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星辰

 東西南北の陣が、すべて破られた。

 拳を戦慄かせ、歯嚙みをする兀顔光。

「燕京にお戻りください、国王」

 だがあくまでも静かに、そう告げた。

 王は兀顔光を哀しそうな顔で見る。

「お主も、必ず戻るのだぞ。我らの悲願は、お主なしでは成し得んのだ」

「ありがたきお言葉。必ずや、良い報告をお持ちいたします」

 ややあって、王は褚堅と幽西孛瑾に急かされるように移動をはじめた。耶律得栄以下の四将が護衛となり撤退をする。

 兀顔光が梁山泊軍を見、目を細める。

 兀顔光率いる中軍に攻撃を仕掛けるのは、相克である青い軍装、甲乙の木の軍。関勝が先頭となり、花栄、宣贊、郝思文らが続く。

 郝思文がどこか落ち着かない様子だ。それを宣贊が咎める。

「おい、集中しろ。あらぬ方向ばかり見て、どうしたのだ」

「いや、すまない」

「敵は目の前だ。しっかりしてくれよ」

 あらぬ方向ではない。郝思文はある方向を気にしていた。

 南陣である。すなわち火で、そこに属する宿星の中に井宿がある。

 兀顔延寿が言った言葉を気にしている自分に腹が立った。

 自分の相手は土の陣で、いまは関勝のために戦わなければならないのだ。だがそんな郝思文も、否が応でも前を向かねばならなかった。

 敵陣の中央にいる将軍から放たれる気が、尋常ではなかったからだ。

「よくぞ太乙混天象の陣を破った」

 軍鼓よりも鉦よりも響く音声で、兀顔光が朗々と叫んだ。

「しかし、これ以上は進ませぬ。進みたくばこの鎮星土星、兀顔光を倒してみせよ」

 この男が延寿の父、兀顔光。まったく統軍に相応しい将軍だ。

 関勝が馬を前に出す。花栄も宣贊も、当然であるかの如く動かない。

「我が名は関勝。梁山泊五虎将が一人。いざ」

 関勝が青竜偃月刀を構える。

 兀顔光は方天戟を静かに揺らす。

 周囲の喧騒が嘘のように、静寂の場と化した。

 両者が弾かれたように、馬を駆けさせた。瞬く間に距離が縮まり、二人がぶつかった。

 一度、行き交い再びぶつかる。今度は馬を止め、打ち合いとなる。

 関勝が繰り出す偃月刀の絶妙な技の間隙を抜け、兀顔光が方天戟の重厚な攻めを押し込んでくる。

 十合、二十合と刃を交える関勝と兀顔光。

 関勝の赤兎馬と同じくらい、兀顔光の乗馬も駿馬だ。鉄のように黒く、そしてたてがみが銀色であった。兀顔光の姿勢が攻めに良く守りにも良いように、巧みに脚の位置を変えているのだ。

 主人を見事に助けている馬もそうだが、それを乗りこなす兀顔光も見事というほかない。さすがは契丹(きったん)か。

 赤兎馬が、相手の健闘を讃えるかのように嘶いた。

「おう、お前も嬉しいか。これほどの相手、滅多におるまいて」

「ふはは、わしらも嬉しいぞ。梁山泊、話には聞いていたがこれほどまでとは」

 方天戟が急に角度を変えた。始めて見る手だ。見失った刃が、下方から飛んできた。

 関勝は胸を反らし、その一撃を避けた。

 はらはらと、切れた髯が舞った。

 これを避けるか。兀顔光が目を見張った。

 関勝が怯まず、渾身の力を込めた突きを放った。

 だが受けようと出した方天戟を、偃月刀がするりとかわした。

 しまった。変化だと。

 兀顔光が斬られた。

 だが関勝の顔は、勝利したもののそれではなかった。

 確かに斬った。しかし、斬ったのは甲だったようだ。裂け目から厚い獣の皮甲、そしてその下に鎖を編み込んだ赤胴の甲が見える。関勝は一番上の黄金の甲だけを斬ったのだ。

 この兀顔光、三重にも着こんでいてこの動きなのか。感服する。

 関勝が驚いたのはそこだった。

 兀顔光が裂け目を触り、思う。

 王の楯となるための甲だった。王は燕京に戻った。もう必要はない。兀顔光が金甲を脱ぎすてた。

 目つきが変わった。腿を締め、馬に指示を送る。

 方天戟の連撃。速い。

 防ぐ関勝。速いだけでなく、重い。

 じりじりと退がってしまう。防戦一方となりながら反撃の機会を窺う関勝。

 兀顔光には、それが分かった。関勝という男の目はまだ死んでいない。恐ろしい男だ。 だからこぞ、攻撃の手を緩める訳にはいかない。

 さらなる気合を発し、関勝を攻め込む。

 花栄が援護に飛びだそうとするが、郝思文に止められた。花栄は意外そうな顔をした。

「駄目です。私たちが行っても邪魔になるだけです」

「しかし」

「私たちにできる事をします」

 兀顔光以外の、中軍の兵を倒すべしというのだ。

「わかった」

 花栄は納得し、矢を雨のように放った。郝思文と宣贊も縦横に駆け回り、たちまちにして敵兵が乱れた。

 関勝と兀顔光はひとつ所で、打ち合い続けている。もはや何十合になるか分からない。赤兎馬も血のような汗を流している。

 攻勢だったと思われた兀顔光だったが、徐々に関勝の手数が増えてきた。

 際どい一閃が兀顔光の髯をかすめた。

 しかし兀顔光も並ではない。返す刀で関勝の首筋を狙う。

 それをぎりぎりで受け止めた関勝が偃月刀を弾き、距離を取る。

 睨みあう。

 次こそ、そう思った時である。

 遼軍の退却の鉦が鳴った。

 まるで待っていたかのように、遼軍が逃げに転じはじめた。

 誰だ。わしは命じていない。

「退(ひ)くな、まだだ。まだ終わってはいない。戦え、戦うのだ」

 逃げる兵たちに、兀顔光の声は届かない。いや届いたとしても、聞かなかっただろう。

 ゆっくりと関勝が迫る。

 一度目を閉じ、兀顔光は心を静めた。

「すまぬ。見苦しいところを見せてしまった」

「では、参ろうか」

「ああ、これで終いだ」

 刹那の沈黙。

 そして迅雷の如く駆ける馬。交差する関勝と兀顔光。

 ゆっくりと関勝が振り向いた。

「お主のご子息は無事だ。良い若者だな」

「そうか。いや、まだ嘴の黄色いひよこさ」

 微笑んだ兀顔光の口元から、大量の血が流れた。

 胸には斜めに走る刃の跡。二重の甲が斬り裂かれ、じわじわと赤い染みが広がる。

「我が大遼に、栄光、あれ」

 兀顔光が血飛沫と共に果てた。

 関勝が馬上で背筋を伸ばし、敬意を示した。

 兀顔光の愛馬は、主人を乗せたままどこかへと歩き出した。

 最後に関勝の方を振り向き、悲しそうに鼻を鳴らした。

 関勝はその姿が消えるまで、見送っていた。 

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