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奔走

 背筋を伸ばし、文机(ふづくえ)に座る。

 そこに置かれた白い紙に目を落とし、集中する。

 そのままの姿勢で墨を磨(す)ってゆく。

 ゆっくりと、丹念に、右手だけを動かす。

 外から子供たちの流行り唄が聞こえてくる。

 国をつぶすは家と木で、などと物騒な唄だ。

 再び集中し、それを意識の外へと追いやる。

 墨が充分に溜まったころ、ゆっくりと筆に持ち替える。

 筆に墨を吸わせ、呼吸を整える。

 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ動きを止め、素早く筆を紙の上へと運んだ。

「先生、蕭譲(しょうじょう)先生はこちらにおいでかね」

 玄関の方で誰かが呼んでいるようだ。

 蕭譲先生と呼ばれた男は筆を置き、立ち上がった。

 部屋を出る前に、出来上がった書を振りかえり、少し不満そうな顔をした。

 

 そこには山伏が一人、立っていた。

 蕭譲の顔を見ると、一礼をして微笑んだ。

「お忙しいところ申し訳ございません、聖手書生(せいしゅしょせい)さま」

「いえいえ、聖手書生などと、まわりが勝手に言っているだけの事。私は書を教えるだけのしがない者ですよ」

 蕭譲は頭を掻きながら照れたような笑みを浮かべた。長い髪をかきあげ、痩せてはいるが精悍な顔立ちのいかにも書生という風だった。

 蕭譲は先ほどの書を思い出していた。出来は良くなかった。

「それで、私の所へは何用で」

「はい、私は泰山(たいざん)の嶽廟に仕える者でございます。このたび五嶽楼の修復が終わり、土地の方々が碑(いしぶみ)を奉納しようという運びとなりました。そこで書の達人である先生のお噂を聞きまして、ぜひ文字をしたためていただけないかとやって来た次第でございます」

「私を選んでくださり、光栄の至りです。ですが、私は文章を作り字を書くのが専門。碑を建てるのならば、そこに刻む工匠も必要では」

 よければ良い職人を知っていますが、と蕭譲は山伏を連れて歩きだした。

 済州の役所前を通り過ぎ、角を折れたあたりの家の門を叩いた。

「金どの、金大堅(きんたいけん)どのはご在宅か。私です、蕭譲です」

 応対の声が聞こえ、戸が開かれた。やや伏し目がちな瞳に一筋の口髭を生やしている。 

 誰だねそいつは、といぶかしむように山伏を見る。頑固な職人、という言葉がぴたりと当てはまる。

 蕭譲は碑建立の依頼を説明した。

「この玉臂匠(ぎょくひしょう)どのの腕前ならば、間違いはございません」

 この金大堅、碑を刻んだり印鑑を彫る職人で、特に玉石を彫るのが得意で玉臂匠と渾名されていた。金大堅はその渾名を否定するでもなく、腕を組んで話を聞いていた。

「まあ、あんたの字なら彫っても良いがね」

 山伏が二人に前金で銀五十両を渡すと、さすがに目を丸くして驚いた。

「こんなにいただけるのですか」

 蕭譲は慌ててそう言い、金大堅はじっと山伏を見ていた。

「その代わり、立派なものを仕上げていただきたい」

 話がまとまり、出発は翌日となった。

 三人は居酒屋で軽く飲み、その後、山伏は蕭譲の家に泊まることになった。

 蕭譲の妻と幼い娘に挨拶をし、二人で飲み直した。

 壁や額に書が飾られている。

「あれは黄魯直(こうろちょく)のものですかな、そしてあちらは蘇東坡(そとうば)のですな」

 山伏が感心したように書を見て言った。

「そうなのです、しかし違うのです」

 山伏は言葉の意味が分からずに、じっと蕭譲を見た。

 そして蕭譲は自嘲気味な笑顔でこう言った。

「実は、これらは私が書いたものなのです」

 ほう、と山伏が唸った。

 蕭譲は弁明するように続けた。

「私はただ、人の書体を真似るのが少しうまいだけなのです。聖手書生などと、とてもとても」

「それだけでも立派な技ではありませんか。本人さえも見まごう出来栄えではないですか」

 はは、と笑い蕭譲が杯をあおった。山伏がさらに質問をする。

「では四大家と呼ばれる米元章(べいげんしょう)と蔡京の文字も同じように書けると」

 いや、と何やら意味ありげな顔をする蕭譲。

「あくまでも私自身の考えですが、蔡京どのはそれほどのものではないでしょう。それならば従祖父にあたる蔡襄(さいじょう)どのの方を四大家に入れるべきです」

 こんな事を大っぴらに言えば命がいくらあっても足りませんがね、と笑った。

 その笑顔を見て山伏は思った。山伏の姿をした、戴宗は思った。

 控え目な様でいて、やはりこの男も職人としての誇りを持っているのだ。

 世の風潮に流されず、良いものは良い、駄目なものは駄目だと断ずる気概が職人には必要なのだ、と。

 失敗したという書を見せてもらったが、戴宗にはどこが失敗なのか分らなかった。

 きっと、人生を通してでも突き詰める道が、そこにはあるのだろう。

 どんな物事でも、道を極めるという事に近道はないのだ。

 自分は楽をしているのかな。

 荷物の中の甲馬を眺め、戴宗はそうひとりごちた。

 

 山賊に襲われた。

 泰山への途上の事である。

 山伏は先に連絡しなければ、と走って行ってしまった。山伏はあっという間に見えなくなり、さすがは頑健な脚力だ、と二人して感心していた。

 その矢先、山賊が襲ってきたのだ。

 先頭に立つのは、手に朴刀を持った背の低い男だった。後ろに四、五十人ほどの部下を引き連れていた。

「やい、貴様らは何者だ。丁度良い、貴様らの肝を吸い物にしてやるわ」

「お待ちください、我らは泰山の碑文を刻みに行くところなのです。どうかお見逃しを」

 物騒な事を言っている山賊に、蕭譲は命乞いをする。

「何だと、そんなこと関係あるか。この俺さまに喰われるんだ、ありがたく思いな」

 無茶な、とつぶやき、金大堅は棒を手にした。蕭譲も棒を構える。

 二人とも、いささかではあるが腕に覚えがあった。このままむざむざ殺される訳にはいかない。

「やろうってのか」

 山賊が斬りかかってきた。蕭譲と金大堅は必死に応戦した。

 二対一だったが、それでも山賊の方が腕が上だった。

 朴刀の一撃を何とか棒で受け止めた蕭譲。しかし勢いに負け、足をもつれさせてしまう。

「蕭譲」

 と金大堅が山賊の攻撃を阻むために前に出た。しかし山賊はそれ以上の攻撃をしてこずに、くるりと背を向けてしまった。

「待て、山賊め」

 襲われて興奮したのか、蕭譲の制止も聞かずに金大堅がそれを追ってゆく。仕方なく蕭譲もそれを追った。

 そこへ突然の銅鑼の音(ね)。

 三方から現れた三十人ずつの一団が、二人を取り囲み始めた。

 しまった、と思うが時すでに遅し。蕭譲と金大堅はそれぞれ二人の巨漢に取り押さえられてしまった。

 色白の美丈夫が覗き込むようにして言った。

「手荒な事をして申し訳ありません。あなた方をお連れせよとの命令ですので」

 蕭譲、金大堅ともに山賊に知り合いなどいない。まったく思い当たる節もないまま、二人は歩かされてゆく。

「あれは」

 金大堅が顔をあげた。

 目の前に梁山泊が見えてきたのだ。

「あそこへ、行くのか」

 蕭譲が恐る恐る尋ねると、色白の男、鄭天寿はそうだと答えた。

 最初に襲ってきた背の低い男、王英が合流した。

 二人は船に乗せられ、湖を渡った。

 先頃、一千もの兵を擁した官軍を打ち破ったと聞いている。その梁山泊が我々に一体何の用があるというのだ。

 しかし尋ねても鄭天寿はもちろん巨漢たち、杜遷と宋万も何も言わなかった。

 やがて二人は梁山泊の地に降り立った。

 三つの大きな関門を抜け、聚義庁と跳ばれる場所へと案内された。

 これが山賊のものだというのか。州の役所などよりも、立派なのではないだろうか。

 蕭譲は聚義庁と大書された額を見やり、金大堅は柱や壁などの彫り物に関心を示した。山賊に拉致されたというのに、それもまた職人としての性(さが)なのだろう。

「ご足労いただき、申し訳ありません、お二方」

 眉の太い、目の大きながっしりとした男だった。これが梁山泊を束ねる晁蓋か。

「実はお二方の力を借りねばならん事案がありましてな」

 ぜひともご協力いただきたい、と晁蓋は有無を言わせぬ口調だった。

 蕭譲は冷や汗を垂らした。断れば命があろうはずもない事は目に見えている。

 ところが、だ。仕事を依頼してきた山伏もそこにいた。蕭譲と金大堅はそこで気付いた。はじめから泰山の碑建立が目的ではなかったのだ。

「ふん、貴様ら山賊に貸してやる腕は、持ってなどいない」

 金大堅が腕を組み、そう言って晁蓋を睨みつけた。

 ほう、と晁蓋は嬉しそうな顔をした。

「やはり、あなた方の腕では無理でしたか。もっと腕の良い職人を探した方が良さそうですね」

 晁蓋の横にいた書生風の男が冷たくそう言い放った。

「何だと、俺の腕じゃあ出来ない仕事だって言うのか」

「では、出来るというのですか」

「自分で言うのも何だが、腕には自信がある。そこまで言われちゃ、退(ひ)けないね」

 蕭譲が心配そうに金大堅を見る。殺されなくて良かったが、なんだか上手く丸めこまれてしまったような気がする。

 書生風の男が目を細めていた。

 はたと、蕭譲は思い出した。

 この書生風の男、前に済州で知り合いになった男だ。

 智多星の呉用と言ったか、村の塾で子供たちを教えていたと聞いていたが、こんな所にいるとは。

「あなたも、やってくれますね」

 呉用が蕭譲を見据えた。

 思わず頷いてしまったが、蕭譲には何だか嫌な予感しかしなかった。

 

 できあがった手紙を持って、戴宗が走った。

 蔡京から蔡得章へ宛てた手紙である。

 蕭譲が蔡京の筆跡を真似、金大堅が印鑑を彫った。

 叛乱を企てる宋江を直接見た後で処刑をするため東京へと護送せよ、という文面である。そしてその護送の途中で、梁山泊が宋江を救い出すという計画であった。

 梁山泊に加担した事が露見してしまえば、命さえ危うい。家族にまで累が及ぶ心配がある。

 だがその懸念を見越したかのように、二人の家族がほどなくして山寨へと連れられてきた。蕭譲の妻と娘、そして金大堅の妻である。

「本当に申し訳ありません。こうでもしないと、引き受けてくれないと思いまして」

 呉用が詫びを入れてきた。

 仕方あるまい、と蕭譲もやっと覚悟を決めた。

 山伏に扮した戴宗に言った言葉を思い出す。まさか自分が、その蔡京の文字を真似るなど、皮肉なものだった。

 肩の力を抜き、道具を片づけながら蕭譲がため息をついた。

「私たちはもうここで暮らすしかないのかな」

 横で煙管(きせる)をふかしている金大堅に言った。

「ふん、仕方あるまいよ。これでは家族を人質に取られたようなものだ」

 そうですね、と蕭譲は深い溜息をついた。

「ところで、あんた仕事の方はちゃんと出来たのかい」

「え、ああ、はい。手前味噌ですが、本人でも見抜けない自信はありますよ」

「そうか、大したもんだな」

 もちろん、この偽手紙がばれては宋江、ひいては己の命さえ危ないのだ。手を抜ける訳もない。

 そこへ呉用がやって来た。

「お二人ともお疲れ様でした。相変わらずの技ですね。いや腕を上げましたか、蕭譲どの」

「はは、あなたも久しぶりだというのに、相変わらずですね」

 蕭譲は追従笑いをしていたが、金大堅は横で不満そうな顔をしていた。

 呉用は酒を持ってきていた。二人をねぎらうために来たようだった。

 呉用はここに入山した経緯を聞かせてくれた。

 あの頃から六韜三略などを学んでいた男が、山賊ではあるが、本当に軍師になってしまうとは。

「軍師などと呼ばれるのは荷が重すぎます。所詮、小賢しい事ばかり思いつくのですから」

「それでも、みんな呉用どのを頼りにしているのでしょう」

 だと良いのですが、と呉用は少し寂しそうな顔をした。

「まあ、これでこの梁山泊も文武両道にひとつ近づいたという訳です。この手紙の件だけではない。あなたにも金大堅どのにも、これからどんどん仕事をしていただきますよ」

「断ることはできないのでしょう」

 蕭譲の問いに答えず、杯を上げる呉用。

 三人はそれを飲み干した。

 卓の上に印鑑が置いてあった。呉用はそれを手にとって眺めた。

「これが金どのが彫ったものですか。いやさすがは玉臂匠どの、まったく見事なものですね。これでは息子の蔡得章でさえ見抜けはしませんね。これは早速、梁山泊の印章でも」

 呉用がそう言った時だ。いきなり金大堅が立ち上がった。その勢いで徳利が倒れ、酒がこぼれるが構うことなく、呉用へと詰め寄った。

「あんた、今なんと言った」

「梁山泊の印章でも、と」

「その前だ。あんたこの手紙を誰に送ったんだ」

 金大堅は呉用を睨みつけていた。

「大変な事になるぞ」

 金大堅の言葉に、さすがの呉用も顔色を変えた。

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