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波紋

  招安の使者の名は陳宗善。

 帝より詔勅を預かり、その顔には緊張の色がありありと浮かんでいた。

「大役だが、心配し過ぎることはない」

 その陳宗善に向けて、宿元景が優しく言った。宿元景は、自分よりも若く清廉な陳宗善を国に必要な者と感じ、普段から懇意にしていたのだ。

「梁山泊には帰順の意思があるのでしょうか。宿太尉がおっしゃられるように、私も信じたいのですが」

 にわかには信じ難いのです、と言う。

 宿元景も初めはそうだった。だが華山で頭領である宋江と会い、直接その言葉を聞いたのだ。魑魅魍魎渦巻く官の世界で生きてきたからという訳ではないが、人を見る目はあると自負している。宋江はとても嘘を言うような男には見えなかったのだ。

 尊敬する宿元景と話をし、陳宗善も帰りの道は少し足取りが軽くなったようだった。

 ところが陳宗善の顔が再び曇ることになる。ある人物が自分を呼んでいるという。断れるはずもなかった。それは宰相である蔡京からの呼び出しだったのだ。

「いったい私めに、何のご用でございましょうか」

「まあ、そう畏まらなくてもよい。楽にしてくれないか」

 はい、と答えるも、却って身を堅くしてしまう陳宗善。

「なに、用というほどでもない。あの悪鬼のような連中が蠢く、梁山泊へ行くというのでな、わずかではあるが力を貸そうかと思ったのだ」

 すると部屋にひとりの男が入ってきた。不思議そうな顔の陳宗善に向けて、蔡京があくまでも優しく言った。

「この者はわしの側近の幹辦で張という。こ奴、なかなか法度に詳くてな。こたびの、帝の遣いという大役を果たせられるように、よければ連れて行ってはくれぬか」

 陳宗善は言葉もなく、蔡京と張幹辦とを見比べる。

 連れて行ってはくれぬかと、優しい声音ではあったが、目は決して笑ってはいない。これは明らかに強制である。陳宗善に断ることなどできない、無言の命令であった。

 吉日、東京開封府の多くの人々に見送られ、陳宗善が出発した。

 聖旨の旗を立て、五十人ほどの従者に十瓶の御酒を運ばれてゆく。

「どういたしましたか、陳どの。顔色が優れませんが」

 覗きこむ張幹辦に、陳宗善は無理に笑顔を作って見せた。

「あ、ええ、いや。いささか眠れぬ日が続いたもので」

 本音である。

 ただ、それは梁山泊に招安を届ける大役と同時に、

「それはそれは。なんの、この私に任せてくだされば、必ずや上手くいきます。ご安心ください」

 と胸を張る、張幹辦が同行するせいでもあった。

 陳宗善はいちど空を仰ぎ、覚悟を決めたように歩きだした。

 二日ほどで、一行は済州に着いた。梁山泊のある地を管轄する州である。

 そこで知府を務める張叔夜に出迎えられた。

「お疲れでしょう。まずは旅の疲れをお取りください」

 さっそく宴の場が準備され、張幹辦は挨拶もそこそこに酒に手を伸ばした。

 宴も終わり、寝室に案内された張幹辦はすぐに高いびきをかきはじめた。

「もう少し良いですか、陳どの」

 さきほどまでの柔和な笑顔が消え、真剣な面持ちになる張叔夜。さほど飲んではいなかった陳宗善だが、思わず背筋を伸ばした。

「宿太尉から話は聞いております」

 この張叔夜もまた宿元景と誼を通じていた。宰相である蔡京をはじめとする、政を意のままにする者たちを快く思わない一派である。

「宿太尉と同じく私も、こたびの件、ぜひとも成功させたいと思っております。しかし」 

 と、張叔夜が眉をひそめた。張幹辦のいびきが微かに聞こえてくる。陳宗善が弁明するように言う。

「蔡太師から言われて連れてきたのです。申し訳ありません、私には断ることなど」

「そうでしたか。明日、私から言ってみることにしましょう。では、飲み直しといたしましょう」

 そう言って、張叔夜はもとの柔和な笑顔に戻った。陳宗善も微笑み、杯を合わせた。

 翌朝、面倒くさそうに起きてきた張幹辦を引き留めようと、張叔夜は説得を試みた。

 梁山泊は近づいただけで命が危険にさらされるような場所、ここで陳宗善の帰りを待っていてはと言うと、張幹辦は考えるそぶりはしたものの、やはり一緒に行くとそれを拒んだ。こうまで頑なになられては、張叔夜もどうすることもできない。おそらく蔡京に堅く言い含められているに違いない。

 張叔夜は陳宗善に、お気をつけて、と見送るしかなかった。

 

 梁山泊が一気に慌ただしくなった。

 招安の使者が来るという先触れがあったのだ。

 気が気でない宋江が指示を出す前に、すでに宋清が朱富や曹正に主食の準備を手配していた。弟ながら、本当に怖いほどの気の回しようだ。

 出迎えには裴宣、蕭譲がゆく。その護衛として呂方、郭盛が伴われる。

 だが、手配に追われる忠義堂に、声を荒げて押しいる者たちがいた。

「招安ですと。一体どういう了見ですか、宋江の兄貴」

 先頭に立つ武松が、睨みつけるように訊ねる。返事を待たずに劉唐が言う。

「まさか招安を受ける訳じゃあないでしょうな。とっとと使者など斬り捨ててしまいましょう」

 穆弘、史進、魯智深といった面々が腕を組み、返答を待つ。

 宋江は答えに窮した。

 助け舟を出したのは盧俊義だった。

「劉唐、物騒なことを言うものではない。相手は無力な役人だ。彼らを斬ったところで、梁山泊の顔に泥を塗るだけではないか」

 む、と唸る劉唐。牙のような歯が見える。

「ふん。晁蓋の兄貴だったら、何と言いますかね。使者なんぞ、追い返しちまうのでは」

「晁蓋の奴は、もういない」

 盧俊義のひと言で、場が一気に張り詰める。劉唐の目つきが変わった。ぴりぴりとした、一触即発の雰囲気となる。

 そこへ宋江が両手を広げ、間に立つように飛び出した。

「待ってくれ。我々で争っていては仕方あるまい」

 そうして盧俊義と劉唐の顔を交互に見やる。

 劉唐が気を削がれたように背を向けた。武松や史進たちもそれに従った。

「ここは引きますよ。ですが言ったように、招安には反対ですからね」

 忠義堂から出た劉唐は、天に翻る替天行動の旗に目をやる。そして鼻を鳴らすと、石段を降りていった。

 魯智深の側で史進が囁く。

「和尚、あんたはどう思う」

「わしも官に追いやられた身だ。そりゃあ招安など面白くはないさ」

 劉唐もそうだが、林冲も晁蓋とは長い付き合いだ。その晁蓋はあくまでも国との戦いを視野に入れていたという。だから彼らにとって招安を受け国に帰順するということは、晁蓋の遺志に反することだというのだろう。

 だが、と魯智深が続ける。

「宋江どのも、同じくらい晁蓋どのの事を慕っていただろうて。頭領とはなったが、その遺志を継ぐことを一同の前で明言しておる。それに呉用という男がおる。すんなり行くとは思ってはおらぬよ。まあなるようにしかならんさ」

 微笑む魯智深を、史進がじっと見ている。

「なんじゃ。わしの顔に何かついておるのか」

「いや。坊主みたいなことを言うなと思って」

 がはは、と魯智深が大笑する。

「曹正たちが料理を準備しているらしい。こっそりつまみ食いしに行こうではないか」

「そりゃあ良い」

 史進と魯智深が、競うように駆けていった。

 

 張幹鞭が唾を飛ばして怒鳴った。

「何だお前たちは。どうして宋江とやらが直々に迎えに来ないのだ。我らは帝から聖旨を賜って、わざわざこの水溜まりまで出向いてやったのだぞ」

「手前こそ何だ。呼んでもいないのに、そっちから来たんだろうが」

 郭盛の方天画戟が張幹辦に向けられる。ひっ、と悲鳴を上げる張幹辦。陳宗善が頭を下げ、それをとりなした。

「これは大変失礼いたしました。張どのも長旅で気が張っているのでしょう。どうか皆さま、落ち着いてください」

「陳宗善どのと申しましたな。誠にかたじけない。私はこたびの役を任せられました裴宣と申します。こちらも大変ご無礼をいたしました」

 郭盛の画戟を下げさせ、蕭譲を紹介する。郭盛はまだ面白くない様子だったが、呂方がなんとかなだめていた。

 案内をしつつ、裴宣は思う。

 この張幹辦という男の態度は、どうも芝居がかっている。裴宣も元は孔目だ。高慢な役人をその目で幾人も見てきたのである。

 どうやら蔡京が同行させたという事が、二人の話からうかがえた。裴宣は密かに手下を忠義堂、呉用の元へと走らせた。

 そして陳宗善らを湖岸へと案内する。梁山泊に渡る船が並んでいた。しかし張幹辦がまたも声を荒げた。

「おい、何だこれは。こんな魚臭い船に乗れと言うのか。我々を誰だと思っておる」

 喚く張幹辦を陳宗善がなだめる。何とか乗り込んだ張幹辦だったが、やはり不服そうであった。

 裴宣は、水夫たちを束ねる阮小七にすまなそうな顔をした。

 ところが意外にも阮小七は涼やかな顔をしていた。こういった類の役人を、最も嫌っているはずなのだ。

「なあに、裴宣どの。あんたが謝るこたぁないさ。あとは万事俺たちに任せておきなって」

 嬉しそうに微笑む小七に、裴宣は一抹の不安を覚えるのであった。

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