108 outlaws
奔走
三
小さな違和感だった。
はじめは気にはならなかったのだが、何かがおかしいと感じるようになった。だが、何がおかしいのかは分からなかった。
ためつすがめつ、蔡得章はそれを何度も確かめた。
目を細め、遠くから眺め、また思い切り顔を寄せて。
気のせいかもしれない、しかし気のせいではないのかもしれない。
「これは、知府さま。大変な事でございますぞ」
念のため、意見を聞こうと黄文炳を呼んだ。そうしたら黄文炳はそう言った。
ご覧ください、と黄文炳は細い指で、朱で押された印を示した。戴宗が東京の蔡京から受け取った、宋江の処分に関する返書である。
目を細め、蔡得章が顔を近づける。
「普段、このような印鑑が押されてはいましたか」
「いや、いつもは無かったと思う。今回はたまたま近くにあったから押したのであろう。しかも、これは公文書の役も果たしておるでな」
しかし、と黄文炳。
「この印は蔡京さまのご本名でございます。知府どののお父上は、天下の学識を究めたお方。実のご子息に、本物の印鑑を使うはずがございません」
しばしの沈黙の後、確かに、と蔡得章が唸った。
違和感の正体はこれだったのだ。
「という事は、この返書は」
おそらく偽物でございましょう。
黄文炳が暗い目をして、そう言った。
戴宗が東京に行っていない事はすぐに露見した。
蔡得章が戴宗を呼び出し、蔡京の屋敷の様子を詳しく問いただした。案の定、王という門番の事や手紙類の受け渡しの方法なども、ことごとく違っていたからだ。
戴宗は捕り手たちに押さえつけられたが、嘘ではない、と言い張ることしかできなかった。
どうして偽書だと露見したのか。
蕭譲が蔡京を真似て文字を書き、金大堅が寸分違(たが)わぬ印鑑を彫ったはずだ。
戴宗は困惑しながら、牢へと引きずられていった。
「やはり、そうでございましたな。あの戴宗も、宋江と手を組んで謀反をたくらんでいたに違いありませぬ」
衝立の裏から姿を現した黄文炳が笑みを浮かべていた。
「またもお主の手柄だな。本当に父君に言って、取り立ててもらわねばならぬな。いや、まさしく蜂のように鋭い男よ」
滅相もございません、と言いながらも黄文炳は内心で飛び上がりそうなほどに喜んでいた事は言うまでもなかった。
一か八かの賭けだった。
この件を担当する孔目は、普段から戴宗と親しかった。
何かの間違いであってほしいが、もうどうする事もできなかった。宋江と戴宗の処刑が、蔡得章の直接の命令で決定してしまったからだ。
しかしただ手を拱(こまね)いている訳にもいかない。
孔目は服を着替え、宋江が入れられている牢へと向かった。
角(かど)を曲がれば、そこだ。だが孔目は、足を止め唾を飲み込んだ。
しばし逡巡するとやがて意を決し、角を折れた。
目が合った。
牢の前に仁王立ちする李逵が、こちらを睨みつけてくる。
「誰だ、お前は」
両手に持っている鉞が今にも襲ってきそうだった。
「待ってくれ、あんたに話があるのだ」
声が届くぎりぎりの距離で孔目がそう言った。両手を出し、攻撃の意思が無いことを示す。
「おいらにだと、一体何の用だ」
孔目はゆっくりと言葉を選んで、李逵に告げた。
この男、戴宗の言う事だけは聞くが、他の者の話など聞かないという。一つ間違えれば、命を失いかねない。
しかしその危険を冒してまで、戴宗を救いたい気持ちなのだ。
「あんたの兄貴、戴宗どのが捕まった」
ぴくりと李逵が反応した。
「どう言った経緯かはわからぬが、蔡京さまの偽手紙を提出したらしい」
お前いい加減な事を、と李逵が一歩踏み出した時、背後からそれを止める声がした。
「待ちなさい、李逵。話の続きを聞くのだ」
牢の中で宋江が立ち上がっていた。
ほっと胸をなでおろす孔目。
牢に近づき、声を潜めるようにして話した。
蔡京の手紙が偽物だと露見して、戴宗が捕縛された事。
彼は宋江と共謀して謀反を起こそうと企んでいたとされた事。
そして二人の処刑が決定した事。
宋江はそれをじっと聞いていた。そして李逵も。
「わかりました。伝えてくれて、ありがとうございます」
それだけだった。
宋江は慌てる事も騒ぐこともせず、孔目に礼を言うとまた黙ってしまった。暗い牢の中で、どのような顔をしているのかは判断できなかった。
孔目は急ぎ足でその場から離れた。
戴宗の捕縛を李逵に伝える。それが目的だった。
黒旋風と恐れられるあの男ならばこの件を文字通り、ぶち壊してくれるのではないか。そう考えた賭けだった。
だが、李逵は宋江に止められ動かなかった。戴宗を兄貴と慕う彼ならば、と思っていたがいささか買いかぶりであったのだろうか。
いずれにせよ、処刑の日は決している。
すぐにでも、という蔡得章を何とか納得させた。
先帝の命日、中元の節そして天子の誕生日がうまく続いたため五日ほど伸ばす事ができた。しかしこれ以上は無理だった。
そしてその日はすぐに訪れた。
宋江と戴宗の処刑の日である。
黄文炳は朝早くから蔡得章のもとを訪ね、いよいよですなと嬉しさを隠そうともしなかった。
処刑場へと引き立てるために、役人たちが宋江の牢を訪れた。
役人たちは一様に尻込みしていたのだが、みな胸をなでおろした。
そして呆気ないほど簡単に宋江を牢から出す事ができた。
それまで牢の前に頑として立ちはだかっていた、李逵の姿が忽然と消えていたからであった。
「何で、そんな大事なこと早く言わぇんだよ」
金大堅が襟首を掴まれていた。掴んでいるのは赤髪鬼の劉唐。赤茶けた髪を逆立て、金大堅に向かって吼えている。
「知らぬよ。蔡京の息子に送ると知っていたら、わしも間違えはしなかっただろうに。わしは命令通りに、寸分違わぬものを彫り上げただけだ」
うぬ、と劉唐が腕から力を抜いた。金大堅は顔を赤くして息を大きく吸い込んだ。
「やめてください、劉唐。すべては私の失策なのです」
呉用が頭を抱えてうなだれていた。いつも冷静な呉用のこんな顔を、劉唐は初めて見た。
蔡得章の元へ届けた手紙、蕭譲が書きあげ金大堅の印鑑を押した手紙が、偽物だと露見した。その報が先ほど届けられたのだ。
呉用の失策。それは金大堅に手紙を送る相手を伝えず、ただ蔡京の印鑑を彫るように言った事だ。さらに作業はそれぞれ別の部屋で行わせたため、蕭譲が蔡得章に宛てて書いていると知り得なかった事である。
「晁蓋の兄貴、この呉用一生の不覚。つきましては、死を持って償いを」
呉用が晁蓋の前にひれ伏し、いつの間にか手にしていた短刀を喉に突き当てた。
「やめてください、先生。失敗したなら、それをどう取り戻すかが大事でしょう。まずは宋江どのを救う手だてを考えねばなりません。責任を取るのはその後でも良いでしょう」
晁蓋の言葉に、呉用は唇を噛みしめゆっくりと立ち上がった。
「かろうじて処刑まではあと五日あります。こうなっては晁蓋どのが言ったように、力で宋江どのを奪い取るしかありません。夜通し急げば何とか間に合うでしょう」
「そうこなくては。今度こそわしが行くぞ」
拳を握る晁蓋を、呉用は止める事ができなかった。晁蓋はすんでの所を宋江に救われた恩がある。自分自身でそれを返したいのだろう。
本当は晁蓋を前線に送りたくはないのだ。梁山泊の長たる者として、命を危険にさらして欲しくはないのだ。しかし今回ばかりはそう言う事はできなかった。すべての責は己にあるのだから。
「林冲、今回はすまないが」
「わかりました、晁蓋どの。私はここを守っています。無事にお戻りください」
慌ただしく準備が整えられ、選ばれた頭目たちが船で湖を渡っていった。
「あなたのせいではありませんよ。私が言うのもなんですが、あなたの印鑑は本物と見まごうばかりの出来でしたから」
蕭譲が金大堅の部屋を訪れ、慰めるように言った。
「分かってるさ。あの軍師の呉用とやらも、もう少しわしらを信用してくれれば良かったんだ。もう二度と贋作など作りたくない。あんたもそうだろう」
そうだ、とは言えなかった。
人の書体を真似るだけではあるが、蕭譲自身は書家の端くれだという自負はあった。
しかもこの偽手紙の件で、露見したのは印鑑の種類を取り違えたからにすぎない。蕭譲が書いた文字が、金大堅が作った印が偽物であると露見した訳ではない。もし正しい印を押していたならば、と蕭譲は考えてしまう。
自分の筆が通じるのだ、宰相の息子の目を欺くまでの腕なのだ。宋江と戴宗の命の瀬戸際に不謹慎ではあるが、蕭譲はそう思うのだった。
蕭譲は無言で金大堅を見つめるしかなかった。
やがて蕭譲が腰を上げ、扉に手をかけた。
そして部屋を出る寸前で、背を向けたままつぶやいた。
「私たちは、もう市井(しせい)へと戻ることはないかもしれません。ならばここでできる事を懸命にやる事にします。また偽手紙もあるでしょうが、自分の字を思う存分書く事ができる。私はそう思い定める事にします。あなたも、これまでにないあなた独自の印鑑を彫るという、腕前を存分に発揮してやりましょう、この梁山泊で」
そして蕭譲は静かに部屋を出て行った。
金大堅は呆気にとられていた。ここへ連れてこられた時は、あれほど逃げ出したい顔をしていたくせに、どうだあの落ち着きようは。
己の腕を存分に発揮する、か。自信に満ちた顔をしていた。
奴も、やはり職人なのだな。
蕭譲を見送り、金大堅はいつまでも両の掌(てのひら)を見つめ続けていた。