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悲報

 街道の傍らに一軒の居酒屋が見えた。

 宋江は、一同の疲れを癒そうと提案した。燕順もそれに同意し、手下たちにそれを告げた。対影山から梁山泊へ向けて二日目であった。

 官軍の姿で行軍する我らを見ては、梁山泊も警戒するだろう。間違って争い事になってはまずいという事で、向こうに顔の知られた宋江と、その護衛に燕順と手下数十名が先行して進んでいたのだ。

 馬の腹帯を緩めてやり、手綱を括(くく)ると一行は店へと入った。店内には小さな席が少しと、大きな席も三つしかなかった。

 燕順がそのひとつを見て、眉に皺を寄せる。

 大人数用の席にどっかりとひとりで腰を下ろしている男がいたのだ。男は何食わぬ顔で堂々と手酌で飲んでいる。ぎらついた目をしており、市井(しせい)の者でないのがひと目で知れた。

 宋江は給仕を呼んだ。自分と燕順は奥の小さな席でも構わないが、供の者を座らせるのに、あの男に譲ってもらうように頼むためだ。

 男はこちらなどいないかのようにふんぞり返っている。

 給仕が男に頼むと、男の様子が変わった。怒りをあらわにして大声を出した。

「なんだと、俺の方が先にいたんだ。どの席に座ろうと俺の勝手だろうが」

 お客さま、と給仕がなだめるが男は頑として譲ろうとはしない。

「あの野郎、下手(したて)に出ればいい気になりやがって」

 燕順が男に文句を言おうと近づくが、宋江がそれを止めた。

「放っておきましょう。相手にする事はありません、燕順」

 それが聞こえたのか、卓を叩いて立ち上がると宋江に向けて吼えた。

「おう、相手にするなとは、俺を見くびってるのか。俺が先に座ってたのが見えなかったのかよ」

 燕順も頭に血が上り、腕をまくり拳を握る。

「ほう、大した肝っ玉じゃねぇか。ならこいつでも譲らねぇって言うのかい」

「へっ、腕ずくだろうと金を積まれようと、絶対に譲るもんか。この石勇(せきゆう)が譲るのは、天下広しといえどもたったの二人だけだ。それ以外は例え天子さまでも譲りはしねぇぜ」

 面白い、と燕順が凶悪な笑みを浮かべた。宋江は慌てて二人の間に立ち、両手を広げた。

「まあまあ、お二人とも待ちなさい。こんな所で争わないでください」

 ところで石勇どの、と宋江は男の方を向いた。

「今言った、席を譲る二人とは一体誰なのですか。よければお聞きしたい」

 石勇と名乗る男が言った言葉に宋江は興味を持ったのだ。天子でも譲らないという石勇が、一体誰を尊敬しているというのか。

 石勇はにんまりとして指を一本出した。

「聞いて驚くなよ、まず一人目は滄州は横海郡にいらっしゃる柴大官人こと小旋風の柴進さまよ」

 宋江は驚くふうもなく、うむと頷いた。

 なんだよ驚けよ、という顔をして石勇は二本目の指を立てた。

「そして二人目は天下の義人、鄆城県の押司を務めなさる及時雨の宋江さまだ」

 その言葉に、燕順は宋江と顔を見合せ笑みを浮かべた。そして燕順は自慢げな石勇を尻目に、とっとと椅子に腰を下ろしてしまった。

「おい、勝手に座るんじゃねぇぞ。おい、どうして驚かねぇんだよ、どうして笑ってんだよ」

 燕順に指を突き付ける石勇。燕順は笑みを浮かべながら、困った表情の宋江を見る。

「どうして、と言われても。なぁ、宋江どの」

 燕順の一言に、石勇が固まった。大きく目を見開き、宋江を凝視する。

「おい、俺を馬鹿にしてるのか。そいつが宋江さまなどと、嘘ばかり言いやがって」

「嘘だと。お前は実際に宋江どのの顔を見た事はあるのか、石勇」

 それは、と口をつぐむ石勇。

「この人が、まぎれもなく及時雨の宋江どのだ」

 燕順が言い、石勇は確かめるように宋江の顔を覗き込む。

 無言で宋江が、こくりと頷いた。

「本当に宋江さまなのかい、この人が」

 自問するようにつぶやく石勇。そしてふいに叫んだ。

「わかった、だがあんたが宋江さまだという証拠を見せてくれ。こいつで勝負だ」

 突然、石勇が宋江に近づくと拳を突き出した。宋江が襲われる。慌てて椅子から立ち上がる燕順。間に合わない。

 しかし、石勇の拳は宋江の少し前で止まった。燕順はじめ一同はすぐに対応できるよう静かに備えた。

「証拠と言われても。それに私は武芸はからきしですよ」

 宋江は拳を見ながらそう言った。節くれだった拳だ。新しい傷もあった。どこぞで蛮勇を揮ってきたのだろう。

「ふふ、殴り合いじゃねぇよ」

 石勇はゆっくりと拳を上に向け、指を開いていった。

 宋江も、燕順も首を伸ばし石勇の掌(てのひら)を覗き込んだ。

「こいつで勝負だ」

 そこには小さな四角い物が三つあった。

 それは一と四の目が赤く塗られている骰子(さいころ)であった。

 

 石勇は北京大名府の博徒で、石将軍と渾名され恐れられていた。石将軍とは民間で信仰されている悪神の事である。

 しかしある時、博打の事が原因で人を殺(あや)めてしまい、石勇は北京を出奔した。その足で柴進の屋敷に転がりこんだのだ。それが三年ほど前の事だった。

 ちょうど林冲が流罪の途中で訪れてきた頃で、洪教頭との勝負をその目で見ていた。そして流罪先の秣置き場で陸謙たちを返り討ちにした林冲の逃亡を、柴進が手伝ってやった。その話を聞いた石勇は、ますます柴進への敬慕を強くした。

 その後すぐに石勇は柴進宅を出た。いつまでも世話になっている訳にはいかないからだ。

北京へは戻らずに各地を放浪した石勇は、及時雨の噂を聞く事になる。当の宋江は鄆城県にいるというのに、名声は遠く離れた地にいても耳にする。

 宋江に興味を持った石勇は、一度会ってみようと鄆城県へと赴いた。しかし宋江は閻婆惜殺しの嫌疑から逃れるためそこにはいなかった。

 実弟の宋清に会い、柴進の屋敷から移動して今は清風寨にいるだろうと聞いた。

 あのまま柴進の屋敷にいれば宋江に会えたのか、と悔しがるが仕方ない。そこで急ぎ、清風寨へ向かう事にしたのだ。

 骰子を持った手と反対の手に、いつの間にか手紙が握られていた。

「あんたが本物の宋江さまならば、これを渡す。弟の宋清さんから預かったものだ」

 宋江は、む、と唸り、それに手を伸ばす。

「清(せい)からですか。一体何の手紙でしょう」

 石勇は慌てて手を引っ込めて吼えた。

「だから、あんたが本物だってわかったら渡すと言ってるだろう」

 石勇は卓にあった茶碗に骰子を入れ、からからと鳴らした。

「三つの目の合計が上の方が勝ちだ。俺に勝てば、本物の宋江さまだ」

「勝てば、って私は博打などやったこともありませんよ」

 困る宋江だったが、石勇は頑として譲らない。

 このまま構わずに先へ行っても良いのだが、宋清からの手紙を見なくてはならない。やるしかなさそうだ。

 石勇は、空中で茶碗を逆さにすると、そのまま卓に置いた。

 不敵な笑みを浮かべた後、そっと茶碗をあげる。骰子の目が明らかになる。

 六、六、そして最後は五の目だ。

 どうだい、と言わんばかりの石勇の表情。

「おい、いかさまじゃねぇのか」

 燕順が石勇に掴みかかろうとする。

「調べたらどうだい」

 燕順は骰子から茶碗、卓の表裏(おもてうら)まで丹念に調べたが、何も見つからなかった。燕順が眉を寄せ、宋江を見つめる。

 宋江が諦めたように、骰子を茶碗に入れ転がす。意を決したように茶碗をひっくり返す。危なく骰子が飛び出しそうだったが、なんとか卓に置けた。

 見ていた燕順も宋江自身も、ほっと胸をなでおろした。

 ゆっくりと宋江が茶碗をあげてゆく。ひとつずつ骰子の目が見えてくる。

 そして三つ目が見えた時、石勇の表情に余裕はひとかけらも残されてはいなかった。

 目を大きく見開き、魂が出るのではないかというほど口を開け、その場に固まっていた。

 骰子の目は、六、六、そして六。

 わあっ、と店に歓声がこだました。燕順と手下たちが手をたたき合い喜び、宋江は肩の力をだらりと抜いて安堵の表情を浮かべていた。

 石勇は何度か口をぱくぱくさせると、ぐったりと椅子に崩れ落ちるように座った。

「馬鹿な。ここで六のぞろ目を出すだと。やっぱりあんたは本物の」

「だからそうだと言っているではありませんか。博打で勝つことが、どうして証明になるのかはわかりませんが、私は本物の宋江ですよ」

 呆けたような顔をしている石勇に宋江はそう言った。

 すると突然石勇の目に生気が戻った。椅子から飛び上がるように立ちあがると、そのままの勢いで床にひれ伏した。

「申し訳ありませんでした、宋江さま。今までのご無礼お許しください。俺は宋江さまの顔を見た事がなかったんで、こんな方法をとらせていただきました。大人物はその運も人並み以上である、というのが俺の持論。まさしく宋江さまはそれを体現なさいました」

 呆気にとられる宋江と燕順。優しく石勇を立ち上がらせながら宋江が言う。

「そんな理由だったのですか。しかし許すも何も、怒ってなどいませんよ」

 宋江と燕順に何度も深く詫びを入れ石勇は、そうだこれをと言って手紙を取り出した。

 今度は宋江が表情を引き締めた。弟からの手紙。鄆城県で何かあったのだろうか。宋江はゆっくりと封を切り、中身を引き出した。

 手紙に目を落とすとすぐに、宋江が膝から崩れ落ちた。

 宋江どの、と燕順と手下たちが助け起こす。宋江は額に手をあてて、愕然とした顔をしていた。

 燕順は石勇に、何事だという顔をするが、石勇は何も知らないという顔だ。

 ゆっくりと宋江が椅子に腰かけ、茶碗で運ばれてきた酒を一気に飲み干した。茶碗を卓に置いたが、荒い息をするばかりで険しい表情をしている。

「どうしたんです、宋江どの」

 燕順が心配そうに聞いた。

 宋江は手紙を持ち、何度も同じ箇所を読んでいた。

 やがて顔をあげた宋江が絞り出すように言った。

「父が、死んだ」

 宋江の目から一筋の涙が流れた。

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