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蘇生

 北京大名府を見下ろす丘の上、馬に乗った宋江がいた。

 背を伸ばすと、まだ少し張ったような感じが残るが、病は癒えた。

 張順が探した安道全のおかげだった。

 すんでのところだったが、途中まで迎えに来た戴宗が、安道全を連れて行ったのだ。王定六は神行法に驚いていた。

 安道全の治療で約十日。腫れものは次第に小さくなり、みるみる顔色が良くなった。さすがは神医(しんい)だ、と誰もが賞賛をするのであった。

「なんだお前は、宋のところの息子か。まさか及時雨というのがお主だったとは」

 宋江の父、宋太公と安道全は顔見知りだった。かつて宋江が持っており、武松が救われた処方薬も安道全のものだったのだ。

「わはは、そうと知っていれば、すぐに駆けつけたものを」

 などと言って笑う安道全を見て、張順がぐったりとした様子だった。

「いよいよですね」

 呉用が馬を寄せてきた。

「もう元宵節か」

 大名府を見下ろし、宋江が苦悩するように言った。

 盧俊義を救うのにこれほど時をかけてしまうとは。晁蓋だったなら、どうだったのだろうと考えてしまう。

「手筈は、呉用」

「万事済んでおります。あとは当日を待つだけです」

「梁世傑は元宵節を執り行うのだろうか。今年ばかりは門を開けぬのでは」

「そうするかもしれません。ですが大名府から軍を引き揚げ、もうだいぶ経ちます。そろそろ我々も諦めたと思うころでしょう。それに開催しなければ、ずっと緊張を強いられてきた住民たちは我慢の限界でしょう」

「そのためにも元宵節は、行われると」

「はい」

 よし、と宋江が馬首を返す。

 呉用はその後ろをゆっくりと追った。

 病は癒えたが戦など到底無理だ、と安道全が言っていた。

 自らの手で盧俊義を救いだせぬ事に気落ちしているようだが、これで良かったのだ。

 大名府との戦はこれで終わらせたい。そのためにはこれまで以上に激しい戦になるだろう。その矢面に、宋江を立たせたくはなかった。

 嫌でも晁蓋のことを思い出してしまうのだ。

 呉用は、宋江の背から目を逸らさずにいた。

 

 北京大名府の門が、十三日から開放された。

 呉用の推測が当たった。

「ちぇ、こんな簡単に入れるなんて、つまんねぇなあ」

 頭の後ろで手を組みながら、時遷が愚痴をこぼしている。燕青の頼みで、危険を顧みずに忍び込んだというのに。

 おや、と時遷が四つ辻にいる男たちに目を止めた。

 物乞いに扮した孔明と孔亮の兄弟であった。すでに大名府内に梁山泊から何人も忍び込んでいた。

 時遷が呆れた顔で近付いてゆく。

 おい、と声をかけられた孔兄弟は、ゆっくりと顔を上げた。

「役には成りきっているようだが、どう見ても物乞いにゃあ見えねぇぜ、あんた達」

「なんだ、何がいけないというのだ」

 孔亮がいきり立った。

「顔色が良すぎるんだよ。地元じゃ旦那さま、若さまと呼ばれてたんだってな」

 侯健の用意した変装用の衣服は完璧だ。だが孔明と孔亮の二人では、物乞いには見えない。肉付きが良く、こんな健康そうな物乞いなどいない。

 捕り手に見破られたらどうするんだ、などと言い合っているところ、時遷の肩を掴む者がいた。

「おい、何を騒がしくしておるのだ」

 びくりとした時遷は、とっさに懐に手を入れた。忍ばせている刀を握る。だが振り向いて、肩の力を抜いた。

 捕り手の扮装をした楊雄と劉唐だった。

「脅かしっこなしですぜ、旦那」

「あまりにも目立っていたんでな。これから大事が控えている。三人とも頼むぞ」

 そう言って楊雄と劉唐は、どこかへと向かって行った。

 孔兄弟と別れ、時遷は持ち場へと向かう。

 途中で道士の姿の公孫勝と、道童の姿の凌振とすれ違った。互いに目で合図を交わし、やがて時遷は目的の場所へとたどり着いた。

「ひゃあ、立派なもんだ。さて、ゆっくり見物と洒落こみましょうかねぇ」

 河北第一と謳われる、翠雲楼という楼閣であった。

 時遷は飄々とした足取りで、翠雲楼へと消えた。

 

 十五日、元宵節当日。晴れ渡った空に、人々の心は躍った。

 だが大名府軍はそうではなかった。大刀の聞達は飛虎峪に展開し、梁山泊や他の賊の攻撃に備えていた。

 一方、城内には天王の李成。いつもより厳重な配置をし、自らもその目を光らせている。

 梁世傑も、何事もなく過ぎ去ってくれと、祈るばかりだった。その祈りが通じたのか、夕方まではいつもの元宵節であった。

 月が出た。

 灯籠に火が入れられ、通りには仮装行列が練り歩く。

 留守司府や、翠雲楼の前には巨大な鰲山が鎮座しており、さまざまな飾りつけがされている。その周りには灯籠が無数にひしめいており、昼と見まごうばかりの賑わいであった。

 その中を、祭にそぐわぬむっつりとした顔で歩く男がいた。鉄臂膊の蔡福であった。

 人ごみの中をかき分けるように、蔡福は歩いた。顔見知りの人々から声をかけられるが、そっけない挨拶を返すだけで、足を止めることはない。

 やっと家に着いた。交代の刻限だったので帰ったが、これでは牢の詰め所で休んでいた方が良かった。

 そこへ二人の者が訪ねてきた。軍官とその下僕であった。

「久しぶりですね。今日はお願いがあって参ったのです」

 灯りに照らされたその顔は、柴進だった。柴進は連れの楽和を紹介し、話を続けた。

「盧員外と石秀は、元気でいますか」

 蔡福は言葉も出なかった。この元宵節に合わせて乗り込んできたのか。まさかとは思ったが、本当に来るとは。

 蔡福は覚悟を決めた。

 この分だと、すでに梁山泊の連中があちこちに潜伏しているのだろう。逆らえるはずもなかった。

「お久しぶりですな、柴大官人。盧俊義どのと石秀どのは、いま慶の奴が見てます。ええ、二人とも元気ですとも」

 しばらくして、役人の姿になった柴進と楽和を連れ、蔡福は牢へと戻って行った。

 通りはまだまだ賑わいに満ちていた。

 時太鼓が鳴った。もうじき、日付も変わろうという刻限だ。

 翠雲楼の欄干から、時遷がひょいと顔をのぞかせた。子どもなどはすでに帰った様子だが、通りはまだ祭りの喧噪に包まれている。

 時遷は、目を城壁に向けた。その向こうは暗闇が広がっていた。

「遅いな。時間だってのに、外は始めないのかよ」

 後ろにいた猟師姿の、解珍が通り過ぎざまに言った。

「さっき、物見の兵がすっ飛んでったぜ。きっと外の連中だ。俺たちも応援に向かうから、お前も始めるんだ」

「そうか。じゃあ、やるか」

 時遷は、髪飾り売りに扮していた。肩に掛けた籠を揺らして売り歩く風を装い、翠雲楼を上へ上へと登ってゆく。

 気がつくと時遷はそこにいなかった。仕込んでいた抜け穴を通り、壁の裏へと入りこんだ。すぐに時遷は、翠雲楼の天井裏にまで達した。

 籠をそっと置き、髪飾りを全て外へ出した。さらにその下にあった蓋を外し、中から何やら取り出した。それは硫黄や硝石だった。 

 それを手に時遷は、音もなく梁の端から端へと移動してゆく。

 そこには腕に長さほどの鉄の筒が据え付けられており、さらにそこから導火線が伸びていた。二日前から時遷が仕込んでおいたものである。

 そして時遷は筒の中に硫黄と硝石を定量ずつ、入れて回った。終わると籠の一番下から火打石を取り出し、にやりとした。

「仕掛けは上々。では始めるとしますか」

 時遷が導火線の端に火を点けた。火が鼠のように走り、さらに幾手にも別れた。時遷が耳に指を突っ込み、柱の陰に隠れた。

 その数瞬後、爆発音と共に巨大な火柱が、翠雲楼の屋根をぶち破った。

 元宵節の見物客たちは、それを花火かと思ったようだ。

 しかしそれは合図だった。

 大名府に忍び込んだ梁山泊の面々への、狼煙だったのだ。

 飛虎峪に陣取っていた聞達が、大名府へと逃げ戻っていた。

 梁山泊軍が、それも大軍で、攻め寄せてきたのだ。備えてはいたが、聞達だけで支えきれるものではなかった。

 残った兵をまとめて駆ける聞達は見た。大名府から、天を突く勢いで吹き上げる炎の柱を。そしてそれが見えた途端、梁山泊軍の追撃も、激しいものとなった。

「奴らを、城内へ入れるな。何としてもだ、周謹」

 聞達は、副将の周謹に叫んだ。

 周謹は兵を半分ほど率い、梁山泊軍に向かって馬首を返した。梁山泊軍の先頭を駆ける将は、手に狼牙棒を持っていた。霹靂火の秦明だ。

「矢だ」

 周謹が命じる。秦明に向かって矢が放たれる。秦明は狼牙棒でなんなく矢を弾くが、それで良かった。

 周謹がぶつからずに、脇へ逸れて駆けだす、それを秦明の隊が追った。戦力の少しでも、大名府から引き離したかったのだ。

 梁山泊軍との戦闘で、周謹は目を凝らし続けていた。索超がいるかもしれないと思ったからだ。

 索超は死んではいない。周謹はそう思っていた。そう思いたかった。梁山泊軍には秦明や呼延灼、そして関勝などのように官軍から降った者が少なくはない。しかしこの戦では、その姿を見ることはなかった。

 そして振り返った周謹は、思わずその身を固くした。

 そこに、楊志の姿があった。

 楊志は周謹を見とめ、馬の速度を上げた。

 横に並ばれた周謹は、手にした槍を繰り出した。楊志も同じく槍を放つ。激しい音が響き、馬が一旦離れた。

「楊志、よくもおめおめと顔を出せたものだ」

「悪運は、強い方だったようだ」

「戯言を」

 再び槍と槍が交差する。十合、二十合と火花が間断なく飛び散る。

 周謹の脳裏に、いやでもあの時の光景が甦る。楊志が北京大名府に流されてきた時である。梁世傑に気に入られた楊志と、試合をした。そして周謹は、完膚なきまでに敗れた。

 悔しかった。

 副牌という地位は守られたが、そんな事はどうでもいいと思うほど悔しかった。

 また馬が離れた。そろそろ馬も限界に近い。

 周謹が弓を構えた。楊志も弓を構えた。

 徐々に二人の間が離れてゆく。二人は弓を構えたまま睨みあっている。

 梁山泊本隊の方が騒がしくなった。鉦(かね)の音が聞こえた。大名府からの援軍が出たのだろう。

 ふいに楊志が構えを解いた。そして手綱を引き、来た道を戻ってゆく。

 周謹はその背に向かって弓を構えた。

 いまならば、射ることができる。

 だがついに、周謹は矢を射ることがなかった。

「索超どの」

 全身を汗に濡らした周謹が鞍から下り、馬を労った。

 遠目に見える大名府が、赤く輝いているようであった。

 

「一体、何事だ」

 李固が肌着だけの姿で、店の外を見回す。

 大名府の街が明るい。元宵節の灯籠のせいではない。どうやら街が燃えているようだ。

「なにが起きているの」

 同じく、しどけない身なりのままの賈氏が、こわごわと顔をのぞかせた。

 逃げ惑う人々は口々に、梁山泊だと叫んでいる。その言葉に魂が抜けるほど驚いた。

「まずい、奴らがついに乗り込んできた。荷物をまとめろ。早く逃げるぞ」

 唾を飛ばしながら指示し、李固も自分で金品や財宝を包みにまとめた。それを背負い、門から出ようとすると、外にいた凶悪そうな連中と目が合った。

 隠れろ、と賈氏の背を押し、自らも裏手に逃げた。

 賈氏の悲鳴が聞こえた。もしや捕まってしまったのだろうか。だが構わず李固は逃げた。背負った包みをしっかりと握っていた。

 裏手の川に舟がある。それならば逃げられるだろう。李固が舟に飛び乗り、胴の間へ入った時だ。むんずと、首根っこを掴まれた。

「私を覚えておりますか」

 燕青だった。

 目をこれでもかと見開いた李固だったが、声は出せなかった。

「おう、燕青。そっちも捕まえたか」

 張順が、賈氏を連れてやって来た。賈氏は縄で縛られていた。

 李固も同じように縛られた。汗をかき、息を荒くしている。

「え、燕青。お、同じ店で働いた、仲じゃあないか。た、た、頼む。命だけは、勘弁してくれないか」

「そうよ。あなたには良くしてあげていたじゃないの。覚えているなら、許してよ」

 燕青は、二人を醒めた目で見ていた。

 命乞いをひとしきり聞いた後、無言で二人に背を向けた。

 張順に引っ立てられ、李固と賈氏が連れられてゆく。

 城門を出ようというところで、、燕青を呼ぶ声があった。

 燕青は声の主、盧俊義を見とめると、ひざまづいた。李固と賈氏は悲鳴を上げた。

「幽霊でも見るような顔をしおって」

 張順は先に二人を梁山泊へと連行していった。

 盧俊義は、ひざまづいたままの燕青を肩に手を置いた。

「迷惑をかけたな。すまなかった。ありがとう、小乙」

 燕青は口元に笑みを浮かべていた。

 伏せられた目に、涙が溜まっていた。

「さあ、参りましょう、盧員外どの。城外に馬を待たせてあります」

「わかりました、柴大官人。小乙もゆくぞ」

 柴進が役人になりすまし、蔡福と共に牢へ入った。蔡福は蔡慶と共に、盧俊義を牢から解放した。一緒に捕えられていた石秀は、柴進と共に来ていた楽和と戻って行った。

 盧俊義が燃える大名府を見て、目を眇めた。

 店も、妻も、失った。

 だが盧俊義の横には、いつものように燕青が控えていた。

 晁蓋よ、まだそっちには行けぬようだ。

「燕青。来るか」

「旦那さまがゆくところ、どこまでも」

「よし、行くぞ。梁山泊へ」

 盧俊義が外套を翻し、城門へ向かった。

 盧俊義の目は、晁蓋と野を駆けていた、あの頃の目によく似ていた。

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