108 outlaws
酔夢
四
囚人の宋江を引きたてて来い、という命令を受けた。
知府の蔡得章が今朝ほど出したものだった。
訳のわからぬまま引き立てれる宋江。戴宗も何もできずに、命令に従うしかなかった。
「お前が宋江か。どんな男かと思ったら、こんな小男か」
「知府どの、わたしが一体何をしたというのですか」
蔡得章が黄文炳を見て、あれを、と言った。
「お前がこれを書いたのであろう。これは明らかに謀反の詩。覚えておらぬとは言わせんぞ」
黄文炳が、詩が書かれた紙を手に宋江に詰め寄る。
「詩ですと、謀反の」
宋江は頭の痛みをこらえながら、思いだそうとした。
戴宗は脇に控えながらも、何かあれば飛び出せるように構えていた。
なおも詰め寄る黄蜂刺。
「わしは昨日、潯陽楼でこの詩をはっきりと見たのだ。しかも名前までご丁寧に残しよって、よっぽど自信があると見える」
そうだ、思い出した。
昨日の潯陽楼だ。
及時雨になろうと決めた。そして心に浮かんだ事を壁に刻もうと筆を借りたのだ。
宋江どのが謀反の詩を、と戴宗も驚いていた。梁山泊と関わりがあるとはいえ、宋江はそのような事をする男ではないと思っていたからだ。
宋江は己が書いた詩をじっと見ていた。
昨日はかなり酔っていたせいで書いてしまったのだ、深い意味はない。
顔を伏せ、ぼそぼそと喋る宋江に、なおも黄文炳が言う。
「何をぶつぶつ言っておる。蔡得章さまの御前(おんまえ)であるぞ、はっきりと申さぬか」
深い意味は、いや、あるのだ。
す、と宋江が立ち上がり、指を突きつけた。
「民を虐(しいた)げ、己の欲を満たす事ばかり考える、国に仇(あだ)なす逆賊はお前らの方ではないか」
その指の先にいる蔡得章も黄文炳も、そして戴宗も、何が起きたのか把握できなかった。
宋江は続ける。
「わたしもかつては胥吏(しょり)であった。だからこそ民の苦しみを直(じか)に聞く事ができた。すべてとは言わぬが大半の官僚どもは、己のみを肥え太らせているばかりで、国や民は痩せ衰えるばかりだ。各地に跋扈(ばっこ)する賊たちも、そもそもは善良な民たちがほとんどだ。税に苦しみ、横暴に耐えかね、やむなく落草するしかなかった者たちだ。彼らを賊と呼ぶならば、それを生み出したお前たちは何者だ」
言葉を失う蔡得章と黄文炳。
戴宗は驚きながらも、なぜか胸の高鳴りを感じていた。戴宗自身も心に同じ思いを秘めていたからだ。
今の世は金の量がすなわち力の量と等しかった。上官である蔡得章や、引退した身の黄文炳をはじめ役人どもは金の亡者だった。
牢役人である彼は見てきた。重罪人が金の力で外の世界へと戻っていく姿を、少なからず見ていた。
そこに正義は無く、何もできない事を歯がゆく思う事もあったのだ。
「国が腐っている、と多くの者が言っている。その原因はお前たちのような者だろう。国に対する謀反の心ではない、国を害するお前たちを取り除かねばならないという心だ。人々が望むのならば、私はお前らの前に立とう。閻羅大王、五道将軍はじめ十万の天兵を引き連れ、お前らをあの世へと送ってやろう」
目を見開き口を空けたまま、蔡得章と黄文炳が固まっていた。場の空気も固まっていた。
しかし、
「わははははははは、聞いたか黄(こう)よ。こ奴、とち狂ったのか。我らこそが国に仇なす賊だと言いおった。閻羅大王に五道将軍だと、片腹痛いわ」
蔡得章が腹を抱えて笑った。黄文炳も同じだった。
しかし宋江の目は真剣そのもので、指を突きつけたまま二人を見据えていた。
うまくは言えなかった。だが潯陽楼でその思いを詩に綴った時、そう考えていたのだ。
困っている者を放っておけない性分だった。そのために胥吏となった。
故郷を離れ、いろいろな土地で見聞をした。どこも同じだった。民は悲鳴を上げ、役人はそれを聞く事はなかった。
彼らの声が、宋江の心に沁みついていった。
手を差し伸べるべき相手が、手の届く者から全ての民へと次第に変わっていった。
一人では限りがある。だが、この旅で実に多くの者たちと友となる事ができた。彼らも、少なからず同じ思いを持っていた。しかも彼らは己には無いものを持っていた。腕力、指導力、知恵、財力、それぞれがそれぞれ光るものを持っていた。
彼らとならば、何かできるかもしれない。
宋江の心の中で、何かが少しずつ形となっていった。
国そのものを潰すのではない。国を害する奸臣を取り除くのだ。
ついに言ってしまった。
思えば、やはり李俊の言葉が、背中を押してくれたようなものだ。
父との約束を、また破る事になってしまうが、仕方あるまい。もう後には引けない。
蔡得章の命令で、宋江は重さ二十五斤の枷をはめられた。
立てなくなるまで打ちすえられ、死囚牢に入れられた。
だが不思議なくらいに宋江の心は落ち着いていた。
むしろ、何か清々しささえ感じていたのであった。
それがどうしてなのかは、宋江自身にもわからなかった。
一陣の風が吹き抜けた。
人々は何事かと風を見やるが、それはすでに通り過ぎた後だった。
風は人の形をしていた。
まさに飛ぶように、その人間は歩いていた。
風の中の男、それは戴宗だった。
「誰にも手を出させるもんか。ここはおいらに任せて、兄貴は行ってきなよ」
李逵は宋江の牢の前でそう言うと、戴宗を送り出した。
牢の中とはいえ、いやむしろ牢の中だからこそ、宋江を亡き者にしようと企む者にとっては都合が良いのだ。
李逵は愛用の鉞(まさかり)を二丁、手にしっかと持ち、さながら仁王のように牢の前に陣取っていた。これでは牢に近付く者もいるまい。いつも手を焼いていたが、頼れる男になったものだ。戴宗は風に乗り、微笑んでいた。
戴宗は足に結び付けた、神仏を描いた札である甲馬を見やった。
神行法といった。
甲馬を両脚につけ、文言(もんごん)を唱える事で一日に五百里を歩く事が出来るという術である。また四枚に増やすと、その距離は八百里にまで及ぶ。この術で戴宗は牢役人の傍ら、緊急の伝達を担っていた。
人は畏敬の念をこめ、戴宗を神行太保と呼んだ。
この神行法、戴宗が若い頃、偶然に知り合った道士から伝授されたものだった。
一体なぜその道士が戴宗を選んだのか、知る由もないが、今はその道士に感謝するしかなかった。
蔡得章は戴宗を東京(とうけい)へと向かわせることにした。
宋江を捕らえた報告と、その処遇の判断を蔡京に委ねるためである。
今は六月の頭。来たる十五日は蔡京の誕生日である。戴宗には、二年連続で生辰綱を奪われた父への贈り物も持たせる事にした。
「この者の神行法ならば、十日もあれば戻ってきます」
黄文炳の言葉に、余計な事を、と思いながらも戴宗は命令書を受け取り、場を辞した。
一瞬で景色が後ろへと飛んでゆく。何度も見た光景だったが、今日に限っては、焦りを感じる。宋江の命がかかっているからだろう。
四枚の甲馬を結びつけているが、もっと早く足が動かぬのか、ともどかしい思いだった。
少しでも急ぎたかった。
十日あれば何とか往復は可能だった。しかし、戴宗には他に向かうべき所があった。
東京開封府ではない、その先だ。
宋江の故郷、鄆城を越えた辺りに大きな湖がある。
梁山泊と呼ばれるその寨は、官軍さえも簡単に追い返すほどの力を持っているという。
そこに、いるのだ。
かつて親交を深めた、諸葛孔明の如き知略の持ち主がそこにいるのだ。
智多星の呉用。
あの男ならば、この窮地を脱する良い知恵を出してくれるだろう。
梁山泊に行くために、少しでも日にちを稼がねばならなかったのだ。
戴宗は足に力をこめ、速度を上げた。
流れる汗が真横に飛んでゆく。
風が通り抜けた後に舞いあがった砂埃に、人々が袖口で目や口を押さえている。
すまない、と思う。だが今は、宋江どのの命がかかっているのだ。
ほとんど休まずに歩き続けた。食事もほとんど摂っていない。
もうすぐ、東京だ。
戴宗は東京への道をとらずに、そのまま進んだ。
もう一度、足に力をこめた。
風は、さらに勢いを増した。