこう)を必死に登る部下たちを鞭で追いたて、檄を飛ばす。休みたいと訴えてきても、許さなかった己の姿がそこにあった。

 誰もわかっていない。自分だけが必死に頑張っていると思っていた。

 それは違った。わかっていなかったのは自分だったのだ。周りの者の事を考える余裕すらなかったのが実情だったのだ。

 楊志は己が言った言葉を思い返した。

 雨がやむのを待ち、体を休めよう。

 ふ、と笑ってしまった。

 あの頃ならば、雨が降っていようと歩き続けろ、と言っていたのだろうと。

 そしてあの時、畢勝が落とした宝刀に手を伸ばした時、その手は何の迷いもなく倒れる曹正を支えたのだ。

 職を失い、地位を失い、宝刀を失い、そして命をも失いかけた。

 だがこの二竜山で多くのものを得た。共に苦労し、笑い合う仲間。人は決してひとりでは生きていけぬのだと楊志は、やっと気づく事ができたのだ。

 何故かふと、梁山泊で出会った林冲の顔が浮かんだ。

「外です」

 と、曹正の義弟が告げた。一行は出口付近で休むことにした。夜が明けるまでには時間がありそうだ。

 雨はまだ降っていたが、少しだけ雷鳴が遠のいたようだった。

 

 宝珠寺の本堂に童貫がいた。かつて鄧竜が座していたあたりに床几を持ち出し、そこに腰をおろしていた。

 童貫が来たのは先ほどだった。それまでは寺の外に幕屋を張り、雨をしのぎながら戦況を見据えていたのだ。

 そしてすべてが終わり、宝珠寺が静寂を取り戻した頃、童貫は重い腰を上げた。

 思っていたよりも損害が大きいようだった。だが己の軍ではない、それほど気にする事ではなかった。

 ただ豊美と畢勝がいながら、楊志の首を取れなかったのが悔やまれる。

「申し訳ございません、童貫将軍」

 二人もそれはわかっているようで、これ以上責めても仕方あるまい、と童貫も思った。

 撤収の準備にかかろうとした時である。一人の兵が慌てて注進に来た。童貫は面倒くささそうにしていたが、報告を聞いて思わず立ち上がっていた。

「さっさと案内しろ」

 その兵が先に立ち、奥へと進んでゆく。畢勝、豊美もそれに続いた。

「こちらです」

 案内された部屋を見て、童貫は目を丸くした。

 そこには宝石や骨董の類(たぐい)、また金や銀がうず高く積まれていたのである。

「やはり、楊志が強奪犯だったのか。でかしたぞ」

 童貫は財宝の照り返しを受けながら満面の笑みを浮かべていた。

 

 翌日は快晴だった。童貫らは見つけた財宝をを取りまとめ、孟州を経由して東京へと戦利品を搬送した。

 それは二竜山を陥落させた手柄、そしてさらに生辰綱まで取り戻した、という凱旋の行軍だった。

 童貫は騎馬で先頭を行き、左右に竜虎の将軍、豊美と畢勝を引き連れている。実に堂々たる行軍だった。 

 もっとも、押収したのが実は昨年の生辰綱で、それも鄧竜が強奪したものであるという事実は誰も知る由もなかったのだが。

 そして中央に押し出だす荷車は煌びやかに飾られ、真新しい旗が立てられていた。

 そこには大きくはっきりと、生辰綱、という文字が躍っていた。

 東京で喝采に迎えられながら、馬上の童貫は満悦顔だった。

 これで蔡京も大きな顔はできまい。決して精鋭とはいえぬ軍を率いてのこの功績で、皇帝の覚えもめでたいはずだ。これで己の地位と名誉はまず安泰となった。

 さらに功績を加えるため、ついでに太行山系の他の山賊ども、桃花山とかいったか、も殲滅してやろう。

 さして大物はいないと聞いているから、そこも攻め落とすに苦労はあるまい。そうすればますますわしの評価は上がることになろう。

 馬上でこみあげる笑いを噛み殺す童貫。

 その姿は、やはり狡猾でしたたかな宦官そのものであった。

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