108 outlaws
星辰
三
東西南北の陣が、すべて破られた。
拳を戦慄かせ、歯嚙みをする兀顔光。
「燕京にお戻りください、国王」
だがあくまでも静かに、そう告げた。
王は兀顔光を哀しそうな顔で見る。
「お主も、必ず戻るのだぞ。我らの悲願は、お主なしでは成し得んのだ」
「ありがたきお言葉。必ずや、良い報告をお持ちいたします」
ややあって、王は褚堅と幽西孛瑾に急かされるように移動をはじめた。耶律得栄以下の四将が護衛となり撤退をする。
兀顔光が梁山泊軍を見、目を細める。
兀顔光率いる中軍に攻撃を仕掛けるのは、相克である青い軍装、甲乙の木の軍。関勝が先頭となり、花栄、宣贊、郝思文らが続く。
郝思文がどこか落ち着かない様子だ。それを宣贊が咎める。
「おい、集中しろ。あらぬ方向ばかり見て、どうしたのだ」
「いや、すまない」
「敵は目の前だ。しっかりしてくれよ」
あらぬ方向ではない。郝思文はある方向を気にしていた。
南陣である。すなわち火で、そこに属する宿星の中に井宿がある。
兀顔延寿が言った言葉を気にしている自分に腹が立った。
自分の相手は土の陣で、いまは関勝のために戦わなければならないのだ。だがそんな郝思文も、否が応でも前を向かねばならなかった。
敵陣の中央にいる将軍から放たれる気が、尋常ではなかったからだ。
「よくぞ太乙混天象の陣を破った」
軍鼓よりも鉦よりも響く音声で、兀顔光が朗々と叫んだ。
「しかし、これ以上は進ませぬ。進みたくばこの鎮星土星、兀顔光を倒してみせよ」
この男が延寿の父、兀顔光。まったく統軍に相応しい将軍だ。
関勝が馬を前に出す。花栄も宣贊も、当然であるかの如く動かない。
「我が名は関勝。梁山泊五虎将が一人。いざ」
関勝が青竜偃月刀を構える。
兀顔光は方天戟を静かに揺らす。
周囲の喧騒が嘘のように、静寂の場と化した。
両者が弾かれたように、馬を駆けさせた。瞬く間に距離が縮まり、二人がぶつかった。
一度、行き交い再びぶつかる。今度は馬を止め、打ち合いとなる。
関勝が繰り出す偃月刀の絶妙な技の間隙を抜け、兀顔光が方天戟の重厚な攻めを押し込んでくる。
十合、二十合と刃を交える関勝と兀顔光。
関勝の赤兎馬と同じくらい、兀顔光の乗馬も駿馬だ。鉄のように黒く、そしてたてがみが銀色であった。兀顔光の姿勢が攻めに良く守りにも良いように、巧みに脚の位置を変えているのだ。
主人を見事に助けている馬もそうだが、それを乗りこなす兀顔光も見事というほかない。さすがは契丹(きったん)か。
赤兎馬が、相手の健闘を讃えるかのように嘶いた。
「おう、お前も嬉しいか。これほどの相手、滅多におるまいて」
「ふはは、わしらも嬉しいぞ。梁山泊、話には聞いていたがこれほどまでとは」
方天戟が急に角度を変えた。始めて見る手だ。見失った刃が、下方から飛んできた。
関勝は胸を反らし、その一撃を避けた。
はらはらと、切れた髯が舞った。
これを避けるか。兀顔光が目を見張った。
関勝が怯まず、渾身の力を込めた突きを放った。
だが受けようと出した方天戟を、偃月刀がするりとかわした。
しまった。変化だと。
兀顔光が斬られた。
だが関勝の顔は、勝利したもののそれではなかった。
確かに斬った。しかし、斬ったのは甲だったようだ。裂け目から厚い獣の皮甲、そしてその下に鎖を編み込んだ赤胴の甲が見える。関勝は一番上の黄金の甲だけを斬ったのだ。
この兀顔光、三重にも着こんでいてこの動きなのか。感服する。
関勝が驚いたのはそこだった。
兀顔光が裂け目を触り、思う。
王の楯となるための甲だった。王は燕京に戻った。もう必要はない。兀顔光が金甲を脱ぎすてた。
目つきが変わった。腿を締め、馬に指示を送る。
方天戟の連撃。速い。
防ぐ関勝。速いだけでなく、重い。
じりじりと退がってしまう。防戦一方となりながら反撃の機会を窺う関勝。
兀顔光には、それが分かった。関勝という男の目はまだ死んでいない。恐ろしい男だ。 だからこぞ、攻撃の手を緩める訳にはいかない。
さらなる気合を発し、関勝を攻め込む。
花栄が援護に飛びだそうとするが、郝思文に止められた。花栄は意外そうな顔をした。
「駄目です。私たちが行っても邪魔になるだけです」
「しかし」
「私たちにできる事をします」
兀顔光以外の、中軍の兵を倒すべしというのだ。
「わかった」
花栄は納得し、矢を雨のように放った。郝思文と宣贊も縦横に駆け回り、たちまちにして敵兵が乱れた。
関勝と兀顔光はひとつ所で、打ち合い続けている。もはや何十合になるか分からない。赤兎馬も血のような汗を流している。
攻勢だったと思われた兀顔光だったが、徐々に関勝の手数が増えてきた。
際どい一閃が兀顔光の髯をかすめた。
しかし兀顔光も並ではない。返す刀で関勝の首筋を狙う。
それをぎりぎりで受け止めた関勝が偃月刀を弾き、距離を取る。
睨みあう。
次こそ、そう思った時である。
遼軍の退却の鉦が鳴った。
まるで待っていたかのように、遼軍が逃げに転じはじめた。
誰だ。わしは命じていない。
「退(ひ)くな、まだだ。まだ終わってはいない。戦え、戦うのだ」
逃げる兵たちに、兀顔光の声は届かない。いや届いたとしても、聞かなかっただろう。
ゆっくりと関勝が迫る。
一度目を閉じ、兀顔光は心を静めた。
「すまぬ。見苦しいところを見せてしまった」
「では、参ろうか」
「ああ、これで終いだ」
刹那の沈黙。
そして迅雷の如く駆ける馬。交差する関勝と兀顔光。
ゆっくりと関勝が振り向いた。
「お主のご子息は無事だ。良い若者だな」
「そうか。いや、まだ嘴の黄色いひよこさ」
微笑んだ兀顔光の口元から、大量の血が流れた。
胸には斜めに走る刃の跡。二重の甲が斬り裂かれ、じわじわと赤い染みが広がる。
「我が大遼に、栄光、あれ」
兀顔光が血飛沫と共に果てた。
関勝が馬上で背筋を伸ばし、敬意を示した。
兀顔光の愛馬は、主人を乗せたままどこかへと歩き出した。
最後に関勝の方を振り向き、悲しそうに鼻を鳴らした。
関勝はその姿が消えるまで、見送っていた。