108 outlaws
奔走
一
あやうく、殺されるところだった。
人の命を救うために駆けたというのに、これでは笑い話にもならない。
「あんたが神行太保の戴宗どのなのか」
少し痺れの残る手足をさすりながら、戴宗は目の前の男に首肯した。
ここはこの男、朱貴の居酒屋だった。
どうやって梁山泊へ渡ったものか、と思案する内にここへと寄ったのである。
さすがに戴宗も腹が減り、喉が渇いていた。
胡麻と辛子で味付けをした炒り豆腐と野菜を少し、そして酒を呷ると昏倒してしまった。
痺れ酒だったようだ。
しかし荷物をあらためた朱貴は、この男が戴宗であると知った。呉用が名前を出していた事を思い出し、醒まし薬を飲ませたのだ。
「丁度良い、呉用の所へ連れて行ってくれ」
咳こむように戴宗が言った。
葦の原に鏑矢を放つと、やがていつものように船が亭(あずまや)の窓辺に迎えにきた。
二人はそれに乗り、聚義庁へと向かった。
「これは、戴院長。わざわざここへお出ましとは、どういった風の吹きまわしですか」
戴宗と久しぶりの再会を果たした呉用は、さして驚いた風でもなくそう言った。
変わっていないな、と苦笑しながら戴宗は聚義庁へと迎え入れられた。
托塔天王の晁蓋を正面に、左右にいかにもという豪傑たちが居並んでいた。
呉用が戴宗を紹介し、頭目たちも名乗りを上げる。
立地太歳に霹靂火、錦毛虎などといった物騒な名前が続く。
小温侯、賽仁貴、小李広といった英雄たちも居並んでいた。
まてよ、と戴宗はもう一度彼らの顔を見まわした。
活閻羅、この世の閻羅大王か。宋江があの時に閻羅大王がどうのと、口にしていた事を思い出した。はたして、これは偶然なのだろうか。
小李公が戴宗に尋ねてきた。
「それで彼は無事なのですか、戴宗どの」
小李広の花栄は宋江の昔馴染みなのだという。青州から脱出するにあたり、宋江の顔の広さでこの梁山泊に落ち着く事ができたという経緯もある。心配はなおさらだろう。
「今のところは、です。しかしおそらく蔡京が下す判断は死罪でしょう。刑が執行されるまでは、およそひと月。それまでに宋江どのを何とか救出しなければ」
すっくと晁蓋が立ち上がった。戴宗がごくりと唾を飲む。托塔天王の名にし負う、堂々たる立ち姿だった。
「やはり宋江どのも、我らと同じ心を持っていたようだ。奸臣(かんしん)どもに罰を下し、宋江どのを梁山泊へ迎え入れようではないか。すぐに出陣の準備を」
「待ってください、晁蓋どの」
ぴしゃりと呉用が、その言葉を遮った。
「どうしたのだ、軍師どの」
「ここから江州ははるか遠い土地。時間もかかってしまいますし、そこまでの大群を動かすとなれば、途中で間違いが起きては元も子もありません」
「じゃあ、どうするんだい先生」
阮小七の問いに、一同の目が呉用を向いた。
ゆっくりと羽扇をくゆらせる呉用。妙計を語り出す時のいつもの仕草だ。
「向こうから来てもらえば良いのです」
聚義庁が静まり返った。
来てもらう、と言ったのか。
「戴宗どのがここに運んでくれたものを使うのです」
一同はまだ呉用の真意が分からない。
しかし、誰もそれに意見をしようとはしなかった。呉用の作戦に皆、信頼を置いているのだろう。
晁蓋も腕を組み、床几に腰を下ろした。
「わかった。任せるぞ、軍師どの。必要な物があれば、何でも言ってくれ」
「ありがとうございます。では」
と、呉用が指示を出しはじめた。それに従い、頭目たちが聚義庁から出てゆく。
「あなたにもひと働きしてもらいますよ、戴宗」
うむと言いながらも、戴宗は苦笑いをしていた。
この呉用という男、いつも回りくどい言い方をする。
今も昔も、それは変わらないようだ。
ほくほくの笑顔で黄文炳が酒を飲んでいた。
無為軍の自宅である。
卓の上には宋江が書いた反詩の写しを広げている。それを何度も眺めては目を細めていた。
「まったく、こいつのおかげで再び栄華に返り咲く事ができようとは。まったく及時雨さまさまだわい」
ぐびりと杯を空け、侍女に注がせる。
蔡得章の言葉を反芻してみる。
この手柄を父に奏上し、富貴な土地へ抜擢されるようにしてやろう。
富貴な土地か、悪くない。
うふふと笑い、また杯を空ける。
む、と黄文炳が眉をしかめた。袖口がほころび、糸が飛び出ていた。
任地に赴くための服を新調しなければなるまい。
報奨金もたんまりと出る事だろう。せっかくだ、豪華な物を着る事にしよう。
「おい、後で仕立て屋を呼んでおけ」
ちょうど腕の良い仕立て職人を雇っていた。存分に腕をふるわせてやる事にしようではないか。金に糸目はつけなくても良いのだ。
「そうだ、お前らにも好きな着物を仕立てさせてやろう」
上機嫌で侍女たちに言う黄文炳。
嬌声を上げ喜ぶ侍女たちは、我先に酌をしようとする。
ふと、黄文炳は兄の事を思い出した。
同じ無為軍に住む兄の黄文燁(こうぶんよう)は善行を好む男だった。橋をかけたり道を直したり仏像を寺へ寄贈したり、人々は彼の事を黄仏子(こうぶつし)と尊称した。
黄文炳はいつもそんな兄と比べられ、面白くない思いをしていた。そしてその兄が、及時雨と呼ばれる宋江と重なって見えた。
ふん、貧しい者ばかりを相手にしても、何の得にもなりはしない。徳どころか、この宋江のように刀の露と消えてしまうというのに。
結局はわしが正しかったという訳だ。
死に装束くらい、送ってやるか。
我ながら兄思いだ、と悦に入った表情で黄文炳は杯を干した。
口をへの字にして、李逵が陣取っていた。
両手には二丁の斧。
牢の中には宋江が寝ていた。
時折り仲間が差し入れにくるが、先に宋江に食べさせてから自分が食べた。
酒も差し入れられたが、李逵は一滴も飲まずに仁王立ちしていた。
普段の李逵を知る者たちは、目を丸くするばかりだった。
張順も何度も顔を見せた。
「宋江どのの容態は」
「うむ、あんたが活きの良い魚を差し入れてくれるおかげで、良くなってるみたいだ」
「そうか。お前も無理はするなよ」
「おいらは平気さ。宋江の兄貴を守らなきゃならんのだから」
魚の骨までばりばりと齧(かじ)りながら、李逵が笑って見せた。
また来るよ、と張順は帰っていった。
「すまない、李逵」
弱々しい声が背後から聞こえた。
李逵は前を見たまま答える。
「兄貴はじっと体を休めていてください。じきに戴宗の兄貴が帰って来る。きっとうまい手立てを手土産に、戻ってる来るさ」
無理だ、と宋江は思ったが黙っていた。
ただ、そうですか、と言ってまた横になった。
打たれた傷は良くはなってきている。李逵の言う通り、張順の魚は滋養にも良いものだったのだろう。
目を瞑り、息をゆっくりと吐く。
蔡得章に指を突きつけ、言った。
言ってしまった。
心のどこかに、いつの間にかしまい込み、見ないようにしてきた。
何度か取り出そう、取り出そうとしたけれど、やはりそれはしまわれたままだった。
だが、先日それが出てきた。
それが内側から扉をこじ開け、自分で出てきたのだ。
意外な事に、後悔はなかった。
何だ、こんな簡単な事だったのか。
宋江は、そのまま眠りについた。
李逵は自分で自分の頬を張り、気合を入れなおした。
ありがとう李逵、と聞こえたような気がした。
ううむ、と蔡得章が唸った。
父である蔡京からの返書を手にしていた。
戴宗は東京から期日通りに戻ってきた。神行法と言ったか、たいした術だ。
戴宗には報奨金を渡し、下がらせた。
覗き込むようにして黄文炳が尋ねる。
「それで、蔡京さまは何と」
うむ、と間をおいてから蔡得章が言った。
「東京開封府へ護送せよ、との事だ」
黄文炳は目を大きく見開いた。
どうして、という表情を見てとったのか、蔡得章が言い添えた。
「黄巣を凌ぐと豪語する宋江とやらを、一度その目で確かめてからの処刑を、父はお望みらしい」
そうですか、と黄文炳が頷いた。
確か宋江の生まれは鄆城で、東京とは近い所にある。さらに梁山泊の頭領となった晁蓋とも親しい仲であったと聞いている。
彼らを疎ましく思っていた蔡京は、宋江を己の膝下(ひざもと)で処刑する事でその力を見せつけようというのだろう。
また及時雨などと讃えられてきた宋江は、下手をすると本当の黄巣になりかねない危険な存在でもある。宋江を謀反人とする事で、庶民たちの拠りどころを完全に断ってしまう意味もあるのだろう。
国以外に、庶民が従うべき存在がいてはならないのだ。蔡得章や黄文炳などの役人はもちろん蔡京にとっても、である。
庶民とは我らのために生き、そして死ぬ存在だ。
それは黄文炳も同じ考えであった。
しかし、何かが腑に落ちない。
喉に魚の骨が刺さったように、手が届かずもどかしいような気持ちだったが、次の言葉を聞いて黄文炳はすっかり舞い上がってしまった。
「お前の事は天子さまに奏上するようだ。いずれ叙任の沙汰があろう。これで満足か、黄文炳よ」
天子さまに奏上。
これは都へと上ることができるかもしれない。
「はは、もったいないお言葉。蔡得章さまのお役に立っただけでも、やつがれは幸せ者ですのに」
「ふふ、相変わらず口は達者だのう」
親の威を借る虎と、その虎の威を借る狐が笑い合っていた。
戴宗を信じていた。
故郷から流れ、たどり着いたこの江州で手を差し伸べてくれたのは戴宗だけだった。
肩の力を少し抜いて、李逵がほっと溜息をついた。
居合わせた張順も笑顔になる。
「待たせたな、李逵。あんたにも世話をかけたな、張順。それで、無事だったか」
宋江どのは、という意味だ。
「もちろんだ兄貴。怪しい奴は誰ひとり近づけなかったぜ」
自慢げに言う李逵に、戴宗が手を差し出した。その手には大きな徳利があった。
「信じていたさ。さ、飲んでくれ」
ありがてえ、と奪い取るようにしてそれを直接飲み出した。
「こいつ、そんなに我慢していやがったのか」
張順が李逵を小突き、笑った。
戴宗も笑い、牢を覗いた。
中に声をかけて、宋江を起こす。
周りに注意しながら戴宗は声をひそめた。
「梁山泊へ寄って来ました。もう少し辛抱していてください、宋江どの」
宋江は無言で頷いた。
無理だ、と考えていた自分を恥じた。
自分を守るため、救い出すため戴宗が李逵が張順が尽力してくれていたのだ。
生き延びたならば、必ずこの恩に報いよう。
そう思いながら宋江は涙を流していた。