108 outlaws
処刑
一
不思議と落ち着いていた。
もっと取り乱すものだと、自分でも思っていた。しかし最後の時というものは、こういうものなのかもしれない。
「本当に申し訳ありません、戴宗」
ただひとつ、戴宗を巻き添えにしてしまった事が悔やまれる。
すべては己の過失なのだ。酔った勢いで、謀反の心があるような詩を書いてしまった事が元凶なのだ。
宋江は枷をかけられ刑場に引き出された。四つ辻の仕置き場はきれいに清掃され、すでに兵や役人らが五百人ほど待機しており、彼らが刑場を囲っていた。
そして彼らの周りには野次馬たちが我も我もと首を伸ばしていた。その数は千、いや二千にものぼろうとしているようだった。
すでに戴宗は刑場に引き出されており、目が合った宋江は本当に申し訳なさそうな顔をした。
「こうなったら仕方ねぇ。あの世でのんびりやりましょう、宋江どの」
「おい、口を開くんじゃない」
と役人が棒で戴宗の背を突く。それに戴宗は、はいはいと笑った。
宋江は可笑しくなった。
この戴宗という男も、命の際にいるというのになかなか肝の座った男だ。この飄々とした態度はどうだ。
やがて日は中天に差しかかる。
処刑の刻(とき)だ。
首斬り役人が刀を持ち直した。反射した日の光が眩しかった。
はじめは騒いでいた野次馬たちだったが一人また一人と声を潜め、四つ辻の刑場は水を打ったような静けさとなった。
監斬官の役となった蔡得章が馬上で、宋江と戴宗ふたりの罪状を読み上げた。
犯人、宋江。この者、故意に反詩を吟じ、みだりに妖言を用いて梁山泊の強盗と結託し、謀反をなす。法により斬罪と処す。
犯人、戴宗。この者、宋江のために私信をもたらし、梁山泊の強盗と共謀し謀反をはかる。また公文書を偽造し、宰相の名を悪用せしめた。同じく、法により斬罪と処す。
首斬り役人が刀を頭上に構える。あとは時が来れば、それを振り下ろすだけだ。
野次馬たちも、蔡得章の傍らに控える黄文炳も固唾を飲んで、その時を待った。
宋江と戴宗も目を閉じ、じっとその時を待った。
だが、その時である。静寂を破る喧噪が、刑場に響いた。
東の方で、兵たちと野次馬たちが揉めていた。蛇使いの物乞いの一団が刑場に押し入ろうしている。
さらに、西では棒を持った薬売りが同じように兵と揉めはじめた。
「何をしておる。はやく叩き出せ。入れてはならぬぞ」
蔡得章が兵たちに叫んだ。
しかし次は南と北から人足たちと商人の一団が、通せと言って中へと入ろうとする。北の商人たちは車を二台も押してきている。
あっという間に喧騒に包まれた処刑場。
思わず宋江も戴宗も目を開けてしまった。
そこへやっと蔡得章の元へ刻限の知らせが届いた。
刑の執行の合図を出そうと蔡得章が手を上げた。
「刻限だ。さっさと、斬ってしまえ」
首斬り役人が腕に力を入れた。
しかし刀が振り下ろされる直前、銅鑼の音が響き渡った。
今度は何だ、と蔡得章がいらつきながら見ると、北側の商人が車の上で鳴らしているようだった。
「ええい、早く斬れ」
蔡得章は叫ぶが、銅鑼の音にかき消されてしまう。
さらに銅鑼が合図であったかのように、四方の兵を押しのけ群衆がなだれ込んできた。
何が起きているのだ。宋江は地面を見据えながら思った。
そこに虎のような、鬼のような、雷のような吠え声が轟いた。
風が宋江の元へ向かってくるようだった。
その風は首斬り役人を襲った。
首斬り役人の首が、宋江の目の前に落ちてきた。
顔を上げた宋江が見たのは日の光を背に黒光りする、二兆の斧を手にした李逵の姿だった。
「助けに来たぜ、宋江の兄貴、戴宗の兄貴」
処刑場に乗り込み、首斬り役人の首を斬った。
しかし、李逵は子供のように無邪気に笑っていた。
賭けは成功した。そう考えてよいのだろうか。
偽手紙が露見し、戴宗まで処刑されると注進した孔目は刑場の隅で、李逵の姿を見ていた。
李逵に話せばすぐにでも暴れてこの件をぶち壊してくれると考えていた。しかし意に反して李逵はおとなしく宋江の言う事を聞き、いつしか牢の前から姿を消してしまった。
しかし、だ。突如、四つ辻の茶店の二階に姿を現した李逵は、ひと声吼え猛るとそこから飛び降り、宋江と戴宗の元へと走った。
結果、二人の首ではなく役人の首が落ちたのだ。
李逵は手にした斧で二人の枷を破壊し、立ち上がらせた。
「鉄牛、お前」
戴宗が話しかけようとするが、李逵はまっすぐに蔡得章の方へと走り出した。
黒い鬼が駆けてくる。
あれは黒旋風とか恐れられている男ではないか。黄文炳は浮足立つ兵たちを叱咤し、蔡得章を守らせるとそこから逃げ出した。
李逵を止めるべく兵たちが殺到した。
しかし李逵は止まらない。当たるを幸いとばかりに、二丁の斧を振り回し辺りを血に染めてゆく。
「宋江どの、鉄牛を追いましょう」
戴宗に引かれ、宋江も駆けた。
する内に、四方からも先ほどの一団が刑場になだれ込んできた。
西から薬売りたちが棒を振り回しながら役人と打ち合い、東の物乞いたちが放り投げる蛇に群衆が混乱をきたす。南の人足たちも暴れ出し、北では商人たちが荷車を押して突っ込んできた。
どういう事だ、と走りながら見た宋江は足をもつれさせ地面に転がってしまった。
「宋江どの」
戴宗が叫び、そこへ首斬り役人の一人が追いついた。振り上げる大きな刀が目に入った。幾人もの血を吸ってきたのであろう。怪しげな光をたたえていた。
宋江は思わず目を閉じた。
数瞬待つが、何も起きない。
恐る恐る目を開くと、そこには地に横たわった役人の姿があった。
その胸には矢が深々と刺さっていた。
「宋江、無事か」
声のする方を振り返り、思わず笑みがこぼれた。
そこには荷車の上で、堂々と弓を構える幼馴染みの姿があった。
「花栄、来てくれたのか」
戻ってきた戴宗に助け起こされ、再び李逵の後を追う。
その時、宋江は理解した。四方から乱入してきた者たちが梁山泊の面々である事に。
薬売りの扮装を脱ぎすて、劉唐が兵たちをなぎ倒している。赤茶けた髪をふり乱し、嬉々としたその表情はまさに赤髪鬼だ。
その近くで棒から朴刀に持ち替えた燕順が暴れている。少し離れた所に王英と鄭天寿の姿も見えた。
花栄と共にこちらに駆けて来る人影があった。
太い眉、大きな目、間違いない晁蓋だ。
晁蓋と花栄に、兵たちが一斉に襲いかかった。しかしさらに背後から現れた二つの影が、その兵をあっさりと蹴散らしてしまった。
二人の手には方天画戟。対影山の二人、呂方と郭盛だ。
「怪我はないか、宋江」
晁蓋が大きな声で聞いてきた。宋江は無言で頷き、拱手の礼をとった。
「すまない、晁蓋の兄貴、花栄」
「礼を言うのは後だ。まずはここから脱出しなくては」
そう言いながらも花栄は矢を放ち続け、その度に兵たちが倒れてゆく。
「あの男は、一体」
晁蓋が前を走る李逵を指した。
「大丈夫、彼は味方です。ただ」
戴宗が言い終える前に、晁蓋は処刑場にいる皆に合図を出した。
あの男の後ろについて行け、と。
「なんだい、あの黒い牛みたいな奴は」
追いついた阮小七が興味深そうに、李逵の背を見ていた。阮小二と小五もいる。
荷車を追っ手の前に横倒しにした黄信が駆けてきた。
「へへ、宋江さま、ご無事で何よりです」
白勝と共に駆けてきた石勇がそう言った。顔には返り血がついている。
杜遷、宋万と朱貴が追いつき、全員がそろった。
一同は宋江を囲むような配置で、吼え猛る李逵の後を追ってゆく。
殿(しんがり)は晁蓋、花栄、呂方、郭盛。追いすがる兵たちを矢で打ち倒してゆく。
おおお、と李逵は両手の斧を風車(かざぐるま)のように振り回し、道を切り開いてゆく。
はじめは宋江たちを逃すまいと向かってきた兵たちだったが、この李逵の恐ろしさについには散り散りに逃げだした。
しかし李逵は止まらなかった。逃げる彼らを追い、その斧の餌食にしてゆく。黒光りする体に浴びる返り血の量がどんどん増えてゆく。まるで李逵自身が血を流しているかのように、てらてらと赤黒く光っていた。
その血に興奮したのか、李逵はさらに吼え狂った。斧は勢いを増し、ついには逃げ惑う一般の民まで斬り出した。
「やめるんだ、李逵。彼らには手を出すんじゃない。おい、李逵」
必死に叫ぶ宋江だが、その言葉に李逵が止まることはなかった。
江州の処刑場に血が飛び散り、悲鳴が響き渡る。
「おい、李逵」
何度も叫ぶが李逵は止まらない。斧を振るう度、人が倒れてゆく。
戴宗の顔を見る宋江。
戴宗は困ったような顔で、首を横に振るばかりだった。
黒旋風。
その渾名の本当の意味を、宋江はここでやっと理解した。
大きな川岸の側にあった白竜神廟。そこで一同は人心地ついた。
李逵は城外へ出るとまっすぐ走り、この川岸でやっと止まったのだ。
宋江は改めて再会を喜び、救出の礼を深々とした。
「やめてくれ、宋江どの。わしは以前、お主の連絡でお上の手から逃れる事ができた。その恩返しに過ぎぬよ」
「そうさ、宋江。ここにいる者たちは少なからず恩を受けた者たちだ。これもお前の善行のおかげなのさ」
晁蓋と花栄がそう言い、王英らが相槌を打っている。
ところで、と晁蓋は横目で李逵を見やった。それに気付いた戴宗が李逵を紹介すると、朱貴が神妙な面持ちになった。
「わしの生まれも沂州沂水県だ。なるほど百丈村鉄牛とはお主の事だったのか。噂は聞いていたが」
途端に子供のような顔になった李逵が、おっ母(かあ)は元気か、と朱貴の両肩をがっしと掴んだ。朱貴はその力に動く事ができず困るばかりだ。
「おい鉄牛、やめないか。朱貴どのもお前にいま会ったばかりだろう」
そうか、と李逵は残念そうな顔をしていた。
しかし、と晁蓋が話を元に戻す。
「李逵どののおかげで刑場から脱出できたのは良いが目の前は川、やがて城内から追っ手もやって来るだろう。八方塞がりだな。軍師どのがここにいないのが悔やまれるわ」
一同は唸ったが、李逵は一人からからと笑う。
「なあに、もう一度みんなで城内へ切り込んで、蔡九知府もあの蜂野郎もみんな叩っ斬って、それから戻ってくれば良い」
「無茶を言うな、鉄牛。七千近い軍勢があそこにはいるんだ。勝ち目など無いさ」
戴宗が李逵をたしなめると、阮小七が提案した。向こう岸にかすかに見える舟を奪って来て川を渡ろう、と。
早速、阮三兄弟は着物を脱ぎ、川へと飛び込んだ。あっという間に中ほどまで泳いでしまう。
ところが、だ。そこへ上流の方から口笛が聞こえたかと思うと、三艘の船が彼ら目がけて飛ぶように近づいてゆく。
船の舳先に立った男が、先が五つに分かれた叉を三兄弟に向けた。
危ない、と杜遷が叫ぶ。
「どこのどいつだ、この神廟にたむろするとは」
舳先の男が叉を阮小五に突き込む。しかし小五は泳ぎながらうまく体を捻り、それを交わした。
「手前(てめえ)こそ誰だ。危ねぇ真似しやがって」
「ほう、なかなか泳ぎがうまいようだな」
そう笑い、舳先の男が上着を脱ぎ捨てた。そして真っ白な絹のような上半身をあらわにした。
あれは、と李逵と戴宗が同時に言い、宋江も叫んだ。
「待ってください、張順」
五股叉を手にした男、浪裏白跳の張順は声の主を確かめると破顔した。
「ご無事でしたか、宋江どの、戴宗どの。お前も無事か、李逵」
おう、と返事をしながら李逵はほんの少し、ぶるっと震えたようだった。
見ると残りの二艘にはそれぞれ張横と穆兄弟そして薛永、李俊と童兄弟そして李立が乗り込んでいた。
「なんとか間に合ったかな」
李俊が宋江に、意味ありげに微笑みかけた。
しかし安心したのも束の間、江州から追撃の官軍が出陣したと手下が知らせてきた。
李逵はそれを聞くなり、叫びながら斧を手に走り去ってしまった。
晁蓋は大きく息を吸い込むと、一同に向けて告げた。
「毒を食らわば皿までだ。黒旋風の後に続け」
おお、と梁山泊の一同が鬨(とき)の声を上げた。
宋江も、我知らず武者震いをしていた。