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波紋

二 

 まるで葦の原にいるようだった。

 細い水路のようなところを、葦の間を縫い、何度も何度も方向を変えて進んだ。

 そしてやっとのことで抜けると、視界全てが水面となった。

 目指す梁山の島はまだ小さい。何という湖の広さだ。

 ごくりと、陳宗善は唾を飲んだ。

 なるほど、これでは官軍が攻めあぐねるのも無理はない。この場所に至るまでにも迷路のような箇所を抜けねばならないのだ。そこで黄安の部隊は大方がやられたと、報告書にあったのを思い出す。

 陽気に唄を歌いながら、水夫が櫓を操っている。どの水夫の腕も、腿まわりも尋常ではない。寄せ集めの軍などでは到底かなわぬように思えた。

 陳宗善はまた湖に目をやった。泳ぎは得意ではないのだ。ここで落ちたらと思うと、縮みあがるように震えた。

 目を梁山へ戻した時、怒鳴り声が聞こえてきた。

 やはり、張幹辦である。

「ええい、やかましい。そのひどい歌をやめんか」

 ところが水夫たちはにやにやしながら、さらに声を大きく歌うばかりだ。

 陳宗善の制止も聞かず、張幹辦は水夫に向かって鞭を振るった。

「おやめください、お役人さま」

 と阮小七(げんしょうしち)が、さしてやめろという風でもなく、割って入った。

「この船はこいつらがいなきゃ走らないんだ。お役人さま、あんたが漕ぐってんなら別だけどね」

 にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 次の瞬間、水夫たちが我先に湖へ飛びこみだした。

 さらに張幹辦が叫ぶ。

「おい、何だ。水か、これは」

 言われて気付いた。張幹辦と陳宗善の足元に水が溜まりはじめていたのだ。まさか、船に穴が。

 阮小七がすまなそうに笑う。

「いやあ、おっしゃる通りのぼろ船で。何とか持つと思ったんだけどなあ」

 張幹辦が狼狽する。ぎゃあぎゃあと喚(わめ)き、何とかしろと叫ぶ。そうしている間にも船は徐々に沈んでゆく。陳宗善の顔からも血の気が失せている。

 だがそこへ一艘の船が現れた。まさに助け船だ。陳宗善らがなんとかその船に乗り込む。

「しかし御酒が」

 今まで乗っていた船に積んでいたのだ。しかし酒まで運び出す余裕はなかった。

「俺が何とかします」

 という阮小七の言葉を信じるしかない。

 陳宗善らを乗せた船が梁山泊を目指し、進んだ。

 それを見送った阮小七が、ぺろりと舌を出した。

 

 船の上で笑い声が響いている。

 飛びこんだはずの水夫たちが、いつの間にか戻って来ていた。

「みたかよ、あいつらの顔」

「水だ、沈む、助けてくれ」

「お、泳げないのだ、助けてくれえ」

 などと、慌てふためく陳宗善と張幹辦の真似をして、げらげらと笑いあった。

 目尻の涙を拭いながら、阮小七がやっと笑い終えた。

「いやあ、ひと泡吹かせてやったなあ」

 この船には細工がしてあった。船の底に穴が開いており、栓を抜くとそこから水が入ってくるというものだ。呼延灼が攻めてきたとき、凌振との戦いで使った船だ。

 さて、と言いながら阮小七が御酒の方を見る。

「宋江どのにもしもの事があってはまずいからな。俺が体を張って毒見しようじゃないか」

 と、もっともらしい事を言いながら、甕(かめ)の封印を剥がした。

 甕からの馥郁たる香りが鼻をくすぐる。香りは上等のようだな。

 どれ、と柄杓を取り出し、ひと口飲んだ。

 む、と阮小七が眉をしかめた。まさか、と水夫たちが駆け寄る。

 だが阮小七は破顔して、美味いと叫んだ。

 いやまて、ひと口では毒が効かんかもしれない。そうしてふた口、み口。ついにはひと瓶丸ごと飲んでしまった。

「ふう、朱富の酒までとはいかないが。まあまあかな。おい、お前たち」

 酔って機嫌が良くなったのか、阮小七は残りの酒を水夫たちに分け与えてしまった。空けてしまえば、ひとつも全部も変わりないということだ。

 ひとしきり船の上での酒宴を楽しんだ彼らは金沙灘へ舳先を向けた。

 金沙灘では陳宗善らが待っていた。出迎えの宋江らの姿も見える。張幹辦はまだ機嫌が悪いようだ。

 阮小七の船から御酒が運び出される。

 その甕を見て、裴宣はほっとした表情をした。

 御酒にはしっかりと。封印がされたままであった。

 こんな小男が梁山泊の宋江なのか。

 居丈高だった張幹辦も金沙灘に渡り、居並ぶ頭目たちの姿を見た途端に、内心冷や汗をかいた。林冲をはじめとする五虎将や、花栄たち八驃騎が殺気を隠そうともせずにいたのだ。

 ところが忠義堂で待っていたのが、この宋江だった。

 どうみても小役人ではないか。こ奴に束ねられている梁山泊も大したことはあるまい、と再び胸を反らせるのであった。

「あなたが宋江どのですね」

 陳宗善の方は却って安心した。この男ならば、と思った。梁山泊を帰順させる事、それが帝の命なのだ。

 宋江がぬかずいた。

「お出迎えに不行き届きがございましたようで、誠に申し訳ございません」

「不行き届きどころではないぞ。我らは帝よりの使者なのだ。無礼にもほどがあるわ」

 濡れた着物を見せつけるように、張幹辦が怒鳴る。

 宋江は臆することはない。

「貴人をお乗せするのに、水の漏るような船を出したりはいたしません」

「これを見て、まだそんな事を申すのか」

 詰め寄ろうとする張幹辦。

 しかし宋江の背後からの殺気が濃くなったのを感じ、

「むう、まあよい。陳どの」

 と陳宗善に水を向けた。

 陳宗善が恭しく詔書を掲げ、宋江へと渡す。それを蕭譲が読み上げる。だれもが固唾を飲んだ。

 だが詔書に目を落としたまま、蕭譲が戸惑うような顔をしていた。

「どうしました」

「あ、いえ」

 宋江の言葉にそれだけ答えると、意を決したように読みだした。

 詔が読み進められてゆくに従い、重い空気がさらに重くなってゆく。呉用や盧俊義などはあからさまに眉をしかめている。気分が良さそうなのは張幹辦だけだ。

 不思議そうな顔で李逵が訊ねた。横には腕を組み、同じく難しそうな顔をした金大堅がいた。

「なあ、どうして暗い顔してるんだ。何かおいらたちに褒美をくれるんじゃなかったのかい」

「だったらよかったのだがな」

「だから、なんて言ってるんだよ」

「つまり、梁山泊の持っている金品糧食をすべて差しだせ、そうして国に尽くすのならば、罪を許してやろう、だとさ。あまりにも梁山泊をみくびっている」

 金大堅が言い終わらぬうちに、李逵が飛び出していた。誰も止める間もなく、蕭譲から詔書をひったくると真っ二つに引き裂いてしまった。

「おい、誰だこんなふざけたことを書きやがったのは」

「何だお前は。天子さまのお言葉だぞ」

 張幹辦と李逵がにらみ合う。

「天子さまが何だというのだ。天子の名前が宋なら、おいらの兄貴も宋だ。兄貴も天子になれるってことだろう。ぶちのめしてやるぞ」

 拳をあげ、打ちかかろうとする李逵を一同が止めにかかる。

 張幹辦は悲鳴を上げ、逃げ惑うばかりだった。

 

「見ろ。もう使者が着いておるわい」

「おっと、喰いすぎちまったみたいだな」

 つまみ食いに精を出していた魯智深と史進が石段を駆け上っている。

 見ていると李逵が飛び出し、暴れはじめたではないか。

「兄貴、あいつおっ始めやがったぜ」

「やはりこうなったか。まあよい、急ぐとしよう」

 二人が着く頃には、李逵も取り押さえられ、宋江が使者に頭を下げていた。

 次に、御酒の下賜へと移ることになった。

「間に合ったな、史進。これを待っていたのだ」

「まったく、兄貴には適わないな」

 舌なめずりをする魯智深に呆れる史進。

 ざわつきが収まらない中、御酒の封印が解かれた。甕の中からは馥郁たる上酒の香りが漂ってくる。はずだった。

「なんと、これは」

 漂ってきたのはどこにでもある濁酒の香り。他の甕を開けても、中には同じように濁酒しか入っていなかった。

 内心穏やかではないが、せめて美味い酒にありつこうと考えていた一同が、さらに色めき立つ。

 魯智深などは憤懣やるかたない様子で、

「なんじゃ、わしらには濁酒で充分だというのか」

 と言うや、巨大な拳で甕を叩き壊してしまった。得たりと見た武松が、二本の戒刀を抜き放つ。劉唐が朴刀を構える。

「そんな馬鹿な。ちゃんと御酒をお持ちしたのです」

 と弁明する陳宗善だったが、一同は聞く耳を持たない。

 あわや血を見る場面かと思われたが、宋江が使者たちを守るように命じ、船へと乗せる。

 青ざめながらも張幹辦は唾を飛ばす。

「貴様ら、よくもぶち壊してくれたな。こうなればどうなるか分かっておるのだろうな。そうだな、陳どの」

「張どの、ひとまず戻りましょう。まだどうなるかは分かりませんから」

 使者を乗せた船が、金沙灘を離れてゆく。

 張幹辦は顔を赤くして、どっかと座りこんでしまった。

 頭目たちが暴れる中、宋江だけがじっと船を見ていた。

 陳宗善は、少し悲しそうな顔の宋江に頭を下げた。頭を戻し、ふと見ると巨大な旗が翻っていた。

「替天行動、か」

 誰にともなく陳宗善がつぶやいた。すでに宋江の姿は見えなくなっていた。

 せいせいしたな、と笑っている阮小七の側へ呉用がやってきた。

 呉用と目が合い、どきりとした阮小七。だが呉用は何も言わずに忠義堂へと入っていった。

「大変なことになった。せっかくの招安がこれでお終いだ」

 嘆くように言う宋江に対し、呉用はあくまでも冷静だった。

「心配なさらずとも、招安はまた来ますよ。今日のところはこれで良かったのです。このまま招安を受けていても、我らに利はありません」

 盧俊義が身を乗り出す。

「利だと。なるほどな」

 もと豪商の盧俊義である。呉用の言わんとするところが分かったらしい。不満そうなのは宋江だ。だが呉用は答えない。

「それよりも戦の準備を整えるよう布告してください。今度こそ官軍との大きな戦です」

 招安を受けるどころか、詔書を破り、使者を武器で脅し、追い返した。

 当然、交渉は決裂。梁山泊討つべし、と大軍が送られてくることになろう。

 汗を拭い、宋江が訊ねる。

「まさか、こうなることを予想していたというのか、軍師どの」

「大方は」

 と涼しげな顔で言う呉用。

 は、と宋江は思い至った。

 李師師に会うため開封府へと向かった。帝への手紙を託すためだ。しかし李逵が行きたいと言った時、呉用はむしろ連れて行けと言った。

 まるで、李逵が騒動を引き起こすことが分かっていたかのように。

 身の危険をその肌で感じ、そこではじめて帝は梁山泊を意識したのかもしれない。柴進が見たように、それまでは賊の一派としてしか看做されていなかったのだ。

 だがこたびの詔書の文言のように、まだ足りない。このまま招安を受けても、同じように帰順した他の賊と何ら変わりないのだ。

 招安を、向こうから懇願してくるくらいでなければならないのだ。

 だから一旦は招安を蹴り、戦をする。そしてそれを完膚なきまでに叩きのめすことで、梁山泊が有利な立場になるのだ。

「もしうまく進もうとしていたら、邪魔をしていたのか」

「さあ、分かりません。ですがそうならなくて良かったとは、思っております」

 羽扇をくゆらせる呉用に、宋江はそら恐ろしいものを感じるのであった。

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