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奔走

 蔡京が輿(こし)に揺られながら、耳を傾けていた。

 国をつぶすは家と木で云々、という子供の流行り唄が聞こえてくる。

 それを確かめると蔡京は悦に入ったような笑みを浮かべた。

 この唄は、蔡京が子供たちの間に流行るように仕向けたものだった。

 楊戩から梁山泊に関する報告を聞いた。

 生辰綱強奪の主犯と目される晁蓋を頭領とした彼らは、黄安率いる一千もの官軍を撃退した。この一件で、梁山泊など烏合の衆にすぎないと評していた楊戩も考えを変え、監視の目を厳しくしたようだ。

 さらに近ごろ、青州から流れてきた数百の人員を受け入れたという。その中には清風山や対影山の山賊たちや、あろうことか青州の軍人まで参加しているというのだ。

 鎮三山の黄信、霹靂火の秦明そして宋で一番の弓の名手と噂される花栄までが梁山泊に入山し、その軍事力を高める事になった。

 このまま放置しては危険だ。蔡京は徹底的に梁山泊について調べさせた。

 そしてひとつの結論にたどり着いた。

 梁山泊が急に力をつけだしたのは王倫(おうりん)という男から晁蓋に変わってからだ。さらに青州からの大量移入の裏には、どうやら及時雨と呼ばれる者の存在が浮かび上がって来たのだ。

 及時雨の宋江、いまいましい男だ、と蔡京は思い出すだけで苦い顔をした。

 義を尊び財を疎んじ、困っている庶民のためには身を投げうってそれを助けるという聖人君子の見本のような男だという。

 そんな人間がいてたまるか。

 この世は金と権力がすべてだ。

 かつて一度は下野(げや)せざるを得なかった蔡京だったが、再び権力の中枢に返り咲いた。その時に舐めた苦汁は二度と味わいたくはなかった。だからこそ、より権力に固執したのであろう。

 蔡京は宋江のような者の考えが理解できなかったのだ。そして人は理解できないものを排除しようとする傾向にあるのだろう。

 この宋江という男を拠り所として庶民が心を一つにしては危険である。

 幸いにも宋江は自首し、江州へと流刑となった。

 これを機ととらえた蔡京は、宋江という名を隠し、謀反の心があるような唄を作らせた。そしてそれを子供たちの間に広めたのだった。

 なにかあれば、これが大義名分となる。理由など後でいくらでも付けられる。

 蔡京は輿に揺られながら、次の手を模索していた。

 子供たちの流行り唄が、遠のいていった。

 

 何十もの船が疾走している。

 荷や人々を運搬する船の横をすり抜け、先を争うように走ってゆく。船頭が怒鳴るが、乗員の姿を見ると、はっとなりその声を抑えた。

 その船に乗っているのはほとんどがいかつい顔をし、いかにも山賊といった風情の者ばかりだった。

 それは梁山泊から出発した、晁蓋を筆頭とする宋江救出部隊であった。

 戴宗の神行法を使っても江州まで急いで四日はかかる。馬では江州まで持たないだろうし、人なら尚更だった。

 ならば、と郭盛が提案したのが船で急行する方法だった。

 郭盛はかつて汞(みずがね)の商売人だった頃に、船で江南と東京とを何度も行き来しており、その経路は熟知していた。さらに阮三兄弟をはじめとする、船の漕ぎ手には事欠かない。

 頭領総勢十七人と手下約百人を乗せた船たちは、江州目指してまさに飛ぶように進んでいた。

 花栄は船の中ほどに腰を下ろし、落ち着かない様子で弓や矢をいじっていた。

「間に合うさ。だから少し落ち着くが良い」

 晁蓋が笑顔でそう言った。

 その自信はどこから来るのだろうか。花栄はそう思いながらも、何故か安心感を覚えてもいた。

 普段、晁蓋が戦闘に出る事を止められていると聞いた。晁蓋は梁山泊の支柱でなければならない、という呉用の方針だったが、なるほどそれも納得できる笑顔であった。晁蓋がいれば、と思わせるものがそこにはあるのだった。

「直に通済渠(つうさいきょ)です。おのおの準備を」

 郭盛からの連絡が届いた。

 一日かからずにかなりの距離を進んだ。大したものだ、と花栄は阮三兄弟を素直に認めた。

 彼らの苦労など知らぬとばかりに、鳥が飛んで行った。

 口の端を歪め、花栄は目を閉じた。

 

 江州の町がざわざわとしていた。

 活気がある、という感じではない。

 何か、嫌な事がある前触れのようなざわつきだった。

 薛永はいつものように棒と槍と拳の演武を披露した。

 喝采が起こり、膏薬はかなり売れた。しかし人々はすぐに何かを思い出したようにその場からいなくなってしまった。

 何かがおかしい。この町で、何かが起こるのか。

 幾多の町で商売をしてきた薛永だからこそ気付く違和感。こういう時はたいてい良くない事が起きる。

 この江州には弟子が住んでいる。

 本業は仕立屋なのだが、薛永に弟子入りしてきた変わった男だった。

 久しぶりに会おうと所在を訪ねたが、今は無為軍(むいぐん)に住み込みで仕事をしているという。

 それならば、仕方あるまい。何日かここに滞在したら、次は無為軍へ行ってみる事にしよう。

 薛永はひと休みをしようと酒屋へ入り、注文をした。

 江州といえば、やはり魚料理だろう。

 しかし薛永はそれを口にすることなく、店から飛び出した。

 先に来た酒を一口飲み、ふうと一息ついた。その時、聞こえてきた言葉に薛永は耳を疑った。

 叛徒、宋江の処刑日が迫っている。

 確かに客のひとりがそう言っているが聞こえた。心臓を高鳴らせながらも、薛永はその客に詳細を聞いた。そして店を飛び出したのだ。

 宋江が謀叛を起こそうとしていた事が露見し、共謀した牢役人の戴宗という者と共に処刑されるというのだ。

 嫌な予感の正体はこれだったのか。

 しかしどうして宋江どのが謀反など。いや、何かの間違いだ。今は宋江どのを救う事を考えなければ。

 薛永は駆けた。

 やっと着いた江州を出て、もと来た道をひたすら駆けた。

 目指すは掲陽鎮。そこには穆弘と穆春がいる。

 江州へ来る前に、薛永は穆太公の屋敷に世話になっていた。

 しかし彼らは応じてくれるのだろうか。

 和解したとはいえ、一度は宋江と自分を殺そうとまでしたのだ。しかも宋江と彼らとは誼(よしみ)を通じただけである。宋江が彼らに何かしたわけでもなく、危険を顧みてまで宋江を救い出す義理もないのだ。

 しかしこの地で頼れるのは彼らしかいなかった。

 賭けるしかなかった。

 どうあっても力を借りねばなるまい。

 そう思いながら、薛永は駆け続けた。

 

 日はいつものように昇り、そして沈み一日が終わる。

 彼らの思いをよそに、無情に刻まれてゆく時は、誰にも止める事はできない。

 そしてその日が来た。

 宋江と戴宗の処刑の日である。

 その日、いつもより早く目が覚めた黄文炳は、早々に着替えると知府の元へと向かった。

 朝だというのに暑い。

 手をかざし、目を細め太陽を見上げた。

 そして思わずにやついてしまった。

 これから訪れる己の栄光と、降り注ぐ日の光をだぶらせたのだ。

 黄文炳は小躍りするように、小走り気味に役所へと向かって行った。

 時を告げる音が聞こえた。

 江州の城門が開かれる音が響いていた。

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