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亡国

 平静を装うが、動悸が治まらない。

 玉座に座り、酒で喉を湿らせる。上等なはずの酒も、今は味がしない。

 燕京は、戦が夢だったのではないかというほど静かだった。

 だが心は穏やかではない。膝が震えている。それを隠すのに、必死だった。

 幽西孛瑾が神妙な面持ちで告げた。

「兀顔光統軍、討死にございます」

「そうか」

 王は言い、目を閉じた。

 悲しいのは当然だ。しかし、それよりも虚無感に襲われた。

 強い遼の国を取り戻すための決起。それに何より共感してくれたのが、兀顔光だった。

 お主がいなくて、これからどうすれば良いというのだ。

 燕京まで護衛してくれた羅睺星の耶律得栄、月孛星の耶律得信も途中で失い、計都星の耶律得華は生け捕られた。そして紫炁星の耶律得忠は行方知れずだ。おそらく生きてはいまい。

 燕京まで戻ったのは良いが、これからどうなるのだ。兀顔光はじめ強力な将のほとんどを失った。

 幽西孛瑾も、不安そうな視線だ。

 耐えきれず、酒をもう一度飲む。

「梁山泊軍は」

「まだ燕京へは向かっていないようです。しかし間もなく動くかと」

「そうか」

 王はしばし考える。

 兀顔光よ。ぽつりともらし、玉座から立ち上がる。

「迎え討つ準備をせよ。最後の一兵となるまで、契丹の力を見せてやるのだ」

「ははっ。すぐに」

 幽西孛瑾が飛び出してゆく。覚悟を決めた表情をしていた。

 一方の右丞相の褚堅は部屋にいた。

 怯えた野良犬のような目で、部屋の中をうろうろとしている。歯をがちがちと不快に鳴らし、何かを呟いている。

 こんなはずではなかった。協力すれば地位と名誉と、そして莫大な金を約束すると言われたのだ。だから盧俊義を裏切った。いや褚堅からすれば、見限ったという思いが強い。

 世の裏に関わるという仕事に当初は興奮したし、役人の目を欺く事で溜飲が下がる思いだった。だが決して表に出る事のない、誰からも称賛されない日陰の仕事だという事が、徐々に分かってきた。

 盧俊義が何を為そうとしているかは分からないし、知ろうとも思わなかった。しかし少しずつ澱(おり)のように、褚堅の心に不満と不安が溜まっていった。

 そして盧俊義が梁山泊に入った少し後、見知らぬ男が訊ねてきた。

 宋の宰相である蔡京の使いだ、と男が言った。

 ばれた。逃げなければと思った。

 だがそうではなかった。男は宋朝に協力することを提案してきた。飛び付くように褚堅は誘いに乗った。

 褚堅が耳を澄ます。

 城内が騒がしい。まだ何か起こるのか。

 まだか、まだ来ないのか。蔡京からの連絡は、まだか。

「落ちつけ、褚堅」

 心臓が飛び出すほど驚いた。

 蔡京の使いが部屋の隅にいた。

「お、脅かすな。いたなら、いたと言え」

「ずっと、いたさ」

「ま、まあ良い。早く、ここから出してくれ。そのために来たのだろう」

 男は影のように静かだ。

「おい、何とか言え。早くしろ」

 それでも男は答えずに、闇のように深い眼を向け続けるだけだった。

 

 遼王を追っていた盧俊義軍だったが、ついに逃してしまった。

 護衛が、王を逃がす楯となったからだ。四凶星を名乗る彼らは、やはりかなりの手練だったのだ。王はすでに彼方へ、燕京へと逃げ込んでしまった。

 盧俊義は郭盛、呂方らに陣を守らせ、宋江を待つことにした。

 そこへ魯智深と武松がやってきた。李逵を救い出しに行かせてくれという。

「旦那さま、私が」

 燕青が囁いた。盧俊義は頷いた。

 盧俊義の目的は、実のところ王ではなかった。

 褚堅である。あの裏切り者へ制裁こそが目的だったのだ。

 三人は敗残兵を装い、城内へと潜り込んだ。

 李逵を探す魯智深らと、燕青は別行動を取る。

 城内には悲壮感が漂っていたが、まだ消えていない炭火のような熱さも感じた。まだ何か起きそうだ。

 褚堅は王の側にいないようだ。それは都合が良い。自然を装い、だが人目につかぬように、燕青は右丞相の部屋を目指す。

 間もなくというところで、燕青は違和感を覚えた。

 おかしい、上手くいきすぎる。

 入り口で様子をうかがう。気配がない。いないのだろうか。

 そっと足を踏み入れる。

 やはり、いない。

 そこで燕青は見た。

 豪奢な卓の向こうに、人が倒れている。褚堅が血の海の中で、青白い顔をして果てていた。

 燕青はすぐに部屋を出た。

 嵌(は)められた。すぐに離れなければならない。魯智深たちと合流すべきか。

 明かりのあまり射さない通路、燕青はぴたりと足を止めた。

「お前か、やったのは」

 誰もいない。しばしの沈黙。

 燕青が疾風のような拳を、虚空に向かって放った。

 虚空から人が飛び出した。

 人相はよく見えない。細い、幽鬼のようだと燕青は感じた。

 燕青の足が半歩下がった。

 男がぼそりと言う。やはり幽鬼のような声だ。

「右丞相を殺(あや)めるために忍び込むとは、梁山泊はやはり外道の集まり。このままでは王の命も危ない。刺客は始末しなければ」

 まるで下手な芝居のように棒読みだ。

 だがそれが却って恐ろしかった。芝居の結末は決まっているようだ。

 この男、会ったことがある。実際目にしてはいないが、この気はあの時のものと同じだ。

 招安直前、東京開封府から楽和と蕭譲を脱出させた時に、燕青をつけ狙った影である。

「褚堅を殺ったのは、お前だろう。何をたくらんでいる」

「おっと、役者は黙って役を演じればよいのだ。王を殺そうとして忍び込み、見つかりそうになったので褚堅を始末した。だが俺に見つかり始末された刺客、という役をな」

「勝手な事を」

 燕青が突きを放つ。ゆらりと男がかわす。反撃に備えたが、それが来ない。

 燕青の体に汗がじわりと滲む。

 この男、とてつもない腕だ。反撃してこなかったのも、いつでも殺せるという余裕からだ。

 背中が壁に当たった。

 知らぬ間に下がってしまっていた。

 勝てない。どうする。

 燕青は瞬時に策を練るが、どの手も失敗するのが分かってしまう。

 万事休すだ。命を捨てる覚悟で突破するしかない。

 燕青は深く息を吸い込み、足の位置を変えた。

 ほう、と男が感心したように唸った。

 男が始めて構えのようなものをとった。

 燕青の体中から汗がどっと噴き出した。あの史文恭(しぶんきょう)、大哥(たいか)よりも強い。生粋の暗殺者だ。

 む、と男が顔を歪め、燕青から視線を外した。その先に、一人の男がいた。

 鋭い眼を男に向ける、武松だった。

 武松がゆっくりと二本の刀を抜いた。刀が妖しい気を纏っているように思えた。

「こいつがやたら騒ぐんで何事かと思えば、この男か」

 武松の持つ刀は、孫二娘が殺めた行者が持っていたものだという。夜な夜な口笛のような音で鳴く妖刀で、殺すべき相手の時だけ刀を抜く事ができるのだと聞いていた。

 青州で孔兄弟といざこざを起こした時、刀は抜けなかった。もし孔明(こうめい)を斬っていれば宋江との縁も切れていただろう。

 男が武松に向き直る。

 武松は構わず、男に迫る。妖刀が妖しく光る。

「なるほど、こいつは始末しなくちゃならない野郎だな。よく知らせてくれた」

「気を付けてくれ、武松。この男、底が知れない」

「ああ、そのようだな」

 言いながらもまるで無防備に踏み込む武松。

 刃が届くぎりぎりで避ける男。ゆらゆらと陽炎のようだ。武松が何度も刀を振るうが、男に掠ることさえできない。

 刀を避けながら、感心したように言う。

「お前も恐ろしいほどの腕を持っているようだ。放っておくのは危険だな」

「嬉しいこと言うな。俺も同じ意見だぜ、なあ燕青」

「はい」

 武松の隣に燕青が並んだ。

 暗くてよく見えなかったが、男は不快そうに顔を歪めたようだ。

「ふん。お前のような相手には、二度と会いたくないものだ」

 そう言って、姿を消した。

 男がいた場所に向かって、燕青が叫ぶ。

「おい、待て。お前は何者だ。誰の差し金だ」

「そいつを自分から言う奴はおらんだろうよ」

 その通りだ。燕青は恥じた。

 武松が妖刀を鞘に納め、歩きだした。

 ついてこいと背中が語っている。

 燕青は己の拙さを痛感するばかりだった。

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